小説「炎熱商人」解説&考察 - フィリピン駐在員必読書 - どうすれば支店長襲撃事件は防げたか

20/10/2023

フィリピン

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今回は私のフィリピン駐在経験も交えながらフィリピン駐在員必読の書と言われる深田祐介の小説"炎熱商人"についてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/tf91_8ODjtI

この小説は1971年の住友商事マニラ支店長射殺事件をモチーフとしたもので、1980年11月から1982年2月まで週刊文春に連載されて1982年に直木賞を受賞し、1984年にはNHKドラマスペシャルで3時間のTVドラマとして放映されました。

TVドラマには緒形拳、中条きよし、松平健、勝野洋、にしきのあきら、梶芽衣子、市原悦子、藤岡琢也、佐藤慶、高峰三枝子等が出演しています。

50年以上前の事件を基に40年以上前に発表された小説ですが今読み返してみても全く古びた感じがしません。

それでは私のフィリピン駐在経験に基づく感想を交えながらざっくりとあらすじをお話ししたいと思います。主人公は1932年に日本でフィリピン人の父親と日本人の母親の間に生まれたフランク佐藤ベンジャミンです。TVドラマでは中条きよしが演じていました。一家はフランクの誕生後にマニラに帰るのですがフィリピン人の父親が親日家であった為、フランクはフィリピン名の他に"佐藤浩"という日本名を与えられ1938年にマニラ日本人学校に入学します。

戦前のマニラ日本人学校

フランクは戦後マニラ日本大使館領事部に勤務していたのですが1955年に日本の大手総合商社"鴻田貿易"の初代マニラ事務所長に引き抜かれ、それ以来鴻田貿易マニラ事務所(1970年支店昇格)に勤務しています。

小説は1970年から1971年にかけての鴻田貿易マニラ支店における日本向けラワン材輸出の新規ビジネスの話と、1941年12月8日の真珠湾攻撃から1945年8月の敗戦までのフィリピンの話が並行して進みます。小説の中では二つの時代を行ったり来たりしながら話が進むのですが、あらすじは並行せずにそれぞれに分けてお話しします。

まずは戦前の話からです。前述の通り主人公のフランクは1938年にマニラ日本人学校に入学します。戦後のマニラ日本人学校は日本人駐在員が同伴する子弟の増加に伴って1968年に補習校として開設され、その後全日制に移行したものです。一方戦前のマニラ日本人学校は主としてフィリピンに入植した日本人移民の子弟を受け入れる目的で1917年に開設されました。

戦前のフィリピンは米国の植民地で日本より遥かに豊かだったのです。フィリピンは戦後も60年代までは"アジアの優等生"と呼ばれて経済的に先行していました。アジア開発銀行(ADB)や世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局がマニラに置かれているのはその為です。

戦前貧しかった日本から豊かなフィリピンに渡った日本人移民はフィリピンに根を張って行くのですがその生活が一変するのは日米開戦です。

日本軍は真珠湾攻撃の直後からフィリピンへの進攻を開始し1942年1月2日に首都マニラを陥落させます。フィリピンの日本人移民は開戦後すぐに収容所に強制収容されるのですが進攻してきた日本軍によって解放されます。

フランク少年はフィリピン人の父親の実家があるマニラの北約150kmのギンバという村に疎開して強制収容を免れるのですが、そこでリンガエン湾に上陸して進攻してきた日本軍の憲兵隊の馬場少尉に会います。

馬場少尉は主要登場人物の一人で石原莞爾に心酔して「日本人は王道の精神を持って、暴力ではなく徳の力をもってアジアの民族に接しなくてはならぬ」と言うのが口癖です。

石原莞爾は満洲国を満洲人自らに運営させる事を重視してアジアの盟友に育てようと考えており、これを理解しない東條英機を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりするなど対立が先鋭化し日米開戦前に予備役に編入されるのですが、真珠湾攻撃の翌日に「日本はフィリピンを占領せずに完全独立を声明して不可侵条約を結べ」と演説したそうです。

