カルロス・ゴーンの功罪と日産の現在(いま) - イヴァン・エスピノーサはV字回復を達成するか - 日産盛衰史#2【海外進出日系企業研究】

01/08/2025

海外進出日系企業研究

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2025年2月ホンダと日産の経営統合協議決裂が話題となっていた時に「日産盛衰史 - 歴史は韻を踏む - 経営危機のデジャヴとその背景」と題した投稿で日産の創業から1999年のルノー傘下入りまでの歴史についてお話ししました。今回はその続編としてカルロス・ゴーンが主導した日産リバイバルプランからイヴァン・エスピノーサが2025年5月に発表した経営再建計画Re:Nissanまでの流れについてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/KFodAYfIXow

まずは1999年にCOOとして日産に派遣されるまでのカルロス・ゴーンの経歴についてお話しします。

ゴーンは1954年にブラジルでレバノン人の両親の元に生まれました。6歳の時に家族と共にレバノンのベイルートに移り住み18歳までそこで過ごします。

以前の投稿「世界3大商人(華僑、印僑、ユダヤ人)とのビジネスは大変だけど面白い」でも触れた通り、レバノン人とシリア人は"レバシリ"と呼ばれて世界3大商人と並ぶ商売上手と言われます。余談ですがアップルの創業者スティーブ・ジョブズのお父さんはシリア人です。ジョブズは生後すぐに養子に出されたそうですがシリア人の遺伝子があの様な天才を生んだのかもしれません。

ゴーンは正に典型的なレバノン商人でした。レバノンは過去からキリスト教徒が総人口の40%以上を占めておりゴーンもマロン派と呼ばれるカトリック教徒です。

キリスト教マロン派

レバノンの旧宗主国はフランスで現在でも緊密な関係を維持しています。ゴーンは18歳からパリに移りフランス理工系の最高峰であるパリ国立高等鉱業学校を卒業します。

卒業後の1978年にフランスのミシュランに入社しました。

工場長執務室のゴーン

フランス国内で工場長・産業用タイヤ部門研究開発責任者を経て1985年にブラジルの子会社である南米ミシュランのCOOに任命されます。南米ミシュランはハイパーインフレ下のブラジルで苦戦しておりゴーンは立て直しの為に派遣されたのでした。ゴーンはフランス・ブラジル・その他の多国籍の従業員の間での最良な業務形態を模索しクロス・ファンクショナル・マネージメントチームを結成します。ゴーンがCOOとして日産に着任した1999年にスタートさせた"リバイバルプラン"を策定したのも日産社内で編成されたクロス・ファンクショナル・チームでした。

ゴーンは南米ミシュランを黒字化させた後の1989年に北米ミシュランのCOOに就任、翌年CEOに昇格します。

北米ミシュラン時代のゴーン

北米ミシュランでは買収したユニロイヤル・グッドリッチ・タイヤのリストラに手腕を振るいました。ちなみに同時期にブリヂストンが米国のファイアストンを買収しており米国子会社のCEOとしてその経営立て直しに辣腕を振るったのが後にブリヂストンの社長となる海崎氏です。

1996年ルノーのCEOだったシュバイツァーはゴーンの事業再生(ターンアラウンド)の才能を見込んでルノーのNo.2としてスカウトします。

ゴーンはベルギー工場閉鎖など不採算事業所の閉鎖や調達先の集約などで経費の圧縮を進め赤字だったルノーの経営を数年で黒字へと転換させます。

1999年3月にルノーは日産の株式の36.8%を取得し4月にゴーンが日産に着任します。

シュバイツァーは日産への出資を検討していた時からゴーンを送り込む事を決めていたのではないかと思います。「ゴーンならば日産の立て直しが出来る」と考えて出資に踏み切ったのかもしれません。ゴーンはルノーのNo.2という役職はそのままで兼務という形でした。

井上久男氏の著作「日産vsゴーン 支配と暗闘の20年」によると日産は1999年3月末までに8000億円の資本注入をしなければ倒産を回避出来ない状況に追い込まれていた中で日産が本命提携先と考えていたダイムラーから3月10日に交渉打ち切りを宣告されて残された時間は20日となってしまい塙社長が急遽パリに飛んでルノーと交渉し両社の提携を決めたのだそうです。

