今回はの投稿"シンガポール華僑粛清事件"の最後で触れたノモンハン事件についてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
"シンガポール華僑粛清事件"では「辻は関東軍がソ連軍機械化部隊に大敗した1939年のノモンハン事件の首謀者と言われています」とお話ししたのですが、今回の投稿作成にあたって調べたところノモンハン事件はソ連軍の圧倒的・一方的勝利だったのではない事がわかりました。
戦後長らくノモンハン事件に対する多くの日本人の印象は「機械化されたソ連軍部隊の前に肉弾突撃に頼る日本軍が一方的に殲滅された」というイメージでした。その評価が徐々に変わったのは1980年代後半です。ゴルバチョフが推進した情報公開(グラスノスチ)によってソ連側のプロパガンダによる過小な損害数のデータが公式資料で訂正されたのです。
2004年に行われた読売新聞の電話取材に対してモスクワ軍事史研究所主任専門官がソ連側の方が死傷者数が多かった事を認めています。ロシア国防省付属国立軍事資料館の公式資料では死傷者はソ連側19,485人日本側17,405人となっているそうです。半藤一利は「停戦後にソ連・モンゴルの主張に沿った国境策定となったので国境紛争としては敗戦だが戦闘そのものは互角だった」と言っています。
1984年に出版された「失敗の本質」では大東亜戦争史上の失敗例として六つのケースを取り上げているのですが、大東亜戦争には含まれないノモンハン事件が"失敗の序曲"として最初に取り上げられています。
「失敗の本質」はグラスノスチ以前に書かれたものですがそこで指摘されているノモンハン事件の失敗の原因は未だにその正当性を失っていないと思われます。日本側にもソ連側にも失敗があったから戦闘が互角になったと言う事だろうと思います。
「失敗の本質」で指摘されている失敗の原因の一つ目は「作戦目的が曖昧であり中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった」です。半藤一利の発言にあった通りノモンハン事件は国境紛争だったのですが戦場視察を行った東京の参謀本部作戦部長は部下に「あの様な大沙漠・なんにも無い不毛地帯を千メートルや二千メートル局地的に譲ったとしても何という事もないだろうに」と漏らしたそうです。"中央と現地とのコミュニケーション"とは東京の参謀本部と新京(現在の長春)の関東軍司令部とのコミュニケーションを指します。
まずはノモンハン事件の背景についてざっくりとご説明します。ノモンハン事件は1939年5~9月にかけて満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争です。満洲国は満洲事変により日本軍が占領した満洲(現在の中国東北3省:遼寧省・吉林省・黒竜江省)及び熱河省と内モンゴル東部を領土として1932年に成立した国家です。
一方のモンゴル人民共和国は1921年にソ連の支援を受けて中華民国から独立し1924年に一党独裁の社会主義国となりました。当時モンゴル人民共和国はソ連の傀儡国家と見做されていました。満洲国と日本の関係と同じですね。
モンゴルは長く清朝の影響下にあったのですが比較的北京に近い内モンゴルは清朝の体制に取り込まれていた一方で外モンゴルは間接統治が行われ清朝とは距離感がありました。なので外モンゴルが独立してモンゴル人民共和国となった後も内モンゴルは自治領として中華民国に留まったのです。
余談ですが以前の投稿"ロシアとインド"でお話しした通りソ連が仲介したこのモンゴル分割と対照的なのが大失敗が現在まで尾を引いているチベットです。英国は内チベットと外チベットに分割する事を提案したのですが英国の仲介が上手く行かず中国領とインド領に分割されてチベットという独立国は無くなってしまいました。中印国境紛争は未だに続いています。
1932年の満洲国成立に伴って内モンゴル東部が満洲国に取り込まれました。ノモンハン事件は満洲国とモンゴル人民共和国の国境を巡って夫々の支配国である日本軍とソ連軍が戦った戦争でした。両国国境のあるフルンボイル一帯は遊牧民が活動する人口密度の低い草原で国境が不明確だったのです。清朝支配時代に定められた外モンゴルのハルハ族と内モンゴルのバルガ族の境界線はあったのですが地形的に基準物が乏しく標識も一部風化していました。
満洲国と日本は従来の境界線は清の行政区分に過ぎないとの立場を取りハルハ河等を国境線と主張した為係争地帯が生じていたのです。