石原莞爾の発想は「日本が米英に対抗する為にはアジア諸国を味方にする必要がある」という"目的の為の手段"なのですが、馬場少尉は"徳の力をもってアジアの民族に接する"という理想に燃えます。TVドラマでは勝野洋が演じていました。

馬場少尉は開戦の翌年(1942年)に中野の憲兵学校の教官として一旦帰任するのですが1943年に中尉に昇進してマニラに戻ってきます。米国は1942年6月のミッドウェー海戦を契機に反転攻勢に転じ、それに伴ってフィリピンにおけるゲリラやスパイ活動も活発化していました。ゲリラやスパイというのは民間人に紛れて活動するので、それを厳しく取り締まろうとするとどうしても無関係な民間人にまで危害を加えてしまう事になり日本軍がフィリピン大衆に憎まれる原因となりました。

馬場中尉の所属する憲兵隊はゲリラ・スパイの取り締まりを所管する部隊なのですが、そんな環境下でも馬場中尉は"美しい日本人"として"徳の力をもってフィリピンの人々に接する"事に努めます。

馬場中尉は大尉に昇進して以前フランク少年が疎開していたギンバ村に近いカバナツアンの憲兵分隊長となり、小学校卒業後に軍属として通訳の仕事をしていたフランク少年を自分の分隊に引っ張ります。フランク少年は当初マニラの野戦軍貨物廠で働いていたのですが、そこで拷問による窃盗犯の取り調べの通訳をさせられてショックを受けた話を馬場大尉が聞いて、自分の手元で守る為にフランク少年を呼び寄せたのです。

小説は戦況が厳しくなるに従ってフィリピンの人々に対する苛酷さをエスカレートさせる日本軍と、そんな中でも"王道政治"の理想を貫く為にフィリピンの人々を守ろうと奮闘する馬場大尉を描きます。

フィリピンから脱出する時に"I shall return."と言った通りマッカーサーは米軍を率いて1944年10月にレイテ島に上陸し反攻を開始します。

米軍統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示していましたが、マッカーサーが自身の面子の為に敢えてフィリピンに進攻したと言われています。マッカーサーの思い入れの無い台湾は素通りされたので空襲はあったものの地上戦はありませんでした。

1945年1月に米軍は馬場大尉とフランク少年のいるカバナツアンまで進攻して来ます。馬場大尉は「カバナツアンで徹底抗戦すれば現地住民を巻き添えにする」として、既に北部山岳地帯に撤退して持久戦に備えている本隊を追ってカバナツアンを脱出する事とします。その時点でカバナツアンは米軍の戦車部隊に完全に包囲されていた為、夜陰に乗じて大量の砲弾・火薬を積載した2台のトラックで米軍の戦車群に突入し、その隙に日本軍の部隊が現地住民を誘導してカバナツアンを脱出する、という作戦を立案します。馬場大尉と他の3名は2台のトラックに分乗して米軍の戦車群に突入します。

陽動作戦の隙にカバナツアンを脱出したフランク少年は最終的にカバナツアンの北西90kmに位置するアシン渓谷に逃げ込みます。アシン渓谷には日本軍兵士と在留邦人の計5万人が逃げ込み食糧不足に加えてマラリヤ・デング熱・赤痢によって"死の谷"と化すのですが、フランク少年はなんとか生き延びて終戦を迎え米軍に収容されて助かります。

アシン渓谷

戦後もずっと馬場大尉の消息は不明のままだったのですが1971年8月に日本に出張した折に、フランクは戦後初めて再会した日本人学校時代の友人の女性から馬場大尉の最期について聞く事になります。その女性は終戦直後に収容所にいた時にフィリピン兵が馬場大尉の名入りの煙草入れを持っているのを見かけて話を聞いたのです。トラックから飛び降りた馬場大尉が大ケガをして倒れているところに通りかかったその兵隊が、馬場大尉の耳や鼻を削いで他にも傷をつけた上で傷口に塩を塗り込んで放置して置いたら、翌日死んでいたので胸ポケットに入っていた煙草入れを煙草ごと盗ったとの事でした。

