2025年7月の参院選における参政党の躍進をきっかけとして日本でも外国人問題が大きくクローズアップされるようになりました。この外国人問題には移民・難民問題と外国人観光客によるオーバーツーリズム問題が混在していますが今回は移民・難民問題に絞って受入先進国のドイツの事例を見てみたいと思います。
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現在ドイツの人口のおおよそ4人に1人が移民のルーツを持つと言われています。
人種のサラダボウルですね。昔は"人種のるつぼ"という言い方が一般的でしたが今は外国から移住した人々が元々持つ文化を尊重するという観点から"サラダボウル"と言う様になりました。
近年ではシリアやアフガニスタンからの難民やウクライナからの避難民が急増しました。更にEUの基本理念の一つである"人の移動の自由"を背景としたEU域内からの移動も盛んです。移民の割合が増える一方で社会の分断や排外主義の動きも見え始めています。
以前の投稿"トルコと欧州"でもお話ししましたが私は1991年にドイツに赴任して多くの外国人労働者(ガストアルバイター)を目にしました。オフィス等の清掃を行うプッツフラオと呼ばれる掃除婦の多くは頭にスカーフを被ったトルコ人でした。
当時既にドイツの総人口に占める移民の割合は7%を超えていました。日本の総人口に占める移民の割合は2024年末時点でも約3%ですからドイツは30年以上前に現在の日本の2倍を超える移民を受け入れていた訳です。
私もドイツで働くガストアルバイターだったわけですが外国人に対する差別を感じる事はさほど多くはありませんでした。差別を感じる事が少なかった背景には私が住んでいたデュッセルドルフが日本企業の誘致に熱心だった事もあるのかもしれません。人口約60万人のデュッセルドルフに約1万人の日本人が住んでおりその殆どは駐在員とその家族でした。江戸川区の人口約70万人に対して2025年4月1日現在江戸川区内に居住するインド人は7702人と1%強ですからデュッセルドルフの日本人より少ないですね。
私は幸い差別を感じる事は少なかったのですが当時既にドイツではトルコ系移民との軋轢が表面化していました。私がデュッセルドルフに住んでいた1993年に近郊のゾーリンゲンでトルコ人家族5世帯19人が住む建物にネオナチの4人の若者が放火してトルコ人住人5人が死亡、4人が重傷を負うという事件が発生しました。
ドイツでは全国各地にあるフォルクスホッホシューレと呼ばれる日本の公民館に類似した生涯学習センター内に移民・難民の為のドイツ語講座が開講されています。
デュッセルドルフではフォルクスホッホシューレのドイツ語講座を受講する日本人駐在員夫人が多くいました。私の妻も着任直後は日本人向けのドイツ語学校に行っていたのですが途中からフォルクスホッホシューレに移りました。クラスメイトには複数の日本人駐在員夫人の他に東欧出身者が多くいた様です。最近は日本でも公的機関が開講している外国人向け日本語講座がありますね。
さてここからはドイツが現在の様な"移民の国"となった経緯について見て行きたいと思います。第二次世界大戦後ドイツは廃墟からの再出発を余儀なくされました。600万人以上の戦死者に加えて捕虜や国外追放で多くの若い男性がいなくなり産業を支える労働力が決定的に不足していました。戦後の西ドイツはマーシャル・プランやその後の経済支援を受けながら"経済の奇跡"と呼ばれる急速な復興を遂げるのですがそれを支える労働力が絶対的に不足していたのです。戦争による労働力喪失と急速な経済成長の需要とのギャップを解消する為に外国人労働者招致が政策的に必要とされました。
日本も敗戦国なのに高度成長期に労働力不足にならなかったのは戦前の日本は労働力過剰の"移民送出国"だったので敗戦後も労働力不足に陥らなかったという背景があります。日本は戦死者が約310万人とドイツの半分位だった事も原因の一つと思います。
西ドイツは労働力不足を補う為に二国間で外国人労働者募集協定を締結して受け入れを開始します。1955年イタリア、1960年スペイン・ギリシャ、1961年トルコ、1963年モロッコ、1964年ポルトガル、1965年チュニジア、1968年ユーゴスラビアと順次協定を締結しました。ドイツ語で外国人労働者を表すガストアルバイター(Gastarbeiter)は英語に訳すとゲストワーカー(guest worker)になります。ちなみに日本語で言う"アルバイト"は明治時代に旧制高校の学生が本業である学業の合間に行う家庭教師等の仕事を"アルバイト"という隠語で呼び合ったのが始まりです。ドイツ語の"アルバイト"は"労働"という意味で"副業"というニュアンスは全くありません。"ガスト(客)"という呼び名の通り彼等は「労働契約満了後に帰国する」と当初は考えられていました。しかし予想に反して多くの人々が残留しドイツ在住の外国人は1961~1967年の間に68.6万人から180万人へと増加しました。ガストアルバイターの内訳を見ると1960年代初頭はイタリア人の割合が最も多かったのですが1970年代初頭からはユーゴスラビア人そして最終的にはトルコ人が最多となりました。