ここからは前述の"中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった"という部分についてお話しします。ノモンハン事件以前の関東軍の方針では国境警備は原則として満洲国の軍隊及び警察を以って行う事となっていました。東京の参謀本部は国境線を挟んだ小さな紛争等を問題とせずソ連軍情報の収集と対ソ作戦の研究・軍隊の錬成等に専念する様に関東軍に指示を出していました。当時日中戦争は3年目を迎えて泥沼化の様相を深めており参謀本部が他正面において事態を紛糾させたくないと考えたのは当然でした。ところが国境紛争が実際に発生した場合の具体的な処理方針と要領は関東軍に対して示されず兵力使用の適否と限度という重要な統帥事項が曖昧なままでした。
ここに関東軍第1課参謀辻政信少佐起案による「満ソ国境紛争処理要綱」が登場する素因があったのです。
辻は1937年から作戦参謀として関東軍司令部第1課に勤務していました。
辻は陸軍大学校卒業後に第9師団第7連隊第2中隊長として上海事変に参加して武勲を挙げているのですがその時に第9師団長だった植田謙吉が1936年に関東軍司令官になっていました。
また関東軍参謀長と参謀副長は共に第9師団第7連隊の出身でした。それだけでなく1939年3月の定期人事異動で参謀本部から関東軍司令部第1課に異動してきた3名(寺田大佐・服部中佐・島貫少佐)も辻と親しい人々でした。特に3名の内の一人服部卓四郎中佐は辻を強力にバックアップしてくれる存在でした。
半藤一利は「運命を司る神はおかしな事をするのである。魔性の人とも言うべき参謀に何故か一臂の力を貸す様な事をした」と書いています。辻は後年の著書で「当時の関東軍司令部ほど上下一体・水入らずの人間関係は無かった」と書いています。
この人間関係の下で辻が起案した「満ソ国境紛争処理要綱」は1939年4月25日に植田司令官から麾下の将軍達に示達されました。概要は以下の通りです。
1.ソ連の野望を粉砕する為にはまずその初動において徹底的にこれを封殺破摧(ふうさつはさい)する事が必要である。
2.国境線が不明確な地域においては防衛司令官が自主的に国境線を認定して第一線部隊に明示する。
3.ソ連軍が越境したならばこれを急襲殲滅しなければならないがその際一時的にソ連領に侵入しても構わない。
4.第一線部隊は事態の収拾処理は上級司令部に任せ兵力の多少に係わらず必勝を期さなければならない。
"防衛司令官が自主的に国境線を認定"するのは越権行為であり"一時的にソ連領に侵入しても構わない"というのは明らかな統帥権干犯でした。
関東軍は発令と同時にこれを東京の参謀本部に報告しましたが参謀本部は正式になんの意思表示もしなかったので関東軍としては作戦計画が容認されたものと考えました。当時の参謀本部作戦課長だった稲田正純が1957年に雑誌に寄稿した回想では「単に関東軍限りの立場で兵力使用の適否と限度を判断してはならない」と言いつつ「中央の意向はケースバイケースの方式で事態を紛糾拡大させないよう現地と密接に連係を取りつつ処理するという事」と続け「従って国境処理要綱についても以上の大筋に立脚した上で"受理しておく"といったところが真意である」「これらの中央の意向については幕僚連絡その他で十分に伝わっていた筈である」と言います。
この稲田作戦課長の煮え切らない対応の背景には関東軍の服部中佐・辻少佐との確執があったという人がいます。服部が中心となって参謀本部編成動員課で作業していた師団の連隊数変更(4→3)を1938年3月に作戦課長に就任した稲田が阻止したのが確執の原因だそうです。その確執故に稲田は関東軍から送達された処理要綱を紙屑同然に軽く扱ったと言うのです。
「失敗の本質」で指摘されている失敗の原因の二つ目は「情報に関してその受容や解釈に独善性が見られた」です。近代史に遅れて登場した日本は日露戦争をなんとか切り抜ける事によって国際社会の主要メンバーの一つとして認知されるに至りましたが、それが帝国陸海軍の"白兵銃剣主義""艦隊決戦主義"というパラダイムを確立させてしまったと言われます。
また第1次大戦を経験していなかった日本陸軍にとってノモンハン事件は初めての本格的な近代戦となりました。
