今回は山本七平の著作「日本はなぜ敗れるのか」についてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
山本七平の著作では「日本人とユダヤ人」が有名ですが、「日本人とユダヤ人」の出版当時はイザヤ・ベンダサンというペンネームを使っていました。
「日本はなぜ敗れるのか」で述べられている事の特徴はタイトルから分かります。「日本軍はなぜ敗れたのか」ではなく「日本はなぜ敗れるのか」となっているところがポイントで山本は太平洋戦争の敗因は今も変わらずに日本社会に残っていると考えているのです。
以前の投稿で取り上げた深田祐介の「炎熱商人」では1941年12月8日の真珠湾攻撃から1945年8月の敗戦までのフィリピンの話が小説仕立てで語られているのですが「日本はなぜ敗れるのか」では当時フィリピンに居た人が見たリアルなストーリーが展開されます。
山本は1921年東京生まれ。1942年に青山学院専門部高等商業学部を卒業後徴兵され甲種幹部候補生に合格して陸軍砲兵士官として1944年にフィリピンに渡り終戦を迎えます。
「日本はなぜ敗れるのか」は山本が「虜人日記」というテキストを基に自らの戦時体験を踏まえつつ太平洋戦争における日本の組織の欠陥を述べたものです。「虜人日記」は1944年に軍属としてフィリピンに送り込まれた技術者小松真一氏の体験記です。
小松氏は1911年東京生まれです。1932年東京農業大学農学部農芸化学科卒業後、大蔵省醸造試験場と農林省米穀利用研究所で6年間の研修を受けた後に台湾に派遣されてガソリンの代替燃料であるブタノールの量産化に成功し1944年ブタノール生産の為軍属としてフィリピンに派遣されました。「虜人日記」は小松氏がフィリピンの捕虜収容所に居た時に書かれたものです。
山本は「虜人日記」の価値を"同時性"と"現地性"と表現しています。加えて小松氏が軍隊という組織に組み込まれていない軍属(技術者)という立場だった事で「虜人日記」は組織への配慮や責任の回避等のバイアスから解放されていると言います。更にフィリピンの捕虜収容所では内地の状況が全く分からなかった事とソビエト式の思想教育が皆無だった事から「民主主義者になれ」というプレッシャーも無かったと指摘しています。山本はそれらを勘案して小松氏が「虜人日記」を書いた時点を「軍国主義の絶対化が消えたという以外では過去はそのまま存続している"戦前"ではない"戦後以前"」と表現しています。
「虜人日記」は捕虜収容所で苦労して入手した材料で作られた手製のノートに書かれ小松氏はそれを骨壺に隠して持ち帰ったそうです。
小松氏は米軍将校が発行した持出許可証を持っていました。
山本は復員船で日本に着いた時に米軍の下で働く日本人が虎の威を借りて同胞の日本人を米軍以上に過酷に扱ったと言います。戦友の遺品まで強制的に捨てさせたのだそうです。そして小松氏はそういった事を知っていて用心したのだろうと推測します。山本は自身が終戦直後の9月16日に北部からマニラ近郊のカランバン捕虜収容所に移送された時の事を例として挙げています。山本は多くの部下がその上で息を引き取り至る所に血がこびりついた軍用毛布を遺品替わりに持っていました。終戦前に捕虜となっていた日本人が米兵の下働きとして収容所に入所する捕虜の所持品チェックをしていたのですがその日本人が山本に近づいて来て「その毛布を捨てろ」と命令したのだそうです。押し問答していた時に様子を見に来た米兵に山本が英語で事情を説明したところ「言ってよし」と言われて毛布を捨てずに済んだそうです。山本は「自分は幸運だった」と言います。同じ時に所持品チェックを受けた同僚のN少尉は戦死した部下の遺品と遺髪を捨てさせられたそうです。
「虜人日記」で小松氏は21カ条の敗因を挙げているのですが山本が「日本はなぜ敗れるのか」でまず初めに触れたのは敗因15番目の「バシー海峡の損害と戦意喪失」でした。バシー海峡とは台湾とフィリピンの間にある海峡です。私は「日本はなぜ敗れるのか」を読むまでこのバシー海峡という名前を知りませんでした。小松氏が敗因21カ条の中で具体的に名前を挙げている場所はこのバシー海峡だけで通常の人が太平洋戦争の天王山とするミッドウェーもレイテもインパールも沖縄も挙げていません。
