今回はフランスの歴史家で人類学者のエマニュエル・トッドの著作「西洋の敗北」についてお話ししたいと思います。
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「西洋の敗北」は2024年1月にフランスで刊行され同年11月に邦訳版が出ました。エマニュエル・トッドは経済現象ではなく人口動態を軸として人類史を捉えソ連の崩壊、英国のEU離脱や米国におけるトランプ政権の誕生などを予言した事で広く知られています。「西洋の敗北」がフランスで刊行された直後のインタビュー記事がオンライン雑誌のクーリエ・ジャポンに掲載されたのを見て興味を持ち邦訳を待って早速読んでみた次第です。
著者自身が序文で「2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻後、西ヨーロッパに居ながら歴史学者・人類学者として客観的に考える事は知的な意味で危険な事となった。」と言っている様に、ロシアのウクライナ侵攻に関して欧米や日本のマスコミの論調からはかなり距離のある考え方が述べられています。著者は「科学者気質の私にとって"善と悪"や"真実と偽り"という二つの二項対立を区別する事は難しい。私からするとこの二つの概念的な組み合わせは混合している様に見えるからだ。」と言っています。
著者は「本書のパラドックスはロシアの軍事行動から出発しながらも最終的には西洋の危機に辿り着いてしまうという事にある。」「西洋の敗北はロシアの勝利を意味する訳では無い。それは宗教面・教育面・産業面・道徳面における西洋自身の崩壊プロセスの帰結なのだ。」と言っています。「ロシアのウクライナ侵攻によって顕在化した"西洋の敗北"についての著作」という事なのだろうと思います。
著者は"二つの西洋"という言い方をします。米国・英国・フランスの三大自由民主主義国のみを含む"政治的近代の西洋"とそれにドイツ・イタリア・日本を加えた"経済的近代の西洋"です。この"経済的近代の西洋"で挙げられた国については「大国だけに限定した場合」という注釈が付されていますのでカナダを除く意図は無いものと思います。著者は「本書で言う西洋は"経済的近代の西洋"という広義の西洋だ」としています。
さてここからは"西洋の敗北"の原因と背景について本書の記述を引用しながら話を進めようと思います。
著者は西洋における民主主義の退化の原因は高等教育の発展にあると言います。高等教育の発展により1世代の30~40%の人々が"大衆化したエリート"となって"初等及び中等教育しか受けていない人々"を軽蔑する様になり、一方の"初等及び中等教育しか受けていない人々"は"大衆化したエリート"に不信感を抱く様になると言うのです。この二つの陣営は"エリート主義"と"ポピュリズム"とも言い換えられています。
更に中流階級の衰退も分断の原因の一つとされています。中流階級の衰退はグローバリゼーションによる労働者階級の消滅によって引き起こされました。典型的な例はラストベルトと呼ばれる米国のかつての工業地帯です。自由貿易によって製造業が打撃を受けて衰退した地域ですね。
米国のこの製造業衰退について著者は"スーパーオランダ病"と言います。"オランダ病"とはオランダの製造業が1959年のフローニンゲン・ガス田発見以降衰退した事を説明する為に英国の雑誌エコノミストが造った造語で、天然資源の輸出により製造業が衰退し失業率が高まる現象を表す経済用語です。
米国の経済を阻害する最大の"天然"資源とされているのはドルです。世界通貨をコストゼロで生産出来てしまう為、信用創造以外の全ての経済活動は採算が合わない魅力的でないものになってしまうと言うのです。
著者は「高等教育を受けた人々の高額の収入は弁護士・銀行家・その他多くの見せかけの第3次産業従事者が優れた略奪者として群れを成している事を物語っているのである。これが教育の発展がもたらした究極の悪影響だ。高等教育修了者が急増し無数の寄生虫が生み出された。」と言います。著者は第3次産業従事者の中で真の富の生産には繋がらない業種の人々を産業という呼び名に値しないとして"見せかけの"第3次産業従事者と呼んだのです。
