5大総合商社の歴史と今 - なぜ投資の神様が高評価? - 【海外進出日系企業研究】

23/06/2023

海外進出日系企業研究

t f B! P L

今回は、海外展開する日本企業の代表、総合商社についてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/OfkTd2cW4lw

今、日本の総合商社が世界の投資家の注目を集めています。"投資の神様"と呼ばれるウォーレン・バフェット氏が率いるバークシャー・ハサウェイが2023年4月に「日本の5大商社の持ち株比率を5%から7.4%に引き上げた」と発表したのが原因です。

「日本のトレーディング・ハウス(英語で商社の意)って商品先物や株などを売買する証券会社の事だと思ったよ」と言うのが、これまでの一般的な海外投資家の認識でした。"投資の神様"が持ち株比率を増やした事を公表した上で、来日して5大商社の経営陣と個別に面談したので、そんな海外投資家が急に日本の商社に注目したのです。


バークシャー・ハサウェイは2023年6月19日に更に5大商社株を買い増したと発表しました。この買い増しで、」自社保有を除くと5社の平均で保有比率は8.5%以上になりました。

バフェット氏が長期投資をするか否かはその会社の"人"に惚れ込むかどうかに依ると言われています。バフェット氏が来日時に5大商社の経営陣と実際に面会したのは、経営者としての"人"をその目で確かめる狙いがあったものと思われます。バフェット氏に同行したアベル副会長がバークシャー・ハサウェイの株主総会の席上「日本を訪問して5社の経営者と会えた事は素晴らしい経験だった。日本のカルチャーの素晴らしさを認識し今後長期的なビジネス関係を構築する為の信頼を築いた。」と発言しました。

バフェット氏は割安で安定している株式銘柄に長期投資する投資手法で知られています。この手法は"バリュー株投資"と呼ばれます。企業価値に比べて株価が割安な銘柄を購入する投資手法です。

総合商社が割安だったのは"コングロマリット・ディスカウント"が原因です。多くの事業を抱える複合企業(コングロマリット)の企業価値は往々にして各事業毎の企業価値の合計よりも小さくなります。複合企業の価値を精緻に評価するのが投資家にとって難しいので、投資が手控えられて株価が実力値を下回り易くなるのです。

バークシャー・ハサウェイは単純な投資会社ではなく傘下の事業会社にエネルギー・金融・金属加工など幅広い事業を抱えるコングロマリットの側面を持っている企業なので、総合商社のビジネスを理解し易かったようです。

総合商社は他の国には殆ど無い日本特有の業態だと言われます。日本では明治時代になって外国との貿易が盛んになりましたが、言葉や生活習慣などの違いが大きかったので、外国との商取引を得意とする専門家集団が必要だったのです。

1865年(慶応元年)に坂本龍馬とその同志が長崎・亀山で結成した"亀山社中(後の海援隊)"が日本最初の総合商社と言われます。

この海援隊の流れを汲むのが岩崎弥太郎が創設した三菱財閥です。なので、もし坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されなかったら三菱財閥の初代総帥になっていたかもしれません。

さてここからは三菱商事を含む5大商社の歴史を振り返ってみたいと思います。5大商社のうち三菱商事、三井物産、住友商事の3社は"財閥系"、伊藤忠と丸紅は"非財閥系"と分類されます。

まずは前述の海援隊の流れを汲む三菱商事の歴史を振り返ってみましょう。1916年(大正5年)に岩崎弥太郎の甥にあたる岩崎小弥太が三菱財閥四代目総帥に就任します。

その時点では三菱財閥の全ての事業は三菱合資会社で行っていたのですが、岩崎小弥太は各事業部門を独立させます。その結果三菱合資会社営業部が1918年に総合商社として独立しました。これが三菱商事の始まりです。

次に三井物産を見てみましょう。三井財閥の始まりは1673年に遡ります。三井家の遠祖・三井越後守高安は今の滋賀県鯰江の武将でしたが、1568年主君の六角佐々木氏が織田信長との戦いに敗れた為、浪人となって今の三重県伊勢に移りました。


六角佐々木氏

その孫の高利が1673年に江戸に出て現在の東京都中央区に呉服店越後屋(現三越)を開店したのが三井財閥の始まりです。

この時越後屋に併設した三井両替店が三井銀行(現三井住友銀行)の始まりです。

天下の豪商に成長した越後屋は幕末になると、幕府と接触しながら一方で勤皇派と緊密に連絡を取り、大政奉還と鳥羽・伏見の戦いを契機に官軍を資金面で援助して明治新政府側に付きます。こうして江戸時代初期に創業した三井財閥は明治になっても更に勢力を伸ばしました。