フィリピン兵がそこまでやったのは、馬場大尉が憲兵隊の将校の襟章を付けていたからです。ゲリラ・スパイの取り締まりを所管する憲兵隊は殊更にフィリピンの人々の憎悪の対象だったのです。

ここまでが戦前のフィリピン部分のあらすじです。フィリピン駐在員が知っておくべき戦前の日本人のフィリピン入植や真珠湾攻撃後のフィリピンにおける日本軍の様子などがこの部分で描写されている事も"必読"と言われる所以です。

次に1970年から1971年にかけてのあらすじをお話しします。話は1971年1月に鴻田貿易本社木材部からマニラ事務所にテレックスが入るところから始まります。

テレックスはファックスが普及する前に海外との連絡に使われていた通信手段です。以前の投稿"海外駐在員今昔物語 - 半世紀を振り返って - TELEXを知っていますか?"で詳細を説明していますので、ご興味のある方はご参照下さい。この数カ月前に鴻田貿易マニラ事務所に着任したばかりの小寺所長がもう一人の主要登場人物です。TVドラマでは緒形拳が演じていました。

テレックスの内容は「木材に関する新規取引の話があるので担当者を出張させる」というものでした。鴻田貿易はフィリピンにおける木材ビジネスで他の総合商社に後れを取っており木材部から派遣された駐在員が居なかったのです。

総合商社は事業部門毎の独立採算が徹底しており海外拠点の利益は夫々の事業部門に付け替えられるので、駐在員は原則として自分が所属する事業部門の仕事しかしないのです。所長の小寺も食品等の輸入を所管する本社物資部から派遣された駐在員です。

総合商社の事業部門毎の独立採算制と各事業部門から海外拠点に派遣された駐在員と海外拠点長の関係の詳細は、以前の投稿"5大総合商社の歴史と今"で触れていますので、ご興味のある方はご参照下さい。

さて本社木材部外材課から出張してきた鶴井課長補佐が持ってきた新規ビジネスは、"荒川べニヤ"という合板メーカーから持ち込まれたルソンのラワン材の輸出でした。当時合板には専ら品質の良いミンダナオ産のラワン材が使われていたのですが、荒川ベニヤは建設現場でコンクリートを流し込むための型枠として使用される合板のコンパネ(コンクリートパネル)に、より安価なルソン産のラワン材を使う事を検討していました。フィリピンのミンダナオ産ラワン材輸出で先行している他の総合商社は安価なルソン産ラワン材には関心を示さないと考えて、荒川ベニヤはフィリピンの木材ビジネスに出遅れていた鴻田貿易に話を持ち込んだのです。

赤枠部分がコンパネ

前述の通りマニラ事務所には木材部から派遣された駐在員がいなかったので、小寺はそれまで機械部から派遣された駐在員の下で仕事をしていたフランクを木材ビジネスを担当するマネージャーに昇格させ、自分がマニラ事務所木材部長を兼務してスーパーバイズする事とします。小寺は馬場大尉に似たキャラクターの人物として描かれフランクは事ある毎に馬場大尉を思い出します。

小寺は社内の会議の場でアダム・スミスの"国富論"を引用して、「商業は個人間でも国家間でも"共同と友情の紐帯"であるべき」と言います。

アダム・スミス

更に「このアダム・スミスの啓蒙思想をアジアで実現したのがシンガポールの建設者、ラッフルズだ」と続けます。小寺はラッフルズの言葉「イギリスの名をしてアジア諸国民の間に荒廃を招く嵐として記憶せしむるな、圧迫の冬枯れ時(どき)から生命を蘇らせる春の微風(そよかぜ)として記憶せしめよ」と言うのを意識しているのです。

シンガポール川と金融街を背にするラッフルズ像

小寺とフランクはルソン島の国有林の伐採権所有者を探し始めるのですが実績の無い鴻田貿易はビジネスを取り次ぐ木材代理店に相手にされず伐採権所有者探しは難航します。しかし小寺の妻がゴルフを通じて偶然知り合ったフィリピン人女性の夫の上院議員がフィリピンの木材業界を統轄するPLPAの役員であった事から、伐採権所有者を紹介して貰ってなんとか無事にルソン産ラワン材のビジネスが始まります。