彼らの多くは家族を呼び寄せたり現地で結婚したりしてドイツで暮らすようになりました。企業側もせっかく技能を習得した外国人労働者を辞めさせてまで新たな求人手続きや新規従業員に対する職業訓練の追加費用負担をしようとはしませんでした。そのため時間の経過とともに彼らの滞在は長期化し人数も増え受け入れに伴う諸問題が浮上するようになります。このような状況下で1973年の石油危機が契機となって協定による外国人労働者の募集が停止されました。
募集停止後ドイツの外国人の数は1970年代末までほぼ一定で推移しました。募集停止後も短期滞在の外国人労働者については二国間協定等により継続的に受け入れておりその対象となる職種も拡大されてきました。1975年からドイツ国外にいる外国人の子に支給される子供手当が国内で暮らす場合よりも低く設定された為外国人労働者が家族をドイツに呼び寄せる動きが加速しました。
さてここからは出身国別に移民の歴史的背景等を見て行きます。最初に協定を締結して労働者送り出しを開始したのはイタリアでした。終戦から10年後の1955年です。ドイツが労働者受け入れをイタリアから始めた背景には枢軸国として共に第2次大戦を戦った繋がりがあるのかもしれません。
ドイツと同じ敗戦国なのにイタリアは労働力が余っていた背景には、イタリアが日本と同じ"移民送出国"で19世紀後半から移民の送り出しを開始していた事があります。米国のイタリア系移民が有名ですね。ゴッドファーザーパート2では1901年にヴィトー少年がシチリア島コルレオーネ村を出てNYに行く様子が描かれています。
ムッソリーニが1927年に移民の送り出しを禁止したのですが戦後に再開しました。戦後イタリアが最初に協定を結んで移民送り出しを開始したのはフランスだったのでイタリアは枢軸国の繋がりなんて気にしてないのかもしれません。南イタリアを中心に戦後の貧困と失業から逃れる為に多くの若者がドイツにやって来ました。
古代ローマ帝国では北イタリアは本国ではなく属州だったのですが19世紀のイタリア統一の際に立場が逆転しました。ゴッドファーザーパート2のヴィトー少年も南イタリアの出身ですね。
私がデュッセルドルフに住んでいた時に週末に家族でよく行っていたイタリアンレストランはウエイターが全てイタリア人でした。おそらくオーナーも厨房スタッフも全てイタリア人だったのだろうと思います。ウエイターの人達は幼い娘に「バンビーノ」と呼びかけて可愛がってくれました。
私の同僚だったドイツ人女性の妹はイタリア人と結婚してイタリアに住んでいるという事でした。おそらくイタリアから出稼ぎに来ていたイタリア人と知り合ったのだと思います。同僚のドイツ人女性はドイツ人男性と結婚していたのですが「ドイツ人男性よりイタリア人男性の方が魅力的だ」と言っていました。
1960年にはスペイン及びギリシャと協定を締結します。1960年代フランコ政権下のスペインでは貧困と政治的抑圧が続いており主に農村部の若者が多くドイツにやって来ました。
彼等の中にもスペインに帰らずそのままドイツに定住する人々がいましたがその割合は他国の人々より低くあまり目立たない存在となっています。スペインは第2次大戦中はその前の内戦によって荒廃した国土の復旧を優先する為に中立の立場を取っていましたが、内戦に勝利したフランコ率いる反乱軍はドイツの支援を受けていたので"ドイツに近い中立"という感じでした。イタリアの次に協定を結んだ背景にはこの様な2国間の関係があると思います。
同じ年に協定を結んだギリシャとドイツの関係は少し複雑です。オスマン帝国の支配下にあったギリシャは1833年に欧州列強三国(英国・フランス・ロシア)の支援を受けて独立するのですが、列強三国はギリシャを王政にする事を決定し3国に中立の立場にあるバイエルンのオットー王子をオソン1世として即位させます。
オソン1世はギリシャの風習に何の興味も示さず宗教もギリシャ正教に改宗せずカトリックを信仰し続けました。また政権の中枢をバイエルン人が占めておりギリシャ人は排除されていました。1862年に2度目のクーデターが発生し列強三国もそれを支持した為オソン1世は退位してバイエルンに帰りました。
オソン1世退位後列強三国は次の王にデンマーク王クリスチャン9世の次男ゲオルクを選定しました。1863年ゲオルクはギリシャにおいてゲオルギオス1世として即位しデンマークの国教であるルーテル教会からギリシャ正教会に改宗しました。
ゲオルギオス1世は1913年に暗殺され長男が後を継いでコンスタンティノス1世として即位します。
