今回は私がドイツに駐在していた1991~1995年の間に仕事で頻繁に訪れたブダペストについてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
ハンガリーの首都ブダペストはオーストリアのウィーン・チェコのプラハと共に中欧ハプスブルク三都と呼ばれ日本人に人気の観光地となっていますが私は個人的にはこの3つの街の中でブダペストが最も美しいと感じます。
私が初めてブダペストを訪れた1991年はベルリンの壁崩壊から2年足らずでまだ旧共産圏の雰囲気を色濃く残していました。1991年8月19日にモスクワで保守派のクーデターが勃発した時も私は出張でブダペストにいたのですが、その数か月前に駐留ソ連軍がハンガリーから撤退したばかりだったのでハンガリーの人々はまたソ連軍が戻って来るのではないかと戦々恐々でした。1956年のハンガリー動乱の時の様にまたソ連の戦車が民主化を踏み潰すのではないかと恐れたのです。ソ連が崩壊したのはその年の12月でした。
旧共産圏の雰囲気を残した街を走る車の殆どはソ連製のラダか中古で輸入された年式の古いドイツ車でした。
以前の投稿"スズキの海外展開"でも触れましたがスズキはソ連のペレストロイカを受けて自由化を進めるハンガリーにいち早く工場進出を決定していました。1990年1月スズキは複数政党制に移行した直後の新政府との間で工場進出の基本合意に調印し1991年にブダペスト近郊のエステルゴムに工場建設を開始するのですが工場が生産を開始してスズキがハンガリーの自動車市場を席巻するのは1992年10月以降でした。
スズキの生産開始後はパトカー等の公用車を含めてブダペストの街を走る車の多くがスズキのスウィフト(日本名:カルタス)になりました。
ちょうど今のインドの街がスズキの車ばかり走っているのと同じ様な感じです。ところが2011年と2018年に訪れた際にはそこまでスズキ車が目立つ事はなくなっておりハンガリーが欧州の普通の先進国になったのを実感しました。そうは言ってもスズキは未だにハンガリーの乗用車市場でM/S12%超の首位を維持してはいるのですが。
ブダペストは街の中を南北にドナウ川が流れておりその西側がブダ、東側がペストです。ハンガリー語ではペシュトと発音するのですがこの動画では英語発音のペストとします。このブダとペストの間に最初に架けられた橋が鎖橋です。1849年の事でした。
橋の両側のたもとには計4頭のライオン像があります。
三越のライオンはこのライオンを模したのかと思ったのですが実際はこれではなくロンドンのトラファルガー広場のライオン像がモデルみたいです。
ペストは平坦なのですがブダは複数の丘がある起伏に富んだ地形です。なので鎖橋のブダ側のたもとには丘を登るケーブルカーがあります。ペスト側から見てケーブルカーの左側にあるのがブダ王宮です。現在はハンガリー国立美術館・ブダペスト歴史博物館・軍事歴史博物館等が置かれています。
スズキの工場のオープニングセレモニーはこのブダ王宮で開催されました。ハンガリーは国を挙げてスズキの工場進出を歓迎していたのです。自動車産業を通じてハンガリー経済の発展に貢献したとして修さんは2022年にハンガリー政府より「大十字功労勲章」を授与されています。
ペスト側から見てケーブルカーの右側に見えるのは大統領官邸他の政府機関です。私はいつもこの王宮の丘にあるヒルトンホテルに泊まっていました。
私が当時住んでいたデュッセルドルフのヒルトンホテルの日本人マネジャーを通じて予約すると特別な割引レートを適用して貰う事が出来たからです。デュッセルドルフのヒルトンホテルには日本人のマネジャーがいました。多くの日本企業が進出しているので日本人の宿泊客が多かったんでしょうね。王宮の丘という特別な場所にあるのでヒルトンホテルの外観は周囲に溶け込ませるように配慮されています。
以前の投稿"世界3大商人とのビジネスは大変だけど面白い"でお話ししたハンガリー企業の事務所も王宮の丘にあったので泊まっているホテルから歩いて行けて大変便利でした。
取引先との会食が無い時はホテルで紹介して貰った近所のレストランで夕食をとっていました。
ハンガリー料理で有名なものにフォアグラとキャビアがあります。当時は相当割安だったので必ずそれらを注文していました。そのレストランには流しのバイオリン弾きがいて外国人の客を見るとハンガリー狂詩曲を弾いてくれました。フォアグラは缶詰も割安だったので帰りに必ず空港の免税店で買っていました。
ハンガリー料理で有名なスープにグーラッシュがあります。パプリカの独特の香りがある牛肉や根菜を煮込んだスープです。もともとハンガリーが起源の料理ですがドイツ語圏で広く食べられています。私は帰りの空港で時間がある時は必ず本場のグーラッシュを食べていました。
ヒルトンホテルの隣にはゴシック様式のマーチャーシュ教会とハンガリー建国千年を記念して建設された「漁夫の砦」があります。
895年にマジャール族の7人の族長がこの地に住みハンガリーを建国したという伝説から建国千年にあたる1895年に合わせて1895〜1902年にネオ・ロマネスク様式で建造されたものです。
19世紀まで王宮の丘の頂上にある街は厚い石壁で守られており城壁の各所は城の衛兵や王族の軍隊の他、必要に応じて城の住人によって守られていました。現在の漁夫の砦の部分は丘とドナウ川の間にあった漁師組合が守っていたのだそうです。
