マツダの波乱万丈史 - マツダはなぜ生き残れたのか - 再三の危機からの復活劇

03/07/2026

海外進出日系企業研究

t f B! P L

今回は私が海外駐在している時に印象深かった日系企業からマツダについてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/34RxFU1HYIo

現在のマツダは独自の技術開発とブランド戦略で熱心なファンを惹きつける世界的な自動車メーカーですが実は過去に何度も経営危機に陥りそのたびに奇跡のような復活を遂げてきた会社です。

私が最初にその存在感を実感したのはドイツ駐在時代でした。私がドイツに駐在していた1991~1995年当時ドイツで最も目にする事が多かった日本車はマツダカペラ(現地名:マツダ626)だったのです。

マツダは1987年に日産に首位を一時的に譲ったのを除き1990年まで西ドイツにおける日本車販売のトップに君臨していました。東西ドイツ統合後の1991年以降は統合特需で販売台数が伸びた結果マツダは販売台数は伸ばしたもののトヨタ・日産に次ぐ3位となったのですが街で見かける日本車は依然としてマツダが目立っていたのです。高品質で値段が安いというコスパの良さが人気の理由という事でした。マツダはドイツ人の好みを意識してシートを固めにする等の対応をしていたそうです。

マツダはドイツ・デュッセルドルフ郊外のレバークーゼンに販売子会社(ディストリビューター)を設立しておりその販売子会社には伊藤忠がマイナー出資して総務経理担当役員を派遣していました。

以前の投稿"カルロス・ゴーンの功罪と日産の現在"でお話しした様にトヨタ・ホンダ・日産・三菱と総合商社の取引はキッチリと色分けされていたのでスズキ・マツダ・スバルは伊藤忠と日商岩井(現双日)が国毎にテリトリー分けをしていました。以前の投稿"スズキの海外展開"で触れたスズキのハンガリーにおける製造・販売子会社マジャール・スズキにも伊藤忠はマイナー出資して役員を派遣していました。

マジャール・スズキ

伊藤忠から派遣されているマツダドイツの役員とマジャール・スズキの役員は同じ伊藤忠自動車部に所属しているのでお互いによく知っていたのですがマツダドイツの役員が「マジャール・スズキの役員がハンガリー政府に働きかけて自動車完成車に対する輸入関税を導入させたのでマツダドイツのハンガリー向け輸出が激減した」とこぼしていました。

私がロシアに駐在していた2008~2014年の時もモスクワの販売子会社マツダロシアと関りがあったのですが伊藤忠はマツダロシアには出資しておらず人も派遣していませんでした。

マツダは2012年にロシア最大の鉄鋼会社セヴェルスターリの子会社ソラーズと合弁でウラジオストックに工場を建設しノックダウン生産を開始しました。

ロシア政府は極東地域の経済振興を図っていたのでウラジオストックでの生産には通常のロシア国内ルールよりも緩やかな特例条件が適用されたからだと思います。私は2013年にウラジオストックに出張する機会がありマツダの合弁工場も訪問しました。ウラジオストックはモスクワに比べるとずっと小さな街なのですが海の近くまで山が迫っている風景が日本に似ていて懐かしさを感じました。

ウラジオストック

ソラーズは三井物産と合弁でトヨタ車のノックダウン生産もウラジオストックで行っていました。ソラーズはいすゞとの合弁でロシアのタタルスタン共和国エラブガに工場を建設しノックダウン生産を行っていました。


ロシアのクリミア侵攻後の2015年に三井物産は合弁を解消して撤退し2022年のウクライナ侵攻後にマツダといすゞも撤退しました。

さてここからはマツダの歴史についてお話しします。マツダの歴史はまさに"波乱万丈"です。幾多の危機に直面しながらそれを乗り越え蘇ってきました。

マツダの源流は1920年に広島に設立された東洋コルク工業株式会社です。元々はコルクの製造・販売を手がける企業だったんですね。

マツダの実質的な創業者である松田重次郎は機械事業への進出を決めて1927年に社名を東洋工業株式会社に改称しました。

松田重次郎

東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出したのですが松田重次郎は独自製品として自動車製造への進出も考えていました。1931年に三輪トラックの生産を開始し1932年には国内シェア25%を獲得、売上は急拡大し海外へも輸出しました。