山本は小松氏がバシー海峡のみを挙げた理由を「それは我々が如何に危機に対処出来ずに滅びるかを示す象徴的な"名"だからだ」と言います。山本は当時の大本営の考えを以下の様に説明しています。「マッカーサーは"I shall return."と言ったのでフィリピンに戻って来るに決まっている」「従って戦備を整えルソンの山野に大兵を展開して米軍に決戦を挑みこれを包囲殲滅した上で対等の講和に持ち込む」これがあらゆる方法で大兵団をフィリピンに送った背景にある基本的な"理論"でした。そして制海権の無いバシー海峡に兵員を満載した大量のボロ船を進めて数十万の戦死者を出す事になります。バシー海峡に米軍の潜水艦が多数配置されて多くの日本の輸送船が沈められたのです。山本はこの状況を"死のベルトコンベア"と表現しています。
そして幸運にもこの"死のベルトコンベア"からこぼれ落ちた僅かな人々のみがフィリピンにたどり着いたのですが現地では「武器も食料も無いのになんで大本営は兵員ばっかり送り込んで来るんだ?」という反応だったそうです。
ちなみに山本も"死のベルトコンベア"からこぼれ落ちた一人でした。山本は自身が乗った輸送船"玉鉾丸"について詳細に説明しています。"船齢27年で最高速度5ノット半という廃船すべきボロ船"の船倉に1坪あたり14人という密度で兵士達が乗せられました。山本は「魚雷が当たった時にはアウシュビッツを上回る密度で詰め込まれた兵士3千人を15秒で殺戮する高能率の大量殺戮機械」と表現しています。
元々貨物船だった玉鉾丸の甲板の舷側には木造小屋の便所がずらりと並んでいました。3千人分のトイレを後から付けたものでした。山本と一緒に玉鉾丸を初めて見た上官は「運を天にまかすと言うが、この航海は本当にウンを海に撒かす訳だな」と冗談を言ったそうです。ボロ船の玉鉾丸が沈められなかった理由は「5ノット半の船が戦場をウロウロしている等という事は米国人の常識では考えられないので魚雷の照準を間違えた」という事でした。
小松氏は台湾から軍用機でマニラ近郊のクラーク飛行場に入ったのでバシー海峡を渡る輸送船には乗っていませんでした。
山本は「わずか30年で全ての人がこの名(バシー海峡)を忘れてしまった」と言いその理由は「今でも基本的には全く同じ行き方を続けている為この問題に触れる事を無意識に避けて来たからであろう」と言います。山本はここで言う"行き方"を「ただある1方法を1方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じ続けた量と、それを投ずるため払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化する」と説明しています。「極限まで来て自滅する時『やるだけのことはやった、思い残すことはない』と言うのだ」と断じるのです。
厚生労働省指定の「日本戦没者遺骨収集推進協会」が2025年から台湾南部の海岸で本格的な遺骨の発掘調査を始めると発表したのがきっかけでバシー海峡を望む台湾最南端の屏東県恒春の潮音寺で台湾在留邦人を中心に10年前から毎年行っている慰霊祭に日本の厚生労働大臣が初めて弔辞を寄せました。
山本は小松氏が挙げた敗因21カ条の二つ「日本文化に普遍性なき為」と「一人よがりで同情心が無い事」に対して「自己の絶対化と反日感情」と題した章で論じています。山本は「日本人の一人一人が『日本の文化とはこういうものだ』と違った文化圏に住む人々に提示出来る状態」が日本文化の普遍性であると言います。そして「それが在って初めて相手の文化とその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解出来る」と言うのです。
この"違った文化圏に住む人々の文化とその文化に基づく相手の生き方・考え方を理解"する事は企業が海外でビジネスを展開する上で極めて重要です。以前の投稿でお話しした様にJTと日立はこの点に大変優れた企業だと思います。
"相手の考え方"が分かっていなかった例として山本はフィリピンに進攻した当初の日本軍の思い込みを挙げます。「自分は東亜開放の盟主だから、相手はもろ手をあげて自分を歓迎してくれて、あらゆる便宜をはかり、全面的に協力してくれるにきまっている」という思い込みです。