塙社長とシュバイツァーが大手町の経団連会館の共同記者会見で両社の提携を正式に発表したのは3月27日でした。

日産が発行する新株引受権付社債(ワラント債)を8000億円でルノーが引き受ける事が決まったのですがルノーの手持ち資金は2000億円程度しか無かったのでルノーの6000億円の資金調達にフランス政府が裏書(保証)したのだそうです。シュバイツァーも元財務官僚だったので政府に太いパイプがあったようです。

このあたりの流れを見るとルノーとフランス政府が日産に対して強気に出ていたのも分かる気がします。

ルノーの救済を受けた当時と現在の日産を"同じ様に危機的な状況"と見る事が多いのですが現在の日産の財務状況はそこまで悪くはなっていない様です。自動車事業におけるネットキャッシュ(手元資金から有利子負債を引いた額)は2025年3月末で1兆4984億円あります。更に未使用の融資枠(コミットメントライン)が2.1兆円ありこの1~2年で資金ショート(債務不履行)に陥るリスクは極めて低いと見られています。但し現在の日産はS&P・ムーディーズ・フィッチ等の海外の格付会社から格付を"投資不適格"に引き下げられているので、今後償還を迎える社債の借り換えに当たってはコスト増が避けられないでしょう。今期はトランプ関税の影響等もあって4500億円程度の赤字が見込まれておりリストラ費用と合わせると現在の余裕資金が相当減少する可能性もあります。

さて話をルノーの資本注入時点に戻します。4月に来日したゴーンは6月の株主総会で取締役に選任されCOOに就任しました。ゴーンは翌7月のエグゼクティブ・コミッティーにおいて9つのクロス・ファンクショナル・チーム(CFT)の編成を決定します。

エグゼクティブ・コミッティー

夫々のクロスファンクショナルチームCFTにはエグゼクティブ・コミッティーのメンバー2人が参加し更に40代の課長クラスが"パイロット"と呼ばれるリーダーとして1人置かれ、チームメンバーはこの3人によって関係する複数の部門から選ばれました。この"関係する複数の部門"と言うところがポイントです。ゴーンは日産の業績不振の理由の一つに「部門・地域の横断的機能と階層を乗り越えた業務の不足」を挙げていました。9つのクロスファンクショナルチームCFTに参加した社員数は総勢200人でした。日産の核となる若手・中堅社員200人が3ヵ月半徹底的に議論した末に纏め上げたのが"リバイバルプラン"だったのです。と言うと「日産は若手・中堅が自ら作り上げたリバイバルプランでV字回復を成し遂げた」と言う美しいストーリーになるのですが、実際はクロスファンクショナルチームCFTとゴーンの間で提案がキャッチボールされる中でゴーンの満足のいく内容に誘導される事が多かった様です。「リバイバルプランは日産の社員が自ら作り上げたのだ」という形を採る事で実行段階で誰も反対出来ない様にする意図があったものと思われます。

リバイバルプランには多くのリストラ策が盛り込まれていました。5工場の閉鎖によって2002年迄に工場稼働率を53%から77%に引き上げると謳われました。またグループ従業員の14%に当たる2万1千人の削減、航空宇宙部門等本業以外の事業の売却も挙げられていました。

ゴーンが最も執着したコスト削減が"購買"でした。"購買"とは具体的には"部品の購入""資材の購入""設備の購入""サービスの購入"を指します。日産の場合は総コストの60%、売上高の58%をこの"購買"が占めていました。リバイバルプランでは「3年間で20%」という購買コストの削減目標を掲げました。ゴーンは1999年10月にリバイバルプランを発表するのですがその席上3つの必達目標(コミットメント)を宣言します。1)2001年3月期までの黒字化、2)2003年3月期までの営業利益率4.5%以上の達成、3)同じく2003年3月期までの有利子負債50%削減でした。そして「目標達成出来なかったら責任を取る」と宣言したのです。この宣言で日産社内の緊張感は一気に高まりました。目標未達でゴーンが引責辞任となったら各部門の責任者も当然更迭されるからです。

私がリバイバルプランの特徴として特に印象深かったのは日本企業特有の"しがらみ"を断つ事でした。日本企業の特徴の一つは企業グループです。戦前の財閥をルーツとするグループやメインバンクを中心とするグループがありグループ内の企業で株式を持ち合ってビジネスで一定の配慮をします。日産は戦前鮎川義介が率いた日産コンツェルンの流れを汲む春光会と旧富士銀行が中心だった芙蓉グループに所属しています。ゴーンはこれらグループ企業との株式持合を解消すると同時に取引にメスを入れて行きました。