漁夫の砦からはドナウ川とその向こうにあるペストの街並みがよく見えます。
対岸の左側に見えるのが国会議事堂です。世界で一番美しい国会議事堂と言われています。
私がブダペストで買った版画はドナウ川に架かるマルギット橋の向こうに国会議事堂の影が見えるものです。
ドナウ川の西岸、王宮の丘の南側にはゲレルトの丘があります。鎖橋の南側のエリザベート橋のブダ側のたもとの近くゲレルトの丘の中腹には丘の名前の由来である聖ゲレルトの像があります。
ゲレルトはイタリア人の宣教師で1046年にキリスト教への改宗に抵抗する人々によって釘を刺した樽に入れられて丘の上からドナウ川に落とされました。ゲレルトはハンガリーで最初の殉教者として1083年に教皇グレゴリー7世によって列聖されハンガリーの守護聖人となりました。
ゲレルトの丘の頂上には自由の像があります。第2次大戦時のソ連の侵攻を"ファシストからの解放"と位置付けて1947年に"解放者であるソビエトの英雄達を記念"して建設され記念碑にはハンガリー語とロシア語で"解放者であるソビエトの英雄達を記念して"と書かれていましたが1989年に碑文をハンガリー語のみの"ハンガリーの独立と自由と幸福の為に命を捧げた者達全てを記念して"に変更しました。
自由の像の下にあったソ連兵の像はメメントパークに移されています。
メメントパークは共産主義体制崩壊後に取り払われた共産主義の像を集めて展示している屋外博物館でレーニン像やマルクス・エンゲルス像もあります。
ブダ側からペスト側に鎖橋を渡った右側にはいくつかの高級ホテルがありました。ドナウ川沿いで鎖橋に最も近いのは1981年に開業したフォーラムホテルでした。
この地域にある高級ホテルの中で唯一の外資系でないホテルだったのですが1996年にインターコンチネンタルホテルに買収されました。
フォーラムホテルの前からドナウ川に沿って遊歩道があります。遊歩道を進むとすぐに見えてくるのがインターコンチネンタルホテルだったのですが今はマリオットホテルになっています。
この遊歩道ではアイスクリームスリが横行しているという話でしたが幸い私は被害に遭う事はありませんでした。アイスクリームスリは、観光客などの衣服や鞄にアイスクリームを意図的に付けて親切を装ってそれを拭き取る際に内ポケットから財布などを盗むスリです。実行犯の一人がターゲットとなる観光客の衣服や鞄にアイスクリームを故意に付け別の実行犯が「服にアイスクリームが付いていますよ」などと声をかけてターゲットがアイスクリームを拭き取ろうとしている隙に衣服の内ポケット等から財布等の貴重品を素早く盗みます。防ぐには「アイスクリームが付いている」と言われたら素早くその場を離れるという事でした。
ドナウ川から見てフォーラムホテルの奥にはハイアットホテルがありました。
今はソフィテルになっています。外資系ホテルがシャッフルされたみたいになっているのですが、ヒルトンだけは王宮の丘という特別な場所にあったので動かなかったようですね。
遊歩道からドナウ川を背にして少し入ったところにはヴァッツイ通り(ウッツァ)があります。ブダペストで最も有名なショッピングストリートで歩行者専用道路になっています。
"通り"をハンガリー語で"ウッツァ"と言うのですがこれが何故かロシア語で"通り"を表す"ウーリッツァ"と似ています。ハンガリー語とロシア語は同じ系統の言葉なのかと思ったのですが、そうではありませんでした。ハンガリー語は欧州では珍しくインド・ヨーロッパ語族に含まれない言語なのです。一方ロシア語はインド・ヨーロッパ語族のスラブ語派に含まれます。
インド・ヨーロッパ語族の言葉で123を何と言うか見てみると似ているのが良く分かります。英語ではワン・ツー・スリー、フランス語ではアン・ドゥー・トロワ、ドイツ語ではアインス・ツバイ・ドライ、イタリア語ではウノ・ドエ・トレ、スペイン語ではウノ・ドス・トレス、ロシア語ではアジン・ドゥバ・トゥリとみんな何となく似ていますね。ところがハンガリー語ではエデュ・ケチュ・ハロンと全く違います。またハンガリー語のもう一つの特徴は姓を先に名を後に言う事です。この様にハンガリー語は欧州では特殊な言語となっています。
4世紀にアッティラ大王に率いられたアジア系騎馬民族のフン族がこの地まで移動して来た事から"フン族の地"という意味でフンガリアと呼ばれこれが現在の国名「ハンガリー」の語源になったという説があります。ブダという地名はアッティラ大王の兄でフン族の共同王だったブレダに由来します。
現在のハンガリー人の祖先はフン族ではなくウラル山脈中南部から9世紀にやって来たマジャール人です。
ハンガリーの正式国名はハンガリー語でマジャールの国を意味する「マジャローサグ」でハンガリーは英語の国名です。
さて今回のブダペストのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。私は出張で20回近くブダペストを訪れているので思い入れはあるのですがプライベートの観光で行った事が無いので見逃しているところが沢山あります。なので機会を見てまた行ってみようかと考えています。その時はゲレルトの丘にある有名な温泉にも行ってみたいですね。それではまた。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
https://youtu.be/bMmRK_iFfMg