マツダ号DA型

松田重次郎は次に四輪自動車生産の検討を始めたのですが東洋工業は軍事体制に組み込まれていたので四輪自動車生産は実現不可能でした。東洋工業は1938年1月に軍需工業動員法によって陸海軍共同管理工場に指定され軍部の直接管理を受けていたのです。軍国主義の流れが軍需一本槍となる中で民生品の生産は圧迫を受け1943年には三輪トラックの生産台数はゼロとなりそのまま終戦を迎えました。

東洋工業は終戦から4ヶ月後には三輪トラックの生産を再開しマツダ号GA型10台を完成させました。

マツダ号GA型

東洋工業本社が原爆の爆心地から5.3kmしか離れていない事を考えると驚異的な切り替えの早さですね。その後の日本経済の復興に合わせて東洋工業は三輪トラックの大型化を進めます。1959年発売のT1500とT1100は1974年の受注生産打ち切りまで10年以上生産されました。私が運転免許を取得した1977年当時は街中でよく東洋工業の三輪トラックを見かけたものです。

東洋工業は同時に四輪自動車の開発も進め1958年に小型四輪トラックを発売します。

1960年には軽四輪乗用車R360クーペを1962年にはキャロル360を発売し、この両車は大ヒットを記録しました。R360クーペは戦後の国産車で初めて"クーペ"を名乗った車でした。

R360クーペ

キャロル360

東洋工業は軽四輪に続いて小型自動車の市場を見据え1963年からファミリアシリーズを発売します。ファミリアシリーズはイタリアのベルトーネがデザインを担当し個性的で美しいイタリアンデザインで商業的に成功を収めました。


初代トヨタカローラの主査は当時ライバルであった日産サニーよりもファミリアセダン800を高く評価していて「どうしてマツダさんはあの車にもっと力を入れなかったのだろう」と言っていたそうです。

東洋工業がファミリアに十分なリソースを回せなかったのはロータリーエンジンに注力していた為でした。さてここからはマツダの"波乱万丈"の危機の一つ目、ロータリーエンジンについてお話しします。

1957年に西ドイツのNSU社とWankel社が共同研究で試験開発に成功したのがロータリーエンジンです。

東洋工業がロータリーエンジンの実用化に挑戦した背景には通産省が1961年5月に出した"自動車行政の基本方針(後の特定産業振興臨時措置法案:特振法案)"がありました。通産省は貿易自由化と資本自由化の結果として日本の自動車産業が駆逐される事が無い様に自動車産業を特定産業に指定し合併ないし整理統合と設備投資を進める事を目指したのです。その後の我が国の自動車産業の発展を見ると余計なお世話と感じてしまいますが当時弱小だった日本の自動車産業をビッグ3他、強力な欧米の自動車メーカーとの競争から守らなければならないという通産官僚の思いは城山三郎原作のTVドラマ「官僚たちの夏」などを見ると分からないでもない気になります。

東洋工業はロータリーエンジンを切り札として通産省主導の再編による吸収合併を避ける事を狙ったのでした。

ロータリーエンジンの実用化には技術的な問題が多くあったのですが東洋工業はそれらを克服して1967年に世界初の実用・量産ロータリーエンジン車としてコスモスポーツを発売します。

ロータリーエンジンの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし東洋工業は"ロータリーのマツダ"という最先端のイメージでロータリーエンジンを搭載したモデルを次々と発売し販売の主力に据えました。1970年米国で排出ガス規制を大幅に強化するマスキー法が発効し自動車業界はかつてない技術的困難に直面していましたが東洋工業のロータリーエンジンはホンダが開発したCVCCエンジンとともにこの規制をクリアします。東洋工業は大規模な設備増強を決定し増産工事に続いてロータリーエンジンの新工場建設に取り掛かり研究開発費を含めた総投資額は600億円にも及びました。この間もロータリーエンジン車の販売は国内外で好調で特に主要な輸出先である米国では輸出した車の7~8割をロータリーエンジン車が占めるほどでした。