マカティの中心部にある高級住宅地フォルベスパークに隣接するマニラ・ゴルフ・クラブ

この新規ビジネスによってマニラ事務所の売り上げは一気に数倍となりB級支店へ格上げとなるのですが、小寺は本社木材部長から「B級支店格上げに合わせて本社から出張して対応していた木材部外材課の鶴井課長補佐をマニラ支店木材部のマネージャーとして赴任させたい」と打診されます。

出張中の鶴井が性格の悪さから取引先やフランク他の同僚と度々トラブルを起こしていた事もあり、小寺は「既にフランクを木材部マネージャーとしているので鶴井課長補佐は受け入れられない」と断るのですが、本社木材部担当常務からシンガポールのアジア地区統括支配人を経由して再度プッシュされて、今回獲得したルソン産ラワン材のビジネスを含め木材部のマネージャーの仕事は引き続きフランクが担当する事を条件とし、"新規企画・新規市場の開発専任の次長"という事で渋々鶴井の受け入れを承諾します。

この鶴井課長補佐は自信過剰で人の気持ちを考えない性格の悪い人物として描かれています。ローカルスタッフであるフランクを雑に扱ったりフィリピン人を見下すような態度を取ったりします。フランクは「鶴井という男は戦時中の参謀みたいなタイプだな」と感じます。鶴井の人物描写は極端なのですが現実の世界でもこの手の駐在員を時々見かけます。それも「炎熱商人」が"フィリピン駐在員必読"の理由なのでしょう。ローカルスタッフへの配慮とか戦時中の日本軍の行為が当該国の人々にどのように記憶されているか等、シンガポールなどフィリピン以外の東南アジア駐在員にも参考になる点が多いと思います。

小寺は鶴井の着任がフランクに与えるショックを慮ってフランクの自宅を訪ね事前に説明して了解を得ようとします。1ローカルスタッフである自分を慮ってわざわざ自宅まで来て頭を下げる小寺を見てフランクは感動します。小寺の中に馬場大尉を見るのです。

鶴井が着任して間もなく小寺とフランクが出張で留守の間にアグサン木材というミンダナオの伐採権所有会社の社長と副社長が訪ねて来ます。ラワン材の飛び込み営業でした。この売り込みに前のめりに対応した鶴井は両名が宿泊するホテルを訪ねて伐採権に係る書類を見せて貰い翌日早朝発の飛行機で現地を見に行きます。

鶴井が前のめりになる気持ちは分からないでもありません。既に走っているビジネスの担当が皆無の"新規企画・新規市場の開発専任次長"という立場からすれば、新規ビジネスの話に前のめりになるのは無理からぬところです。しかし初めての海外駐在でフィリピンに着任したばかりだからなのでしょうが警戒心が全く無いのが心配です。アグサン木材の2人がイスラムゲリラと内通していてミンダナオで誘拐されて身代金を要求される可能性だってゼロではないのですから。

以前の投稿"東南アジアで最も民主的な国、フィリピン(前篇)"でも触れましたが通常は日本人は誘拐のターゲットになりません。日本人駐在員を誘拐した場合その駐在員を派遣している企業に対して身代金を要求する訳ですが、日本企業は何に関しても決定が遅く時間がかかり過ぎるのでビジネスとしての誘拐のターゲットには不適なのです。ですが"可能性だってゼロではない"と言った通りリスクは存在します。海外、特にフィリピンでは信頼出来る紹介者を経由しない限り他人を信用してはいけません。

そんな事は気にせず現地を見て来た鶴井は益々前のめりになり小寺に報告する前に本社木材部の部長に報告してバックアップを依頼します。フィリピンにおける木材取引のビジネスで他の総合商社に後れを取っている木材部としては当然ながら全面的バックアップを約束します。基本的にリスク管理は現地の責任で本社木材部が口を出すところではないのです。本社木材部としてはリスク管理に責任が無いのでマニラ支店を煽るだけ煽る事になります。