三井高福(左)、高朗(右)親子

1873年、長州藩出身の明治の元勲の1人で大蔵省次官だった井上馨は、財政縮減を巡って司法卿江藤新平等と対立し政府を去ります。この時に、井上に才覚を認められて大蔵省の幹部になっていた益田孝も、井上と共に官職を辞します。この益田孝が三井物産初代社長です。

井上馨

江藤新平

益田孝

井上は益田とともに商社"先収会社"を立ち上げ、長州閥のコネクションを持つ井上の政治力に依って莫大な利益を上げるのですが、井上の政界復帰に伴い1876年に先収会社を解散する事になります。およそ2年ほどの活動期間でしたが、益田の才覚に目を付けた三井組番頭の三野村利左衛門が、先収会社の組織・社員で三井内の商社を作るように働きかけ、三井物産が開業します。これが三井物産の始まりです。

三野村利左衛門

ちなみにこの益田孝の玄孫と結婚したのが岩崎宏美です。玄孫の益田氏は何故か三井物産ではなく三菱商事に勤務していました。益田氏が1993年にデュッセルドルフに異動となったので「岩崎宏美が来る!」と日本人コミュニティで話題となったのですが、1994年2月に遅れてやって来たものの10日で帰国してしまいました。


玄孫の益田氏

三菱商事ドイツ現法

財閥系の最後は住友商事です。住友財閥は17世紀、初代住友政友が京都に書林と薬舗を開設した事に始まります。


京都で銅精錬と銅細工業(屋号:泉屋)を営んでいた政友の姉婿、蘇我理右衛門(そがりえもん)は銀銅分離の精錬技術"南蛮吹き"を開発します。蘇我理右衛門の長男友以(とももち)が政友の娘婿として住友家に入って実家の泉屋を継承し銅山業とその関連事業を中心に発展して行きます。


ちなみに住友の銅事業と言えば1996年に発覚した住友商事非鉄金属部長浜中氏による銅不正取引巨額損失事件が有名です。彼は全盛期には世界の年間銅需要の5%にあたる50万トンを取扱っていた事から"ミスター5%"と呼ばれ、市場に多大な影響力を有する花形トレーダーとして銅市場関係者に知られていました。


住友商事のルーツは住友家が1919年に設立した大阪北港株式会社です。大阪北港地帯の造成と隣接地域の開発等を行い不動産関連事業を本業としていました。総合商社としての活動を開始するのは戦後になってからです。


戦後の商社の歴史は後で纏めてお話しする事として、次に非財閥系の伊藤忠と丸紅の始まりについてお話しします。伊藤忠と丸紅は共に近江商人の初代伊藤忠兵衛が大阪経由泉州・紀州まで"持ち下り"と言われた行商を始めた1858年を創業の年としています。


初代伊藤忠兵衛は1842年滋賀県犬上郡豊郷村に五代伊藤長兵衛の次男として生まれました。

初代伊藤忠兵衛

伊藤家は"紅長(べんちょう)"の屋号で地場の繊維品の小売業を営んでいました。伊藤忠兵衛は分家として実績を上げて1872年に大阪東区本町で呉服太物商"紅忠(べんちゅう)"を開店独立します。


その後、伊藤家分家として輸出入や繊維工場を含めて手広く繊維事業を展開し、初代忠兵衛の没後、家督を相続した二代忠兵衛が1908年に事業を統合する"伊藤忠兵衛本部"を創設、1914年に法人化して伊藤忠合名会社を設立します。

二代伊藤忠兵衛

伊藤忠合名本社ビル

1918年にこの伊藤忠合名会社を持株会社化し、営業部門は伊藤忠商店と伊藤忠商事に分割されます。この伊藤忠商事が現在の伊藤忠です。商品的には伊藤忠商事は綿糸布の扱いと海外貿易を継承し、伊藤忠商店は呉服を中心に扱う事になりました。

ところが分割の2年後の1920年株式大暴落をきっかけに日本経済は大パニックに突入します。この大恐慌に対応する為に伊藤忠商事は貿易部門を切り離して大同貿易株式会社を設立します。また住友銀行の斡旋により伊藤忠商店と本家筋の伊藤長兵衛商店が合併し、株式会社丸紅商店が設立されます。