米国のみで販売したRE搭載のピックアップトラック

1973年第4次中東戦争の勃発を契機に第1次オイルショックが発生し同年12月に日本の自動車市場は前年同月比75.6%と大幅な落ち込みを記録しました。需要の冷え込みを受けて他社がいち早く減産体制を敷く中、東洋工業は「オイルショックによる物資不足は一過性のものであり購買活動が自動車へと戻る際に備えて作り溜めをしなければならない」と判断して増産体制を取り続けました。この判断は後に会社の運命を左右する大きな賭けとなりました。

ところが翌1974年1月米国環境保護庁(EPA)が「ロータリーエンジンは通常のエンジンと比較して約50%程度多くのガソリンを消費する」との報告を発表しオイルショックとこの指摘の影響が重なった事で東洋工業は極度の販売不振に陥り国内外で抱える在庫台数は20万台にまで積み上がり財務状態が急速に悪化します。1974年10月期決算では173億円の赤字を計上する事態となりました。

通産省からの要請を受けて東洋工業の経営実態の調査を進めていたメインバンクの住友銀行が東洋工業の再建を主導するのですが住友銀行は東洋工業単独での生き残りは困難であると考え提携先を探す事にしました。住友銀行は当初国内自動車会社との提携を模索したのですが実現せず東洋工業がプロシードをOEMとして輸出していたフォードにアプローチし1979年フォードが東洋工業に25%出資する資本提携が実現しました。

この資本提携はフォードにも良い影響をもたらした様です。1993年に出版されBPR(ビジネスプロセス・リエンジニアリング)の火付け役としてビジネス界に大きな影響を与えた名著「リエンジニアリング革命」にそのエピソードが登場します。

1980年代初頭フォードの買掛金部門には500人もの従業員が在籍しており請求書と納品書・発注書の照合に多大な時間と手間が掛かっていたのですが東洋工業の買掛金処理部門がわずか5名で同規模の業務をこなしている事を知りフォード経営陣は衝撃を受けました。フォードは業務の根本的な再設計(BPR)により同部門の従業員を四分の一以下の規模にまで劇的に削減する事が出来たそうです。

   
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1978年にはロータリーエンジン搭載の本格スポーツカー・サバンナRX-7を発売し日米で大ヒットを記録します。

さらに1980年にはハッチバック車の5代目ファミリアが発売され斬新なデザインと圧倒的な燃費の良さに加えて手頃な価格が話題を呼び当時の若者達に圧倒的に支持されてヒットしその年の第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。

続いて1982年に発売された4代目カペラも大ヒットして第3回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞しこれらの車種の販売が好調に推移した事やフォードとの資本提携が下支えとなり東洋工業の業績は回復して7期連続で増収増益を果たします。

この4代目カペラが5代目ファミリアとともに西ドイツで人気を博しマツダを西ドイツにおける日本車販売のトップに押し上げました。初めにお話しした通りこの4代目カペラが私がドイツに駐在していた1991~1995年当時最も目にする事が多かった日本車です。

1984年には社名を東洋工業からそれまでブランド名として使用してきたマツダに変更しました。

ところが1985年先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でプラザ合意が発表されると1ドル250円だった為替レートは1年後に150円台にまで急騰し自動車を始めとした輸出比率が高い産業を直撃し輸出比率が68%にも達していたマツダは大きな打撃を受けました。円高は自動車各社の目を一斉に国内市場に向けさせ円高と国内販売競争の激化でマツダの収益は悪化しました。

1988年5月マツダは1992年度を最終年度とする中期経営計画「MI(マツダイノベーション)計画」を開始します。「B-10計画」と呼ばれる国内販売拡大策をその柱とし国内販売台数をそれまでの約40万台からシェア10%にあたる80万台にまで増やす事で輸出に依存した経営体質を改め「1ドル100円でも2兆円の売上と1,000億円の経常利益を確保する」という目標を掲げました。

「B-10計画」に基づきマツダは従来の「マツダ」「マツダオート」「オートラマ」の3つの販売チャンネルに新たに「ユーノス」と「オートザム」の2つを加えトヨタや日産と同等の国内5チャンネル体制として1,500店余りだった店舗数を3,000店近くにまで増やします。