そして「そう思い込む事を相互理解・親善と考え、この思い込みが後に『裏切られた』という憎悪に変わった」と言います。山本はこれを「他に文化的基準のある事を認めようとしない自己の絶対化」と表現しています。そして「自分だけが人間で他は全て人間でない」事になってしまいそれが「一人よがりで同情心が無い事」に繋がると言います。
山本は「日本軍は反日感情の渦巻く国へと飛び込んでいった訳ではないのに多くのフィリピン人を反日に追いやった」と分析します。1944年に山本がマニラに着いた時、朝から晩までフィリピン人への悪口を聞かされたのだそうです。山本は「フィリピン人に"文化的無条件降伏"を強いて彼等を"劣れる亜日本人"と見ていたのだ」と分析しています。
そして「この奇妙な態度は戦後の日本にもそのまま受け継がれた」と言います。山本は1947年にフィリピンから帰国して最初にそれを感じたそうです。「多くの人は進駐軍に拝跪し土下座してわずか二年前の自分の姿を全く忘れたように自己をアメリカと心情的に同定して戦前の日本人を"劣れる亜日本人"と蔑視していた」と言います。
一方で山本は「全ての日本人がフィリピン人を理解出来なかった訳ではない」と言います。「虜人日記」には小松氏が地区のゲリラの親分と交渉して協力を得たという記述もあります。山本は「個人としてはそれができるという伝統がなぜ、全体の指導原理とはなりえないのかという問題」としてこの章を締めくくっています。
小松氏は敗因21カ条の10番目に「反省力なきこと」を挙げており山本は「反省」と題した章でそれに触れています。山本は日本人の行った最初の近代的戦争として"西南の役"を挙げ「この戦争の中に現代に至るまでの様々な問題が全て露呈している」と指摘します。そして「我々が本当に西南戦争を調べて反省する能力があったなら、その後の日本の歴史は変わっていたであろう」と言うのです。
山本が最初に指摘しているのが当時のマスコミによる"鬼畜西郷軍"の虚像作成による"官軍対賊軍"という概念の固定化です。そしてこの報道形態は現在まで変わっていないと言い「結局我々は未だに"官軍・賊軍"という概念規定から抜け出せず、それが"官軍→皇軍→解放軍"という"言い換え"で存続しており、その存続を堅持する事を"反省"と呼んでいる」と言います。
山本は西南戦争における西郷軍と太平洋戦争における日本軍の類似点を挙げます。西郷軍は「西郷ひとたび立てば天下は慴伏するであろう」と盲信しておりこれは「大日本帝国ひとたび立てば全アジアは慴伏するであろう」という自惚れに通ずると言います。そして西郷軍が「自分達は武士であるから官軍の百姓兵などはじめから問題外」と考えていたのを「当時の鹿児島人の東京観は太平洋戦争直前の日本軍部の米英観と非常に似ている」と分析します。当時の鹿児島の人々は西郷軍は即座に東京に入城出来ると思い込んでいて、出発する西郷軍の兵士に東京にいる親戚・友人宛の手紙やプレゼントを託したそうです。大本営海軍報道部長平出大佐は「日本軍はワシントンで観兵式、ロンドンで観艦式を行う」と言い国民はそれに驚喜したそうですから全く同じですね。
ある中尉はドイツ軍のスエズ進撃を評して「ドイツは友邦だが我々はこの進撃を喜ばない。帝国陸海軍はいずれアデンを抑えスエズを抑えて地中海に進出する予定であるからドイツに先にスエズを取られては面白くない」と言ったそうです。ドイツ軍はエル・アラメインの戦いで英軍に敗北したのでスエズへは到達しなかったんですけどね。日本軍がロンメル軍団の支援に行ける訳が無いですね。
山本は西郷軍の熊本での戦いを「インパール乃至はポートモレスビー」と言い田原坂を「ガダルカナル」と言います。
そして平地を全部官軍に占拠された西郷軍が最後に行った日向から鹿児島までの山中彷徨をフィリピンでの日本軍の山中彷徨と同じだと指摘します。山本は西南戦争直後の論評を例に挙げて「西郷のような偉大な人物がなぜ西南戦争のような訳の分からない行動をしたのか誰にも理解出来なかった」と言い「太平洋戦争の後でなぜこんなばかげた戦争をしたのか誰にもわからなくなったのと非常によく似ている」と言います。そして「西南戦争というものへの徹底的な解明を基にした自己の民族性についての厳しい反省があったなら『それでは、西南戦争の西郷と同じ事になってしまう』という言葉で太平洋戦争の愚は避け得たであろう」と言います。