このあおりを受けた企業の一つが日本鋼管でした。

日本鋼管川崎製鉄所

日産はそれまで自動車用鋼板を6社から購入しており芙蓉グループメンバー企業である日本鋼管の1998年度のシェアは24%でした。日産は「鋼板の購入先を3社程度に絞るので数量増となるメリットの分を価格で20%程度還元して欲しい」と各社に依頼しました。その後日産との間で個別協議が行われ結局新日鉄(現日本製鉄)60%川崎製鉄30%その他10%という結論になります。これがきっかけとなって日本鋼管は川崎製鉄に統合される形で現在のJFEスチールとなりました。

もう一つ大きな影響を受けた企業は丸紅でした。丸紅も芙蓉グループの主要メンバー企業です。

その繋がりから丸紅は世界各地に日産車を輸入販売する子会社(ディストリビューター)を設立し地場ディーラーのネットワークを作っていました。

日本国内の自動車ディーラーにはメーカーと資本関係の無い地場ディーラーとメーカーが出資する直資ディーラーがあります。一方海外では日本の自動車メーカーは殆ど地場ディーラーを通じて販売を行っています。販売台数の多い先進国では自動車メーカーが子会社を設立しその子会社が輸入した車を地場ディーラーに卸します。この子会社がディストリビューターです。当該国に工場がある場合は製造会社がディストリビューターを兼ねるケースと別途ディストリビューターの販売子会社を設立するケースがあります。別途設立するケースでは製造会社は販売子会社を経由して地場ディーラーに車を供給します。一方で販売台数がそこまで多くない発展途上国ではメーカーは総合商社に販売を任せる事が多いのです。販売を任された総合商社は当該国に子会社を設立しそこを経由して地場ディーラーに車を卸します。この場合ディーラーネットワークの構築も総合商社の仕事になります。

総合商社でこういった業務を行うのは自動車部です。どこの総合商社と取引するかはメーカー毎に色分けされています。一番分かり易いのは三菱自動車と三菱商事の関係です。三菱商事の自動車事業本部長から転籍した益子修氏が三菱自動車の社長・会長を歴任していましたね。

益子修氏

トヨタは三井物産とグループ企業の豊田通商の2社を使っています。トヨタと三井物産の繋がりは1899年に三井物産が豊田佐吉が発明した豊田式木製動力織機の一手販売契約を結んだ時から続くものです。

豊田佐吉

豊田式汽力織機

ホンダはメインバンクの三菱銀行の関係から三菱商事を使っています。ホンダが浜松から東京に進出した1950年に三菱銀行京橋支店との取引を開始したのがホンダと三菱銀行の関係の始まりです。ホンダは三菱銀行京橋支店に特別な恩義がありました。

少し話が逸れますがホンダと三菱銀行京橋支店の取引のエピソードに触れたいと思います。ホンダは1952年にカブ号F型を発売しました。自転車用補助エンジンの最新作で白い燃料タンク・真っ赤なエンジンはデザイン的にも斬新で自転車に取り付けたスマートな姿は誰にでも親しめる雰囲気を持っていました。

カブ号F型

ホンダはカブ号F型を売り込む為に5万軒を超える日本中の自転車店にダイレクトメールを送りました。返事が来た3万軒に「1軒1台ずつ申し込み順にお送りします。小売価格は2万5千円ですが卸価格を1万9千円にします。代金は郵便為替でも三菱銀行京橋支店へ振り込んで頂いても結構です。」と返信しました。町の自転車店にしてみれば見知らぬ会社に先払いで代金を送るのは躊躇するところです。そこでホンダは三菱銀行に掛け合って京橋支店長名義で「当行の取引先ホンダへのご送金は三菱銀行京橋支店にお振り込み下さい」とホンダの信用を裏打ちする手紙を銀行からも送って貰ったのです。ホンダの目論見は大当たりし1万5千軒の申し込みがあったそうです。

さて話を戻すとトヨタ・ホンダ・日産・三菱と総合商社の取引はキッチリと色分けされていました。なのでスズキ・マツダ・スバルは伊藤忠と日商岩井(現双日)が国毎にテリトリー分けをしていました。日産は総合商社との取引を丸紅に集中させており丸紅も他の日系自動車メーカーとは一切取引をしていませんでした。ところがゴーンは殆ど全世界のディストリビューターを自前化してしまったのです。丸紅が苦労して作り上げたディーラーネットワークは日産が自前化したディストリビューターから車を仕入れる様になりました。以前の投稿"オリガルヒ列伝"でも触れましたがロシアにおいては自動車販売はマフィアとの繋がりが強い業界です。そんなところで丸紅は苦労しながらディーラーネットワークを構築していたのですがそれをそっくりそのまま日産に横取りされる事になったのです。私がロシアで会った丸紅の人は「日産車だけは買わない」と言っていました。