マツダオートは1991年にアンフィニに名称変更しました

この拡大策は当初一定の成果を上げ1990年には生産台数が140万台に達して過去最高を記録し国内販売台数も60万台と最高記録を更新しました。しかしその後のバブル崩壊とともに販売台数は急速に減少し1993年度から3年連続して大幅な赤字を計上します。1995年度の生産台数は77万台とピーク時の1990年からほぼ半減し国内販売台数もわずか35万台に留まりました。販売チャンネルと車種を増やした事で営業や生産にかかる費用が増大しマツダの名ではなくチャンネルの名称やシンボルマークを冠した商品の投入を続けた事でブランドも毀損しました。

住友銀行はマツダを再び再建させるには銀行主導では限界がありフォードの世界戦略への編入以外に生き残る道は無いと判断します。住友銀行の要請に応じたフォードは1994年に4人の社員をマツダに派遣し実質的にマツダの経営を掌握しました。1996年4月マツダはフォードに対する第三者割当増資を決定してフォードの出資比率は24.5%から33.4%に高まりマツダは正式にフォード傘下に入ります。

フォードから派遣されて社長に就任したヘンリー・ウォレス

1996年頃マツダの有利子負債は7,000億円を越えていた上、生産台数はピーク時の約半分に落ち込んでいたのですがフォードから派遣された役員は増えすぎた車種の整理と販売チャンネルの簡素化やフォード車とのプラットフォームの共通化を進め1996年には短期間で開発したコンパクトカーのデミオが予想を超えるヒットを記録し翌1997年9月の中間決算では5年ぶりに営業利益が黒字に転じました。

1999年12月には専務で新ブランド戦略策定の中心人物であるマーク・フィールズが社長に昇格し2001~2002年にかけて新生マツダを象徴する主力車種であるアテンザ・デミオ・アクセラといったモデルの投入によって業績は回復します。全く新しいマツダブランドの商品を開発する作戦は成功を収めました。マーク・フィールズは2002年にフォードの欧州事業の責任者2005年に北米事業の責任者を歴任し2012年にフォードのCOOに2014年にCEOに就任します。

マーク・フィールズ

フォード傘下で順調に業績を回復したマツダを襲ったのがリーマンショックでした。GMとクライスラーが経営破綻して政府管理下に置かれる中、フォードは巨額の資金調達を行って自力再建の道を選び倒産を回避しました。この資金調達の為にフォードは傘下のブランドの売却を行います。フォードが売却したのはマツダの他ボルボ・ジャガー・ランドローバー・アストンマーチン等でした。ここで12年間続いたフォード傘下のマツダの時代は終わりを告げます。

リーマンショック後に円相場が急激な円高に振れた事で輸出比率の高いマツダは大きなダメージを受け2009年3月期には赤字に転落します。さらに2011年にかけて東日本大震災やタイの洪水といった事態が続き最終的にマツダの業績は2012年3月期まで4年連続の赤字に陥りました。こうした中マツダは環境に配慮した独自の技術"SKYACTIV TECHNOLOGY"を開発して2011年から新車への搭載を開始しスカイアクティブ技術を搭載した車種の好調な売れ行きを背景にマツダは黒字に転換しました。

2016年3月期決算では過去最高の営業利益2,267億円を記録し2018年3月期には販売台数が163万台と5年連続で過去最高を更新しました。

2017年トヨタとマツダは互いに500億円ずつ株式を持ち合う資本業務提携で合意し米国での生産合弁会社の設立、電気自動車に関する共同技術開発といった提携内容を発表しました。現在のマツダに対するトヨタの出資割合は5.1%です。

ダイハツの例ではトヨタが最初に16.8%出資したのが1967年で1996年に33.4%、1998年に51.2%に引き上げ2016年に完全子会社化しています。1967年にダイハツがトヨタと業務提携して出資を受け入れた背景には前述の通産省の特振法案がありました。この最初の出資から50年近い時間をかけて完全子会社化するのはトヨタらしい丁寧な対応と言われています。

さて今回のマツダのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。マツダという社名は実質的な創業者である松田重次郎にちなんだものですが、英語表記Mazdaはゾロアスター教の最高神"Ahura Mazda"から取られたものだそうです。

Ahura Mazda

アフラ・マズダーは「光輝き純粋で甘く香り善を成す」という属性を持つ神と言われます。マツダというちょっと特異な自動車メーカーがこれからどのような道を歩んで行くのか目が離せないですね。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/34RxFU1HYIo

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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