著者は西洋の自由民主主義(Liberal Democracy)は"リベラル寡頭制"(Liberal Oligarchy)に移行したと主張します。「リベラルな西洋では"少数派の保護"が強迫観念にまでなっており黒人や同性愛者以上に保護されているのが、全人口の1%、0.1%あるいは0.01%を占めている超富裕層でそれがオリガルヒだ。」と言うのです。「ロシアでは同性愛者は保護されていないがオリガルヒも保護されていない」と付け加えています。以前の投稿"オリガルヒ列伝"でお話しした通り90年代エリツィン政権下で我が世の春を謳歌していたロシアのオリガルヒ達はプーチンによってその政治的な力を完全に奪われています。
著者は西洋の"リベラル寡頭制"に対応する呼称としてロシアを"権威主義的民主主義"と呼びます。著者は「プーチンはモスクワとサンクトペテルブルクの上層部のエリート層を確かに屈服させたが、労働者の要求に対しては細心の注意を払い大衆の政権支持基盤の強化を常に追求している。」と言い、「今日の西洋は最終的には"ポピュリズム"しか生み出さない"大衆"を軽蔑する傾向があるのでこうした大衆重視のプーチンの特徴はあまり良い印象を持たれない」と分析しています。
更に著者は「西洋は自分達こそが世界の中心であり更には世界全体を代表していると思い込んでいる」と指摘し「西洋のナルシシズムとそこから生じる現実認識の欠如」と断じます。その根拠として挙げられているのがロシアのウクライナ侵攻直後の世界各国の反応です。2022年3月7日にフランスのシンクタンク「地政学研究グループ」が作成したウクライナ侵攻に対する各国の反応を示す地図によると、"制裁付き"でロシアを非難したのは北米・欧州・オーストラリア・日本・韓国とラテンアメリカの4つの小国だけです。著者は「ラテンアメリカの4カ国を除くと"西洋圏"というのは米国の同盟国か軍事的保護国だけになる」と言っています。
流石にロシアを支持した国はベネズエラ・エリトリア・ミャンマー・シリア・北朝鮮の5ヵ国のみでしたが、非難をしなかった国も多くその中にはブラジル・インド・中国・南アフリカが含まれます。
著者はBRICSが西洋から距離を置く事となった原因として米国のサブプライム住宅ローン危機を挙げています。サブプライム住宅ローン危機の原因は返済出来ないのが明らかな貧しい人々に不動産ローンを高金利で貸し付けた事です。著者はこのサブプライム住宅ローンを「道徳性ゼロ」と断じています。
そしてこうした米国の無責任さに対しあまりにも反応が遅かった欧州の無責任さも重なってリーマンショックに繋がったとし、中国の大規模な景気刺激策によって世界は景気後退から引き戻されたと述べています。
著者は「取り敢えず形式的に"制裁無し"でロシアを非難した国は何れかの陣営を選択した訳では無い」と分析しています。
米国では"非西洋"を指す言葉として"その他の世界"(the rest)という言い方がされるそうです。「その他の世界に対する西洋」は"The West against the Rest"と言い表されます。
著者は「ロシア人の国外資産の違法な差し押さえは"その他の世界"の上流階級の間に恐怖の波を引き起こしてしまった。」と分析しています。 ロシアのオリガルヒ達の資産やヨットを追跡する事で結果的に"その他の世界"のオリガルヒ達の財産を脅かす事となったのです。
著者は「西洋はロシアに制裁を科す事で世界の大半から拒絶されている事、非効率的で残忍な"新自由主義的資本主義"や進歩的というよりも非現実的な"社会的価値観"によって自らがもはや"その他の世界"を夢見させる存在ではなくなった事に気がついた。」と言います。
さてここからはロシアのウクライナ侵攻に至った背景に関する著者の考察についてお話しします。