その翌年1914年に第一次世界大戦が勃発しました。コンスタンティノス1世はドイツで教育を受けプロイセン陸軍士官学校で学びドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の妹ゾフィーと結婚していたので中央同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国)に対してより親近感を抱いていたのですが民衆から支持を集めていた時の首相ヴェニゼロスは連合国を支持していました。親ドイツ派である国王や軍参謀本部との対立が深まり首相を解任されたヴェニゼロスは連合国の支援を受けてテッサロニキに臨時政府を樹立します。
連合国軍の攻撃によって王党派は敗北しコンスタンティノス1世も亡命しました。結果的にギリシャは第1次世界大戦で戦勝国となります。
その後ギリシャは1924~1935年の共和政の時期を除いて1973年の王政廃止までゲオルギオス1世を源流とする王制が続きます。第2次世界大戦ではギリシャは中立の立場を取ろうとするのですがイタリアの侵攻を受けて英国に支援を求めた事から連合国側となります。英国の支援によってイタリアを押し戻す事に成功するのですがドイツ軍の攻撃を受けて敗北しドイツ・イタリア・ブルガリアによって分割占領される事となりました。
戦後ギリシャでは共産主義者と反共産主義者の内戦が勃発し米国の援助によって反共側が勝利します。
この様な歴史的背景を持つギリシャは2度の大戦でドイツと敵対する立場だったにも関わらずドイツと協定を結んで労働者を送り出す事となりました。国王がもともとドイツ贔屓だった事が関係しているのかもしれません。
以前の投稿"ドイツ人の同僚を通じて分かった事"でもお話しした通り私はデュッセルドルフに住んでいた当時頻繁にギリシャ人の経営する魚屋に行っていました。ドイツのスーパーには良い鮮魚が置いてなかったのです。
スペイン・ギリシャと協定を結んだ翌年の1961年にドイツはトルコと外国人労働者募集協定を結びます。ドイツとトルコの関係は18世紀に遡ります。ロシアという共通の敵を持つ2国(プロイセンとオスマン帝国)は関係を強化しました。19世紀に入るとオスマン帝国は軍の近代化を目的としてドイツの軍事顧問団を受け入れます。
更にドイツ資本のバグダッド鉄道会社にトルコ中部コンヤからバグダッド経由でペルシャ湾岸の港湾都市バスラまでの鉄道敷設権と沿線開発の権益が供与されました。
ドイツと関係を深めていたオスマン帝国は第1次世界大戦が始まるとドイツと共に中央同盟国として参戦し敗戦国となってしまいます。
その結果オスマン帝国はトルコ革命で倒されてムスタファ・ケマルが初代大統領に就任します。
第2次世界大戦ではトルコはドイツとも英国とも良好な関係を維持して中立を保ちます。ドイツとは緊密に連絡を取り合っていたので最後までドイツの侵攻を受ける事はありませんでした。トルコは連合国の勝利が確定的になった1945年2月に対日独宣戦布告し終戦後は戦勝国となりました。
トルコとドイツは18世紀から関係が深く第2次大戦中も関係が悪くなかった事を考えると現在多くのトルコ人がドイツに住んでいる理由が分かる様な気がしますね。
ドイツが戦後外国人労働者の受け入れを開始してから70年が経過しています。ドイツの労働組合全国連合に所属するハンスベックラー財団経済社会研究所(WSI)の調査によるとドイツへ移住しそのまま残留した外国人労働者は大半が低い額の年金を受給しながら高い貧困リスクを抱えているという事です。WSIは報告の中で「移住政策を経済政策上の目的で利用しようとする者は前提となった経済問題が忘れ去られた後も政策の影響が当事者や社会で存在し続けている事を熟慮すべきである」と結論付けています。現在の日本にとっても他人事でない話ですね。
さて今回のドイツの移民のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。メルケル首相は2015年の難民危機の時に100万人の難民受け入れを主導しました。
この取組は「ウェルカムカルチャー」と呼ばれ多くのドイツ人が難民を歓迎したのですが歓迎ムードは2016年初めの時点で終わりを迎えました。
2015年の大晦日から元旦にかけてケルン中央駅とケルン大聖堂前の広場でアラブ人と北アフリカ人を主体とした千名以上の男によって女性に対する集団性的暴行・強盗事件が繰り広げられたのです。
この事件を発端としてメルケル氏と同氏の移民政策に対する圧力が強まりAfDは地方選で躍進を開始しました。メルケル首相の難民受け入れの決断とその後のドイツの状況についてはまた機会を改めてお話ししたいと思います。それではまた。
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