当初このビジネスに乗り気でなかった小寺も舞い上がった鶴井と本社木材部長に押し切られる形でゴーサインを出します。このあたりは私のビジネス感覚からすると有り得ない判断です。小寺は知り合いの上院議員にも既に取引を始めているルソン材の伐採権所有者にも相談せずにゴーサインを出しています。折角既に信頼出来る業界人の知り合いがいるのに勿体無い話です。

この時点でアグサン木材の評判などを確認していればその後の悲劇を防ぐ事が出来たかもしれません。但しアグサン木材の悪い評判を確認して新規取引を見送った場合、本社木材部長と鶴井が社内で小寺を悪く言うのは間違いないでしょう。トラブル回避というのは発生していないトラブルへの対応なので評価され難いものです。トラブルに遭わない事を「単に運が良いだけ」などと言われたりします。

ゴーサインを出した後もアグサン木材とのビジネスが正式に始まるまでには紆余曲折があるのですが、小寺とフランクの努力でなんとか困難を乗り越えてラワン材の積み出しが始まろうとした時、本社木材部は最終契約単価をそれまでアグサン木材に仮提示していた1立方メートルあたりUS$35からUS$29に引き下げて来ます。「本社木材部が国内で販売する先の合板メーカーが値引きを要求してきたから」と言うのです。

それ以前の揉め事の際に鶴井はアグサン木材の社長と副社長に何度も口頭でUS$35を確約していたので、小寺は鶴井を外してフランクだけを連れてアグサン木材との交渉に臨みます。鶴井では絶対に交渉を纏められないという判断もあったと思います。

小寺は拳銃で脅されたりしながらもなんとかUS$29で話を纏めるのですが、その後本社木材部長に電話で報告した際のやり取りで、本社としてはダメ元でUS$29を提示しただけでUS$35でも受け入れ可能であったと感じ取ります。

この木材部長は悪役として描かれておりTVドラマでも典型的悪役の佐藤慶が演じているのですが、私はこの木材部長の対応はあながち間違っていないと感じます。ビジネスにおける値段交渉というのは常にこの様な駆け引きがあるものだからです。社内における交渉事は時として社外のそれよりも厳しいものとなったりします。こういった値段交渉において最初からギリギリの線を提示するのは上策ではありません。ある程度のバッファーを持っておくのが普通です。私が小寺の立場だったら本社木材部に情報漏洩しないように鶴井に厳命した上でアグサン木材には話をせずに「先方はUS$29は絶対に呑めないと言っている。貴部から派遣されている鶴井が口頭で確約したのが悪いのだからUS$35で買い取れ。」と一旦押し戻します。「鶴井をアグサン木材に行かせて値下げ交渉させた場合、命が危ないかもしれない。」と付け加えても良いかもしれません。

US$35からUS$29への値下げ交渉成功に味を占めた木材部長は再び値下げを言って来ます。今度はUS$25でした。これもビジネスの駆け引きでは良くある事です。前回の値引きで1回も抵抗が無かったので木材部長は「まだ相手はバッファーを持っている」と判断したのです。ビジネスの世界では1回甘い顔を見せると相手はどんどん付け込んで来ます。

小寺がシンガポール出張中で不在の時にその連絡を受けた鶴井は一人でミンダナオに出張してアグサン木材を訪問しUS$25への値下げを打診します。前回の交渉で自分が前面に立たずに迷惑をかけたから今回は自分でやろうと思ったのです。鶴井が小寺に報告せずに動いた事も問題ですが、それより悪いのは本社の意向をそのまま先方に伝えてしまった事です。これではまるでメッセンジャーボーイです。

訪問の翌日アグサン木材からUS$27のカウンターオファーがあるのですが、その報告を受けた木材部長はミンダナオ向けの木材運搬船の配船を止めるという手段に出ます。木材運搬船が来ないとミンダナオの積出港内の貯木場にあるラワン材は徐々に虫に食われて時間が経てば経つほど品質が大幅に劣化してしまうのです。木材部長はUS$25を呑ませる為に配船停止の強硬手段に出た訳です。