日産から切り離された物流子会社2社のうちバンテックは日立物流に吸収され日産陸送はシンガポールのタンチョン・インターナショナル・グループの傘下に入りました。


ちなみに日立は2022年に日立物流の持株の大半を売却したので現在の社名はロジスティードとなっています。この売却は以前の投稿"日立の選択と集中"でも触れた日立の思い切った事業ポートフォリオ見直しの結果です。

リバイバルプランは当初2003年3月期までの3年間でしたが1年前倒しで目標をクリアしました。2002年3月期に3727億円の当期利益を計上し営業利益率は7.9%でした。有利子負債は54%削減しました。

リバイバルプランに続いてリストラからの反転攻勢を目指す2002~2004年度の新中期経営計画「日産180」を策定します。

「日産180」では1)グローバル販売台数100万台増、2)営業利益率8%、3)有利子負債ゼロ(自動車金融事業を除く)をコミットメントとして掲げ全て達成しました。この反転攻勢期に海外ネットワークの拡充も行われました。現在でも日産の主要マーケットである米国では2ヶ所目の現地生産拠点となる"キャントン工場(ミシシッピー州)"を新設しました。

キャントン工場

日産は苦しかった1990年代にアジアで日系他社に大きく後れを取っていました。中国では1990年代以降経済発展とともに自動車需要が拡大し世界の自動車メーカーがこぞって進出していました。中国進出で先行していたのはVWとGMでしたがトヨタ・ホンダも続いていました。先行する各社は中国企業との合弁会社を設立して自社の自動車の製造販売を行っていたのですが日産は遅れを一気に取り戻す為に更に踏み込んだ合弁を行いました。日産と東風汽車集団有限公司が折半出資した東風汽車有限公司は日産車の製造販売以外に東風汽車ブランドの商用車の製造販売等も行っていました。

インドへの進出は更に遅れました。私がニューデリーに駐在していた1999~2001年にインドに進出していた日系自動車メーカーはスズキ・トヨタ・ホンダの3社でした。以前の投稿"スズキの海外展開"でお話しした様にスズキのインド進出は桁外れに早い1981年だったのですがその後のインド市場の拡大を見てホンダは1995年にニューデリー郊外のグレーターノイダにトヨタは1997年にバンガロール(現ベンガルール)に工場進出していました。一方ルノー・日産が世界初のアライアンス工場としてチェンナイ郊外に"ルノー・日産・オートモーティブ・インディア(RNAI)"を設立したのは2007年でした。

ルノー・日産・オートモーティブ・インディア(RNAI)

インドは輸入完成車に極端な高関税を課しているので工場が稼働する2010年までインドにおける日産のM/Sは限りなくゼロに近いものでした。ちなみに2025年3月に日産はRNAIの持分51%の株式を全てルノーに売却すると発表しました。RNAIは引き続き日産ブランドの車を製造して日産100%子会社のディストリビューターであるインド日産に販売します。余談ですが最近は日系自動車メーカーがインド工場で製造した車を日本国内で販売するケースが増えて来ましたね。ホンダのWR-Vやスズキのフロンクス等です。

さて話を中期経営計画に戻すとゴーンは「日産180」の達成に続いて2005~2007年度の中計「日産バリューアップ」を策定するのですがこの時初めてコミットメントが未達になります。

世界販売目標420万台に対して377万台の販売となり2006年度は7年ぶりの減益となりました。これは私見ですがゴーンは2005年からルノーのCEOも兼務する様になった為に管理スパンがあまりにも広くなり過ぎたのではないでしょうか。2007年にダイムラーがクライスラーを米国の投資会社に売却した後にゴーンはクライスラーの買収を検討していた様です。