「満ソ国境紛争処理要綱」では「ソ連軍は消極鈍重であり頭脳が粗雑で非科学的で精神力は欠けるところが大いにある」としています。以前の投稿"ロシアとドイツ"でお話しした様にソビエト領内でのドイツ軍の軍事訓練を認めるラパッロ条約の秘密の付属条項に基づき、国際監視の届かないソ連領奥地のカザン及びリペツクに独自の戦車学校や航空機工場・空軍学校を設けて、ドイツ国内では禁止されていた戦車部隊運用・軍用機訓練・ガス兵器の研究を進めドイツ将校のみならずソ連将校も共に教育を受けさせました。これらドイツ軍学校はソ連軍の近代化に大きく貢献したのです。ラパッロ条約はロシア帝国の債務引継を拒否して国際社会から承認を得られなかったソ連と敗戦国のドイツというヴェルサイユ体制から除外されていた国同士が手を結ぶものでした。この時のドイツはナチス台頭以前のワイマール共和政ドイツでした。ノモンハン事件は"白兵銃剣主義"の日本陸軍が初めて経験する本格的な近代戦だったのです。
日本軍は最新鋭の装備と圧倒的な物量を誇るソ連軍に白兵攻撃で挑みました。それでも互角だった原因として考えられるのは、1936~1938年にかけてスターリンが行った赤軍大粛清です。猜疑心の強いスターリンはナチスドイツに対する警戒から赤軍大粛清と言われる大量虐殺を行いました。元帥5人のうち3人・軍司令官級15人のうち13人・軍団長級85人のうち62人・師団長級195人中110人・旅団長級406人中220人・大佐級も四分の三が殺されます。スターリンは前述のソ連領内のドイツ軍学校で訓練・教育を受けたソ連軍将校がドイツのスパイになったと考えたのです。半藤は「この粛清によるソ連軍戦力の低下を日本陸軍は過大に評価した」と述べています。
1938年6月にソ連極東地方内務人民委員部長官のリュシコフ三等大将が粛清を恐れて満洲国に亡命して来ます。
超大物の亡命は日本陸軍のソ連軍蔑視に拍車をかけました。この時リュシコフは長大なソ満国境における彼我の兵力・戦力に相当の差のある事もあからさまに語ります。飛行機は日本の340機に対してソ連は2000機、戦車は日本の170輌に対してソ連は1900輌などです。日本軍首脳は驚き一時は浮足立ちましたが時間が経つとまたソ連戦力軽視へと戻って行きました。"情報の受容や解釈に独善性"という事ですね。
ここからは戦闘の流れを時系列で見て行きたいと思います。ノモンハン事件は1939年5月の第一次と同年6~9月の第二次に分かれます。
1939年5月11日にハルハ河東岸の国境線係争地区において約20~60名の外モンゴル軍と満洲国軍との間で武力衝突が発生します。
ハルハ河地区をその担当正面とする関東軍第23師団の小松原師団長は4月に示達されたばかりの「満ソ国境紛争処理要綱」に従って出動を命じました。
5月13~15日にかけて第23師団はハルハ河東岸の外モンゴル軍を攻撃し外モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退しました。しかしその後再びソ連・外モンゴル軍がハルハ河東岸に進出した為、小松原師団長は再び攻撃命令を下しました。5月27日に第23師団麾下の山県支隊がハルハ河へ向かって進撃を開始しましたが、圧倒的なソ連軍の砲撃を浴びて支隊主力は動けず、先頭の捜索隊200名は孤立してソ連軍の砲撃と戦車により全滅しました。
小松原師団長は5月31日に攻撃部隊に撤収命令を出し、第一次ノモンハン事件は終了しました。第一次ノモンハン事件における損害は日本軍は死傷者290名、ソ連軍及びモンゴル軍は死傷者369名で戦力が勝っていたソ連・モンゴル軍の方が大きな損害でした。
本格的な戦闘開始前の5月25日にモンゴルに急行しソ連軍の問題点を洗い出すよう命令を受けていたミンスクの白ロシア軍管区副司令官のジューコフは「5月28・29日の極めて非組織的な攻撃の結果わが軍は大きな損失を被った。戦術は稚拙で作戦指揮も構想力を欠いた」と辛辣な戦況報告を行っています。
第一次ノモンハン事件でソ連軍の指揮官であったフェクレンコ第57特別軍団長は更迭されジューコフが後任の軍団長となりました。ジューコフは後に独ソ戦を指揮した司令官です。ジューコフは第1白ロシア戦線司令官としてベルリンの帝国議事堂突入を指揮して勝利の将軍となりその後ドイツ駐留軍最高司令官に任命されました。モスクワの赤の広場に通じるヴァスクレセンスキー門のそばにはジューコフ元帥像が設置されています。
軍団長に就任したジューコフは早速先の戦闘で部隊を指揮した第57特別軍団参謀長・参謀部作戦課長と前線で戦った指揮官の3名を更迭しました。