大同貿易事務所風景

1938年に"国家総動員法"が公布され国家統制色が強化される中で、丸紅商店・伊藤忠商事と伊藤忠兵衛が役員を務めていた鉄鋼商社岸本商店の3社が合併して三興株式会社が設立され、更に大同貿易と二代伊藤忠兵衛が創設に関わり社長を務めていた呉羽紡績を加えて1944年に大建産業が設立されます。

大建産業本社

ここまで5大商社のうち戦後に総合商社としての活動を開始した住友商事以外の4社の始まりをざっとお話ししました。戦前この4社の中で圧倒的な優位を誇っていたのは三井物産です。第1次大戦が勃発した1914年には日本の総貿易額の20%を取り扱う程でした。1943年の取扱高では三井物産45億2千万円、三菱商事26億円でした。1941年の三興の取扱高は10億円です。

さて、敗戦の混乱は海外でビジネスを展開していた総合商社に大きなインパクトを与えましたが、最大の試練は敗戦後にGHQが行った財閥解体でした。GHQが財閥を敵視したのは、財閥が日本の軍国主義を制度的に支援したと認識していたからです。なので財閥を解体する事で軍国主義を根本的に壊滅出来ると考えたのです。


GHQの意向を受けて学識経験者から内閣総理大臣が任命する委員によって構成される持株会社整理委員会が設立され、三井・三菱・住友・安田の4大財閥の持株会社を筆頭に多くの企業が指定持株会社として整理の対象となります。大建産業も4大財閥に次ぐ規模の企業群の一つとして第2次指定の対象となりました。三井物産と三菱商事は持株会社である三井本社と三菱本社の傘下にあったのですが、より厳しい整理措置を採るようにGHQから特に名指しされて解散・清算に追い込まれます。一方の大建産業は財閥解体を実施する為に制定された"過度経済力集中排除法"への対応としては紡績部門と商事部門に分割すれば良かったのですが、商事部門を伊藤忠と丸紅(大同貿易を含む)の二つに分割する事となります。両社とも繊維部門のウエイトが高かった事から丸紅は川上(原材料)伊藤忠は川下(アパレル)と棲み分けを決めたそうです。なので伊藤忠は今でもアパレルに強みを持っており、現伊藤忠CEOの岡藤氏もアパレル部門の出身です。

伊藤忠CEO岡藤氏

一方でGHQから解散を命じられた三井物産と三菱商事は、従業員が寄り合って数多くの新会社が設立されるのですが(三井物産220以上、三菱商事160以上)、連合国の占領終了後に三井物産と三菱商事として夫々再合同します。ところが三菱商事はほぼ戦前の状態にまで再合同したのに対して、三井物産は幾つかの会社が再合同に参加しませんでした。旧三井物産の石油商権を引き継いだゼネラル物産(後のゼネラル石油)の他、東京食糧(後の東食)、極東貿易等も再合同に参加しなかったのです。

三井物産大合同で握手する第一物産新関社長(左)と三井物産平島社長(右)

ゼネラル石油

その結果、戦前は取扱高で三菱商事を圧倒していた三井物産は、再合同後は肉薄され、その後の石油ビジネスの伸長によって三菱商事に業界トップの座を明け渡す事になります。

戦後日本が高度経済成長期に入ると、貿易額の急激な拡大に伴って総合商社は成長して行くのですが、1970年代後半になると日本経済の低成長化と円高の進行に伴って、商取引から総合商社が排除される傾向が出て来ます。戦後に国際化が進展した事もあり、各企業は自身で海外との商取引を行う事によって総合商社に支払う口銭を節約しようとしたのです。その結果"商社不要論"が出て来たり"商社冬の時代"などと言われたりするようになります。

したたかな総合商社はそんな困難も乗り越えて行きます。自らのファンクションを変えトレーディングから事業投資に軸足を移したのです。

以前の投稿"海外IPP"でお話しした海外IPPへの出資等もそういった事例の一つです。海外発電所建設への資材供給ビジネスから始めて、ゼネコンや重電メーカーと組んで建設自体に関わるようになり、最終的に発電所の運営まで行う様になったのがIPP事業です。

タイにおけるいすゞのケースなどもトレーディングから事業投資に移行した典型的な事例です。タイでは自動車販売の6割をピックアップトラックが占めるのですが、いすゞはタイにおけるピックアップトラックのトップシェアです。タイにおけるいすゞ車の販売は三菱商事の子会社TRI PETCH ISUZU SALES(TIS)が総販売元となりマーケティングも行っています。三菱商事が強烈な販売促進を行った結果、タイの自動車市場はピックアップトラックが6割を占める特殊なものとなったのです。