山本は「戦争中に西南戦争への、また、戦後に西南戦争から太平洋戦争を通じての、厳しい反省といったものが有ったであろうか?」と問いかけ「両者とも無い」と断じます。山本は「戦争への見方、それに伴う報道の仕方は『反省力なきこと』の典型」と指摘します。「これによる視点の喪失、ブーム化に基づく妄動こそ、日本的欠陥の最たるものであった」として「それへの反省は未だになされていない」と言います。
山本は最終章「自由とは何を意味するのか」では1945年8月18日の様子を記した小松氏の文章を引用してそれを分析します。小松氏は終戦決定の報に接した時の軍司令官・参謀といった人々の"条件反射的"な態度を描写しています。山本は「本心から軍国主義でかたまり、軍人精神の権化で、神州不滅・尽忠報国で、敗戦と聞いたらとたんに自殺しそうな言動をしていた人達が、一瞬にしてがらりと変わった記録」と言います。
山本の分析は以下の通りです。
1.誰も驚かない、という事は心底では既定の事実だった。
2.今の秩序をそのまま維持し責任を負う事無く特権だけは引き続き受けようという態度
渡辺参謀は「我々は大命に依り戦い、大命に依り戦いを終るのだから軽はずみな事をするな」と注意するのですが、山本は「敗戦と言わずに訓示し戦争及び戦場における一切の責任を"大命"すなわち天皇に帰して自己を免責にする」と断じます。
3.(渡辺参謀の)降伏に関する公務の放棄
これは渡辺参謀がネグロス最高司令官河野中将から米軍指揮官宛の手紙を第6航空通信連隊に届けに行く途中に自身が住んでいた明野盆地に私物の整理に行った事を指しています。
4.その念頭にあるのは日本に帰った時の日常生活の事
小松氏は「渡辺参謀は戦いの事はもうすっかり忘れたという態度で、東京にある家作の心配をしきりにしていた」と記述しています。
小松氏は渡辺参謀に見せて貰った河野中将の手紙の内容も記しているのですがそれは「自分はネグロスの日本軍の指揮官だがセブの福江中将の指揮下にあるのでその指揮で降伏したい」「しかし自分は現在セブとの通信が出来ないのでそちらで連絡して欲しい」というものでした。山本は「この時期になお"自己の責任"で処理する事を回避している」と断じます。
山本はこれらを「小市民的価値観を絶対とする小市民的生活態度」と言い「かつての学生運動の闘士がその"終戦"と同時に就職して行った時の態度とも同じ」と述べています。
山本は「『小市民的価値観を絶対とする小市民的生活態度』を通常性・日常性とする事は恥ずべき事だろうか」「それともこういう日常性への不動の信念を持ちつつ"或る何かの力"に拘束されて自分が軍人か闘士であるかのごとき虚構の態度をとる事が恥ずべき事なのであろうか」と問いかけます。そして「自分はその人がどんな"思想"を持とうとその人の自由だと思うが、ただもし許されない事があるなら、自己も信じない虚構を口にして、虚構の世界をつくりあげ、人々にそれを強制する事であると思う」と言います。
そして「ただ(日本人は)明治以来"或る力"に拘束され、自分の"思想"を"明言"しない事が当然視されてきた」「いわば自分の持つ本当の基準は口にしてはならず、みな、心にもない虚構しか口にしない」「これは実に、戦前・戦後を通じている原則である」と続けます。山本は「日本軍を貫いていたあの力が、未だに我々を拘束している」と締めくくります。
さて今回の「日本はなぜ敗れるのか」のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。山本は「日本はなぜ敗れるのか」を発表後に最後の部分で言った"或る力"を"空気"と名付けて「"空気"の研究」という著作を発表しています。
その30年後「空気が読めない」を意味する「KY」が2007年ユーキャンの新語・流行語大賞にエントリーされて注目を集めました。
山本の言う通り「"あの力"が未だに我々を拘束している」のですね。それではまた。
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