一方の日本軍は敵の戦力を過少評価し敵の撃滅に失敗した小松原師団長も「捜索隊を見殺しにした」と非難された山県支隊長も留任させました。関東軍は捜索隊の全滅を隠匿して「敵を包囲して之に一大打撃を与えたり」とする過大な報告を行い、これを信じた大本営は30日に「ノモンハンに於ける貴軍の赫赫たる戦果を慶祝す」との祝電を関東軍に送りました。関東軍は植田謙吉司令官名で小松原に賞詞を送っています。これらを見ると以前の投稿"日本はなぜ敗れるのか"でお話しした敗因21カ条の10番目「反省力なきこと」を思い出しますね。
参謀本部は関東軍の暴走を抑止する為6月上旬に「ノモンハン国境事件処理要綱」を作成します。これは「関東軍の地位を尊重し信頼して処置は任せるが敵に一撃を加えたら速やかに撤退する」「事件の拡大を防ぐため航空部隊による越境攻撃は禁止」等関東軍の兵力使用に制限をかけるものでした。ところがこの要綱は参謀本部の腹案に留まり関東軍に正式に示達される事はありませんでした。示達されなかった理由について半藤は「作戦畑育ちの不思議な馴れ合い」と推測しています。「もう紛争は終わった」と言っている関東軍に気持ちを逆撫でする様な指令を送る必要は無いと判断したのだろうと言うのです。
参謀本部も関東軍もハルハ河がソ連軍の後方基地から650~750kmも離れている事から大兵力の移動・兵站線の維持は不可能と考えていました。第57特別軍団長に就任したジューコフは軍の指揮所をハルハ河から120kmも離れていたタムスクからハルハ河西岸のハマル・ダバ山に前進させ、日本軍の判断を遥かに上回る機動力を発揮して莫大な作戦資材を輸送し優秀な兵力を戦場に集中しました。これが第2次ノモンハン事件で日本軍がソ連軍の戦力を見誤る原因となりました。モスクワの日本大使館付駐在武官の土井明夫大佐がシベリア鉄道経由で一時帰国の途中に軍用列車で大量の戦車や重砲が送られている事を見て取り、6月中旬に新京で関東軍幕僚会議の席上その報告をするのですが関東軍司令部はそれも無視しました。
第1次ノモンハン事件後に第23師団の攻撃部隊が撤退するとハルハ河両岸のソ連・外モンゴル軍陣地は次第に強化されつつあると見られました。関東軍司令部はソ連・外モンゴル軍に対する攻撃を主張する辻が主導して攻撃計画を策定します。作戦方針は「軍は越境したソ連・モンゴル軍を急襲殲滅しその野望を徹底的に破砕する」と言うものでした。
ジューコフは第57軍団の戦力の増強を進めましたが特に力を入れたのは第1次ノモンハン事件の空戦で熟練の日本軍機に圧倒された航空隊の立て直しでした。
ソ連軍航空部隊の再訓練の目途がつくとジューコフは航空隊に出撃を許可し6月18日に15機のソ連軍爆撃機が越境し第2次ノモンハン事件が始まりました。当初は主として航空戦力によって互いに攻撃を繰り返していましたが6月30日に攻撃に関する日本軍の師団命令が下達され本格的な地上戦が始まります。
7月3日に開始されたハルハ河両岸攻撃、続いて歩兵の夜襲によるハルハ河東岸攻撃、退勢挽回を狙った砲兵戦主体の総攻撃は何れも失敗し、第23師団は7月25日以来持久防御の態勢に入ります。8月に入ってからソ連・外モンゴル軍の行動は活発になり盛んに日本軍陣地に攻撃を繰り返します。日本軍はその防戦に追われて防禦工事が遅れ防禦態勢が整わないうちに8月20日のソ連軍大攻勢を迎える事となりました。
また満洲においては8月4日大本営命令によって第6軍が編成され第23師団は第6軍司令官の指揮下となっていました。
参謀本部作戦課長の稲田は戦後の回想手記で「関東軍の参謀が直接第一線を引き摺り回していて何をやるか分からないので新たに中間指揮機関として第6軍司令部をハイラルに編成した」と言っています。
新たに就任した司令官以下の幕僚の殆どは必要な予備知識を持っておらず、更に新司令部設置に伴う事務処理に追われて一人の幕僚も戦場に進出しないうちにソ連軍の大攻勢を迎えました。
8月半ば日本軍全正面にソ連・外モンゴル軍5万7千人が集結します。ジューコフは巧みにカモフラージュしつつ昼夜兼行で長距離の兵員・戦車・燃料・弾薬等の輸送に全力を挙げました。ドイツとの不可侵条約締結の目途が立ったスターリンは総攻撃にゴーサインを出し8月20日早朝ソ連・外モンゴル軍は日本軍を包囲・殲滅する為の総攻撃を開始します。ドイツ国営放送は8月21日午後11時過ぎに「独ソ不可侵条約が23日にモスクワで調印される」と伝えました。