売却後に看板を張り替えるクライスラー

もしそれが実現していたら日産・ルノー・クライスラー・三菱の4社連合グループでトヨタを上回る規模となっていたでしょう。以前の投稿"日産盛衰史"でも触れた様に2012年にはルノーと日産によるロシア最大の自動車メーカーアフトバズの買収もありました。この買収はプーチンと親密な関係にあったゴーンによって成し遂げられたものです。当時のロシアの自動車市場規模はドイツを抜いて欧州1位になる勢いでした。ロシアのウクライナ侵攻によって売却せざるを得なくなりましたがもしそんなアクシデントが無ければルノー日産連合はインドにおけるスズキの様にロシアの自動車マーケットを支配していたでしょう。

こんな規模の大きなグループ全体の世界戦略に取り組んでいる経営者がグループ会社の一つである日産の新車開発の細々した問題にまで参画するのは無理があります。日産にやって来た当時ゴーンは早朝から深夜まで働くので"セブンイレブン"という綽名が付いていたそうです。そこまでしたからV字回復を達成したのでしょうがその彼の能力を以てしてもルノー日産三菱のグループ全体を日産単体のCEOだった時と同じレベルで見る事は出来なかったのですね。以前の投稿"世界3大商人(華僑、印僑、ユダヤ人)とのビジネスは大変だけど面白い"でも触れましたが彼等の特徴の一つは仕事を部下に任せきりにしない事です。レバノン人のゴーンも部下に仕事を任せるのが苦手だったのかもしれません。

私はモスクワに駐在していた2010年に仕事でパリ近郊の日産欧州HQsを訪問する機会がありました。

日産欧州HQs

こちらは私の他に日本本社とパリ事務所からの日本人計3名とロシア人スタッフ2名、ドイツ人スタッフ1名だったのですが先方のミーティング参加者は窓口となっていたイタリア人担当者・ハンガリー人マネジャー等計6名でその中に日本人はいませんでした。私は「日産はもはや日系企業ではなく外資系多国籍企業なのだな」と思ったものでした。欧州HQsには日本人も僅かにいましたがその時に我々がプレゼンした案件のラインには日本人がいなかったのです。当時私は日産の日本本社を訪問する機会が無かったのですが後で起こった事を見ると外資系企業になっていたのは日産の海外だけで本社は相変わらずJTCだった様です。

ルノー日産三菱の販売台数は2017年には1000万台を突破してトヨタを抜いて販売台数世界第2位になるのですがその直後の2018年11月にビジネスジェットで羽田に着いたゴーンは東京地検特捜部により金融商品取引法違反容疑で逮捕されます。


日産の西川CEOが企てたクーデターが成功した瞬間でした。ゴーンに徹底的に媚び諂う事でCEOに上り詰めた西川氏のクーデターは明智光秀の本能寺の変を思わせます。ところが翌2019年9月には西川氏も株価に連動した報酬制度(SAR)における報酬水増し問題が発覚し辞任に追い込まれます。明智光秀と同じく"3日天下"となってしまったのです。

西川氏の辞任後は山内COOが暫定CEO代行となり社外取締役が過半数を占める指名委員会での後任CEO選定は迷走します。指名委員6人の内3人が専務の関潤氏・2人が三菱自動車COOのアシュワニ・グプタ氏・1人が暫定CEOの山内康裕氏を推薦しました。

アシュワニ・グプタ氏

関潤氏

山内康裕氏

ところが「過半数を取れていない」として当時まだ約43%出資していたルノーの会長で指名委員でもあったジャンドミニク・スナール氏が反対したのです。

ジャンドミニク・スナール氏

その結果当初誰も推薦していなかった専務の内田氏がルノー側の推挙により社長に抜擢されました。関潤氏より内田氏の方が操り易いと考えたからだと言われています。

内田誠氏

関氏は2019年12月に内田CEOの下でCOOに就任するのですが1ヵ月足らずで辞任します。関氏は日本電産でCEOを務めた後に台湾鴻海のEV事業責任者となりました。

日産と鴻海の提携の噂が出ていますね。日産も鴻海に買収されるのではないかと経産省が神経質になっている様です。

内田氏がCEOに就任した直後の2020年3月期決算で日産は6712億円の最終赤字に陥ります。前期は3191億円の最終黒字でしたから急速な悪化と言えます。ゴーンがリストラに大ナタを振るった2000年3月期の6843億円の最終赤字に次ぐほどの巨額赤字でした。売上高が前年同期比14.6%減の9兆8789億円と大きく落ち込み本業の儲けを示す営業損益段階でも405億円の赤字に転落した上に6000億円規模の構造改革費用を計上したのが主な要因です。構造改革費用の大半は事業用資産5220億円の減損損失でした。投資金額を回収出来ないと認識した時点で固定資産の価値を減少させるのが減損の考え方です。将来の台数需要見通しと比較して現在の生産能力が余剰であるとしてグローバルな事業用資産を財務計算上5220億円減損させた訳です。日産の世界販売台数は前年の552万台から493万台に減少していました。これはグローバル需要が9200万台から8600万台に落ちた影響が大きかったのですがその後もコロナショックで世界需要が更に急減すると考えて世界需要減少のトレンドに合わせて過剰になった生産キャパシティを最適なところにまでスリム化していく必要があるとしたのです。