販売促進活動の一環としてTISが主催する"いすゞショー"はカラオケ大会や人気歌手のライブなどを行うのですが、特に学校対抗ダンスコンテストが有名です。販売促進イベントの域を超え今や地域行事として定着しているそうです。

ウクライナ侵攻に係る対ロシア経済制裁の関係で話題となったサハリンプロジェクトも典型的な総合商社の事業投資です。サハリン1には伊藤忠と丸紅、サハリン2には三井物産と三菱商事が出資しています。

サハリン1

サハリン2

私が海外駐在中に総合商社の人達と接していて最も印象的だったのは、事業部門毎の独立性でした。最近は部門間の異動も少し増えて来た様ですが、これまでは"新卒入社で配属された事業部門で社員として一生を終える"というのが常識でした。「インスタントラーメンからロケットまで」と言われるように、事業部門毎に業務の内容が全く異なるので、専門性を高める為に同一部門で継続して勤務する体制にしたものと思われます。

事業部門毎の独立採算制が徹底していた事もあり、私には殆ど別会社の様に見えました。総合商社は国毎に子会社を持っている事が多く、そこには複数の事業部門から駐在員が派遣されているのですが、夫々の駐在員は自分が所属する事業部門の仕事をし、子会社の利益は夫々の事業部門に付け替えられます。子会社で現地採用される従業員も帰属する事業部門が決まっており、その給与も夫々の事業部門の採算に含まれる訳です。社長や経理・総務の担当役員・従業員の給与、事務所家賃等子会社として発生するアドミコストも各事業部門毎に振り分けられていました。

海外子会社に派遣された駐在員は事業部門の指揮命令系統下にあり、子会社の社長の部下という位置付けではありませんでした。例外は社長と駐在員が同じ事業部門に所属しているケースです。この海外子会社に於ける上下関係は会社によって若干濃淡があり、三菱商事は殆ど大家と店子状態だったのに対して、三井物産は海外子会社の社長と駐在員の上下関係が比較的強くあったようです。"組織の三菱"と"人の三井"の違いだと言う事でした。三菱商事は事業部門内の指揮命令系統が強かったので、海外子会社の社長は事務所スペースを貸している大家状態だったのに対して、三井物産は事業部門内での締め付けが弱かったので、海外子会社の社長が他の事業部から派遣されている駐在員に指示を出す事が出来た様です。

外子会社におけるアドミコストの振り分けを避ける為に、その国に既にある子会社とは別に敢えて一つの事業部門の業務に特化した子会社を設立するケースもありました。自分の子会社を持っている事業部門は、複数の事業部門が参加する子会社に駐在員を派遣しなくなるので、アドミコストを振り分けられなくなるのです。各事業部門がどんどん単独の子会社を設立して、元々その国に在った子会社の存立が危うくなるケースもあったようです。

元々優秀な人材が集まる総合商社の一つの事業部門で専門性を高めた結果、専業会社の社員を上回る能力を身に付ける人もいます。三菱商事の自動車事業本部長から転籍して三菱自動車の社長・会長を歴任した益子修氏が良い例です。

一方で"配属ガチャ"と言われる様なデメリットも存在します。新人として配属された事業部門の担当する産業が衰退した場合、どんなに頑張っても業績が上がらないという事態になる事もあります。

現在の各社のトップの出身事業部門を見ると、三菱商事中西勝也氏(電力)、三井物産堀健一氏(化成品)、住友商事兵頭誠之(ひょうどうまさゆき)氏(電力)、伊藤忠岡藤正広(おかふじまさひろ)氏(アパレル)、丸紅柿木真澄(かききますみ)氏(電力)と、5人中3人が電力畑の出身です。現在の総合商社において電力事業が重要になっている事が見て取れます。非資源系事業に強みを持つ伊藤忠のトップはアパレルの出身です。

2023年3月期決算では純利益のランキングは1)三菱商事 2)三井物産 3)伊藤忠 4)住友商事 5)丸紅の順になります。伊藤忠以外の4社は過去最高益で、伊藤忠は2022年3月期に記録した過去最高益には届かなかったものの歴代2位でした。昔は総合商社のランキングは取扱高で表す事が多かったのですが、トレーディングから事業投資に軸足を移して以降、利益のランキングが主流になりました。

さて今回の総合商社のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。総合商社については今回時間が足りずに触れられなかった話がまだまだありますので、また機会を見て続編を投稿したいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

このブログを検索

自己紹介

自分の写真
ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

QooQ