著者はソ連崩壊後の一定期間西洋の指導者層の間で反ロシア感情は定着していなかったと分析します。2002年9月ブッシュ大統領は新たな「アメリカ国家安全保障戦略」を世界に示しました。そこでは全ての国が"共通の価値"へと収斂して行き「大国も全て同じ陣営に属する」とされたのです。
以下にブッシュ大統領の言葉を引用します。「ロシアは移行期にあり大いに期待出来る。」「ロシアは民主的な将来を求め対テロ戦争におけるパートナー国だ。」「中国の指導者達は経済的自由が富の唯一の源だと気が付いた。」「やがて彼等も社会的・政治的自由こそが国家の偉大さの唯一の源だと気が付くだろう。」「米国はこの2国の民主主義の進歩と経済的開放を手助けする。」著者はこのブッシュ大統領の言葉を"おとぎ話"と切って捨てます。
著者は米国が反ロシアへ転換した原因としてイラク戦争に反対するドイツ・フランス・ロシアの共同戦線の形成を挙げています。
ドイツのシュレーダー首相は2003年3月14日に「フランス・ロシア・中国の友人達と共に私達はイラクの武装解除は平和的手段によって実現出来またそうするべきだと確信している。」と宣言しました。
著者は「米国の反ロシア姿勢への転換の主な動機は米国から自立して活力に満ちたドイツ、とりわけロシアとの協調を望むドイツに対する恐れにあった」と言います。
ドイツとロシアの関係が断たれる象徴的な出来事として2022年9月に起こったノルドストリームの爆発事故があります。ノルドストリームは欧州のバルト海の下をロシアからドイツまで走る海底天然ガスパイプラインのシステムです。
米国の調査報道記者シーモア・ハーシュは「これは米国による破壊工作だ」と主張したのですが著者は「シーモア・ハーシュの見解は本件に関して唯一の真実味のある説明だ」と言います。
ロシアのウクライナ侵攻直前の2022年2月8日米独首脳会談でバイデンが「ロシアが侵攻すればノルドストリーム2を終わらせる」「我々にはそれが可能だ」と発言している事もシーモア・ハーシュの主張に真実味を与えています。
シーモア・ハーシュはソンミ村虐殺事件の暴露でデビューした調査報道記者で1970年にはピューリッツァー賞を受賞しています。怪しげな陰謀論者という訳ではなさそうです。
2013年にスノーデンが米政府による大規模な監視プログラムを暴露しドイツのメルケル首相の携帯電話盗聴が発覚しました。
メルケル首相の携帯電話盗聴も米国のドイツに対する恐れの表れだと思います。著者は「スノーデンがロシアに亡命しロシアが彼をかくまった事は米国人がプーチンを許せない理由の一つだろう。」と言っています。プーチンは2022年9月にスノーデンにロシア国籍を付与する大統領令に署名したそうです。
著者はロシアのウクライナ侵攻に関する驚きの一つにロシアの経済面での抵抗力を挙げています。国際決済システムSWIFTからのロシアの銀行排除はロシアを屈服させるだろうと言われていましたがその目論見は完全に外れました。
その他の経済制裁もロシアに決定的なダメージを与えるには至っていません。著者は2014年のクリミア侵攻以降の現在に比べると緩い経済制裁の下でロシアがしっかり準備して来たからだと分析しています。併せてクリミア侵攻後のルーブル安が国内の産業育成に役立った面も指摘されています。
著者は以下の様に言います。「"プーチン・システム"が安定しているのはそれが一人の人間によるものではなくロシアの歴史から生じたものだからだ。」「プーチンに対する反乱というワシントンがしがみつく夢は夢物語でしかない。」「そんな夢物語はプーチン政権下でロシアの生活状態が改善したという事実を見ようとせず、ロシアの政治文化の特殊性を認めようとしない西洋人の現実否認から生まれる。」著者は"移動の自由"に対するプーチンの揺るぎない執着をプーチン政権の自信の表れと見ます。現在でもロシアの人達には自国を出る自由があります。
著者はロシアのウクライナ侵攻に関する驚きとしてウクライナの軍事的抵抗も挙げています。著者は「ウクライナは破綻国家」と言い切ります。そして「崩壊状態にあったウクライナは戦争そのものに自国の生存理由と存在の正当性を見出してしまった」と言います。