日本時間8月22日午前7時にこのニュースを伝え聞いた参謀本部作戦課は仰天します。三国同盟の無条件成立に取り組んでいた彼等にとってドイツとソ連の同盟は青天の霹靂でした。驚愕した彼等に追い打ちをかける様に届いたのがノモンハンのソ連・外モンゴル軍の総攻撃の報告でした。
ソ連軍は次々と日本軍を分断・包囲し戦況は急速に悪化して行きます。8月末には第23師団の殆どの部隊が撃破され8月29日第6軍司令官(荻洲)はついに前線に孤立している残存部隊に対し撤退命令を出しました。一方全前線に渡って日本軍を圧倒したソ連軍は外モンゴルが主張する国境線で進撃を停止します。
関東軍は作戦終結を考える事無く再び増援部隊を派遣して戦闘を継続する意思を示しましたが、参謀本部は9月3日参謀総長名の電報でノモンハン方面における全ての作戦中止を命令しました。それを受けて9月6日関東軍司令官は「大命によりノモンハンにおける作戦を中止する」という関東軍命令を示達しノモンハンにおける戦闘が終わりました。
2024年時点で明らかになっている最新のノモンハン事件におけるソ連・外モンゴル軍の死傷者は約27,000名と言われており日本軍の17,405人を大きく上回っています。圧倒的な戦力を持ちながらこれだけの犠牲を出さねばならなかったジューコフはスターリンから日本軍の評価を聞かれて「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり青年将校は狂信的な頑強さで戦うが高級将校は無能である」と答えたそうです。
ノモンハン事件の停戦交渉はソ連のモロトフ外相と東郷駐ソ大使の間でモスクワのクレムリンにおいて9月9日から始められました。
ドイツは9月1日にポーランド侵攻を開始しており独ソ不可侵条約の秘密議定書でポーランドの分割を合意していたソ連は、自身もポーランド侵攻を開始する為に一刻も早く停戦を確定する必要に迫られていました。15日深夜「国境線については双方の代表による国境線確定委員会を設置しそこでの話し合いに委ねる」として日ソ両軍の対峙する現在線での停戦をソ連側が受け入れ停戦が確定しました。17日午前6時にソ連軍は国境線を超えて東部ポーランドへの侵攻を開始しました。
東郷大使と共に停戦交渉を行っていた駐在武官の土井大佐は「あと2〜3日粘っていたら焦りからソ連側はもっと譲歩したかもしれない」と悔やんだそうです。
国境画定会議は1939年11月から繰り返し開催されていましたが1941年6月にドイツがソ連に進攻するとソ連は極東の国境画定に関わる余裕を失い、ほぼ日本側の主張に従って作業が進み満洲国に有利な総合議定書が1941年10月15日にハルビンに於いて調印されました。この時に確定した国境が現在のモンゴルと中国の国境となっています。
ノモンハン事件の責任を問われて関東軍司令官・参謀長・第6軍司令官・第23師団長は予備役編入としてクビになるのですが、ノモンハン戦を主導し"事実上の関東軍司令官"とまで言われた辻は第11軍司令部付に左遷されるに留まります。また辻をバックアップした服部も陸軍歩兵学校教官に左遷の後1940年10月に参謀本部作戦課に作戦班長として栄転し翌1941年7月には作戦課長に昇格します。1941年7月には服部に引っ張られた辻が作戦課に異動しノモンハン事件を主導した服部・辻のコンビが対米開戦を推進して行きます。辻はその後山下奉文率いる第25軍の作戦主任参謀としてマレー作戦に参加し、1942年2~3月のシンガポール華僑粛清事件の首謀者の一人となりました。
さて今回のノモンハン事件のお話はここまでです。村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」ではノモンハン事件の前年に4人の日本人がハルハ河を越えて国境地帯の調査を行うというエピソードが語られています。村上春樹はその後ノモンハン事件の現場を訪ねて「ノモンハンの鉄の墓場」と題したエッセーを書いています。
村上はハルハ河の両岸を訪れているのですが初めに内モンゴル自治区側の東岸を訪れた後、遠路はるばる北京に戻ってそこから飛行機でウランバートルまで飛びまたわざわざ中国国境までジープの長旅をしています。村上は「このあたりは政治的にまだ結構"ややこしい"のである」と言います。まだノモンハン事件が尾を引いているのかもしれませんね。それではまた。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。


