流石にそれは遣り過ぎだったようで小寺とフランクが本社に出張し社内の各部署に根回しして交渉した結果、木材部長はUS$27を了承して2隻の木材運搬船が直ぐに配船されます。フランクが戦後初めて再会した日本人学校時代の友人の女性から馬場大尉の最期について聞いたのはこの出張の時です。

ところが間の悪い事にその直後の1971年8月15日にニクソン米国大統領が金・ドル交換停止他のドル防衛策を発表します。ニクソンショックです。US$1=360円の固定相場制が終わり変動相場制に移行した結果、円はドルに対して大幅に値上がりします。

これはラワン材の輸入にはプラスに働くのですが、日本の輸出産業に対しては大きなマイナスのインパクトとなる為、日本が不況になって国内の木材需要が激減してしまったのです。以前の投稿"スズキの海外展開 - スズキのどこがすごいのか -"でも触れましたが、リーマンショックの際には、ロシアにおける自動車販売が急減した結果、日系自動車メーカーはロシア向けの自動車専用船から完成車を陸揚げ出来ない事態となりました。新車置き場が完成車在庫で溢れてしまったのです。

ニクソンショックの際には日本の貯木場で同じ事が起きました。貯木場が溢れて木材運搬船が荷降ろし出来ずに多くの木材運搬船が東京港外の当錨地に列を作る事態となったのです。その結果2隻の木材運搬船がミンダナオに到着した後また配船停止となってしまいます。

今度は木材部長の陰謀でも何でもないニクソンショックの結果なのですが前回の配船停止の直後だったので、アグサン木材は「また値下げ交渉をする為にわざと配船停止にしたのではないか」と疑います。

前回の配船停止とそれに続く今回の配船停止はラワン材の積み出しに携わるフィリピン人日雇い労働者の生活を直撃します。アグサン木材の副社長に仕向けられて彼等日雇い労働者の憎しみは無理な値下げ交渉を続ける鴻田貿易に向かいます。

アグサン木材の社長と副社長は収入が途切れた為に医者に診せる事が出来ずに息子を亡くし鴻田貿易に恨みを募らせた日雇い労働者を雇って小寺を襲撃させます。その日雇い労働者はマニラのスラム街で襲撃の協力者を集め、ゴルフ帰りの小寺、鶴井と荒川ベニヤからの出向者の3人が乗った乗用車を小寺の自宅の近所で襲撃、小寺は即死し鶴井は重傷を負います。

私がマニラに駐在していた2002~2006年当時でも殺人依頼した場合の料金の相場は日本円換算で10~20万円位という話でしたから、アグサン木材の社長と副社長からしっかり金を貰っている日雇い労働者は比較的簡単に協力者を見つけられたと思います。

フランクにはフィリピン人を守ろうと孤軍奮闘しながら最後はフィリピン兵に惨殺された馬場大尉と、ローカルスタッフやその他のフィリピンの人々に優しく接しながら襲撃されて命を落とした小寺支店長がダブって見えます。

アグサン木材と襲撃の関りは表面化せず襲撃犯は翌1972年にマニラのスラム街で警官隊と銃撃戦の末に射殺されます。この"警官隊と銃撃戦の末に犯人が射殺される"というのはフィリピンでは良くある事です。逮捕された犯人が自供すると都合が悪い人間がいる場合に警官が意図的に犯人を射殺するのです。一番多いのは警察が何らかの形で賄賂を受け取っている事を犯人が知っている場合ですが、この小寺支店長殺害犯のケースはアグサン木材の社長と副社長が警察に賄賂を渡して射殺を依頼したと考えられます。

さて今回の、小説"炎熱商人"についてのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。ご興味のある方は是非一度"炎熱商人"を読んでみて下さい。今回のあらすじでは触れなかった荒川ベニヤからの若い出向者とスペイン系フィリピン人令嬢のラブロマンスの他にも、馬場大尉と小寺支店長の多くのエピソード等が盛り沢山です。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/tf91_8ODjtI


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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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