以前の投稿"ウクライナ侵攻 何がロシアをそうさせた?"でもお話しした通り、ロシアは二日でキエフを陥落させる予定だった様で侵攻が始まってから2日後の2月26日にロシア通信が自社サイトに「1991年の悲劇は克服された。反ロシアとしてのウクライナはもはや存在しない」と言う戦勝を報じる予定稿を誤配信しました。
米英両国からはポーランド東部等にウクライナの亡命政府を置く案も出ていました。米国もゼレンスキー大統領がキエフから逃げてウクライナでの戦闘が終了すると考えていたのでしょう。
著者はトランプ大統領が2017年12月に開始したウクライナの軍備増強もウクライナの軍事的抵抗の一因と分析しています。
この時に供給されたジャベリン対戦車ミサイルが2022年2~3月にキエフに向かうロシア軍の戦車を破壊したのです。
ちなみにオバマ大統領はウクライナの軍備増強を拒否していたそうです。ジャベリン対戦車ミサイルがなかったらロシアや米国の予想通りにキエフは二日で陥落してたのかもしれませんね。
ウクライナとそれを支援する米国について著者は驚くべき仮説を述べます。米国のブリンケン国務長官の父方の祖父はキエフ生まれのユダヤ人で母親はハンガリー系ユダヤ人です。
またヌーランド国務次官の父親はモルドバとウクライナのユダヤの家系です。
曽祖父がブダペストのユダヤ人であったという著者自身の経験からブリンケンとヌーランドにとってウクライナとロシアはより直接的で現実的な存在であろうと想像します。その上で著者は「1881~1882年のユダヤ人大虐殺によりウクライナを"ロシア的"反ユダヤ主義の公式な発祥の地として記憶しているユダヤ人は、ネオ・ナチズムのパロディの様な"ウクライナ・ナショナリズム"に困惑を覚えるのにブリンケンやヌーランドはそうではない」と言います。
その理由として著者は以下の仮説を述べます。「2023年9月末ウクライナの軍事警察は国の周囲に鉄条網を張り巡らした。」「健常な男性達(ワシントンが要求したが無意味で多くの死者だけを出した夏の反転攻勢に嫌気が差した男性達)が徴兵から逃れる為にルーマニアやポーランドに出て行こうとするのを阻止する為だ。」
「しかしそれがどうしたと言うのだ。」「キエフの政府と共にこの殺戮を操っている"ウクライナ系ユダヤ人の米国人達"はそれを自らの祖先をあれ程苦しめた国に科されるべき正当な罰だと感じているかもしれない。」
最後に私が本書に述べられた著者の意見に賛同出来なかった点を一つお話しします。著者は「世界の汚職を監視する非政府組織(NGO)Transparency Internationalが調査・公表している2021年の腐敗認識指数(Corruption Perceptions Index -CPI)では、米国が27位ロシアが136位となっているが乳幼児死亡率が米国より低いロシアが米国よりも汚職が進んでいる筈はない。」と言います。
私は以前の投稿"最強の反社は警察 - ロシアの汚職(腐敗) -"でモスクワに駐在した2008~2014年の間に見聞きしたロシアの汚職についてお話ししました。私は過去に駐在したインド・フィリピンと比べてもロシアは汚職度が高いと感じていました。私が離任した2014年から7年でロシアの汚職の状況が大幅に改善するとは私には到底信じられません。乳幼児死亡率と汚職度の間には著者が主張する様な相関関係は無いのではないかと思った次第です。
さて今回の「西洋の敗北」のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。著者は日本の読者に向けた序文の中で「西洋の敗北は日本が"独自の存在"としての自らについて再び考え始める機会になる筈である。日本が西洋の一部としてではなく狭義の西洋(米国・英国・フランス)と"その他の世界"の仲介役として自らを捉える機会になる」と言っています。本当にそうなれば良いですね。それではまた。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。