逆境の中、内田氏率いる新生日産は2020年5月に事業構造改革計画「NISSAN NEXT」を発表します。テーマは"最適化"と"選択と集中"でした。

"最適化"とは生産能力20%削減、商品ラインナップ20%削減等、身の丈にあった寸法の体制を目指すものです。"選択と集中"はコアマーケットとして日本・中国・北米に集中するというものでバルセロナ工場とインドネシア工場は閉鎖とされました。これらの改革が奏功し純利益は2020年度▲4487億円から2021年度+2155億円2022年度+2219億円2023年度+4266億円と回復します。2022年度はロシアのウクライナ侵攻に伴うロシア撤退費用1200億円が計上されておりそれを除くと純利益は3419億円の黒字でした。

一方販売台数は2017年度の577万台をピークとして2019年度493万台2020年度405万台2021年度388万台2022年度331万台2023年度344万台と低空飛行でした。コロナ禍と半導体不足の影響で車が世界的な供給不足となっていた為に台当たり利益が大きくなっていたのです。なのでコロナが終わり半導体の供給が戻るとメーカー毎の優勝劣敗がはっきりしてしまいました。


販売台数推移

2024年度の販売台数は335万台で純利益は6709億円の赤字となりました。責任を取る形で内田氏は辞任し後任にはメキシコ人のイヴァン・エスピノーサ氏が選ばれました。

エスピノーサ氏はメキシコ出身で2025年時点で年齢は46歳、2003年にメキシコ日産に入社して商品企画を中心としたキャリアをスタートしました。次期社長候補にはジェレミー・パパンCFO、欧州事業責任者のギョーム・カルティエ氏と商品企画責任者のエスピノーサ氏の3人が挙がっていたそうです。JTCではダメだと分かったんですかね。

2025年4月に社長に就任したエスピノーサ氏は5月にビジネス環境の変化に迅速に対応できるスリムで強靭な事業構造の実現を目指す経営再建計画Re:Nissanを発表しました。

1)2026年度までに自動車事業の営業利益およびフリーキャッシュフローの黒字化 2)固定費と変動費で計5000億円のコスト削減 3)人員を20,000人削減し車両生産工場を17から10へ削減、の3つの目標を掲げています。閉鎖される工場の一つは前述のインド工場です。2025年7月には追浜工場と日産車体の湘南工場の生産終了を発表しました。国内工場の生産能力を大幅に削減するのはゴーンのリバイバルプランで2001年に村山工場を閉鎖して以来約25年ぶりになります。


Re:Nissanにおいては"販売台数に依存しない収益性を目指す"としており2025年度の販売台数見通しは前年比2.9%減の325万台となっています。この見込みには米国関税の影響は含まれていませんので実際にはこれを大きく下回るものと推測されます。スズキの2025年度販売台数見通しは332万台ですから日産は2025年度日系自動車メーカーの販売台数でスズキに次ぐ4位となるのはほぼ確実です。

以前の投稿"スズキの海外展開"でお話しした様にスズキは天才経営者鈴木修さんの決断で2012年に米国から4輪部門を完全撤退させているので米国関税の影響は全く受けないのです。

さて今回の「カルロス・ゴーンの功罪と日産の現在(いま)」のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。ゴーンが金融商品取引法違反容疑で逮捕された2018年11月から7年が経過し2017年度577万台を販売していた日産は販売台数でスズキに抜かれるのが確実な情勢となっています。2017年には販売台数でトヨタを上回っていたルノー日産三菱グループは空中分解してしまいました。現在の日産の苦境の原因はゴーンの拡大路線による過大な生産能力と言われますがもしゴーンが失脚していなかったらどうなっていたでしょうか。ゴーンであれば何らかの手を打てていたのか或いはゴーンであっても現在の苦境は避けられなかったのか興味あるところです。それではまた。

レバノンへ逃亡後のゴーン

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

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