今回は、フィリピンのマニラ首都圏マカティ市で2003年7月27日に発生したクーデターについてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
27日(日曜日)未明、国軍将校や兵士約300人が「大統領退陣」などを求め、ショッピングセンター「グロリエッタ」内にあるサービスアパートメント「オークウッド」を占拠しました。
私は2002年から2006年にかけて4年間フィリピンに駐在し、この「オークウッド」に住んでいました。
実は前々日の7月25日金曜日から、クーデターがありそうだという情報が、SMSでフィリピン人の間を飛び交っていました。私の会社のローカルスタッフによると、クーデターの黒幕はホナサンらしいという事でした。ホナサンとは、コラソン・アキノ大統領の任期中にクーデター未遂事件を起こした陸軍大佐です。
クーデターは第一級の国家反逆罪ですので、首謀者は通常は極刑に処されます。226事件の首謀者は全て死刑でした。私はローカルスタッフに「ホナサン?今どうしてるの?」と聞きました。ローカルスタッフは事も無げに「上院議員やってます」と答えました。これがフィリピンの"緩さ"です。
今年(2022年)実施される大統領選挙では現時点(2022年2月)で、過去に独裁政権を敷いた故マルコス元大統領の長男フェルディナンド・マルコス元上院議員(ボンボン・マルコス)が圧倒的な優勢です。この"根に持たない緩さ"(Short Memory?)がフィリピンなのです。
私は、日本人もこのフィリピンの人達の寛容さの恩恵を大いに受けていると思います。太平洋戦争の時、日本軍は"米国の植民地であるフィリピンを解放する"事を、理念として掲げていましたが、実は1934年に米国議会で成立した"フィリピン独立法"によって、1944年7月4日に独立する事が約束されていたフィリピンにとっては、日本軍の侵攻は迷惑でしかありませんでした。その後、米国が支援するゲリラ部隊と共産党のゲリラ部隊が、抗日ゲリラ戦を展開します。
ベトナム戦争を見ても判るように、民間人の間に隠れたゲリラと戦う際は、どうしても民間人を巻き添えにしてしまう為、日本軍はフィリピン大衆の憎しみの対象となりやすかったのです。ところが私がフィリピンに駐在していた間、フィリピンの人達の反日感情を感じる事は全くありませんでした。
さて金曜日にローカルスタッフからクーデターの話を聞いた時は半信半疑だったのですが、日曜日の朝、取引先の接待ゴルフの予定があったので早めに起きて準備をしようとした時、やたらとヘリコプターの音が聞こえました。しばらくすると、一緒に接待ゴルフに参加する予定だった日本人の部下から携帯に電話がかかってきました。彼が「無事ですか?」と聞くので、「なんで?」と聞き返すと、「クーデター軍がオークウッドを占拠してますよ。テレビをつけて下さい。」と言いました。テレビをつけると、私が住んでいるオークウッドを上空から捉えた映像が映し出されました。
ゴルフ接待はオークウッドから約2kmしか離れていないマニラゴルフだったので、恐らくクーデターの影響で営業していないと推測されました。私は日本人の部下に、ゴルフキャンセルの連絡を取引先に入れるように依頼しました。
電話を切ったのが午前6時30分頃です。急にゴルフの予定が無くなったので、何をして過ごそうか考えました。外出は出来なさそうなので、オークウッド内のプールサイドのデッキチェアで、本でも読みながらゆっくりしようかな、と考えて、まずは様子を見に行く事にしました。
オークウッドの入っているビルは、1階から5階までは商業施設になっていて、6階に受付がありました。居室からのエレベーターは6階までしか行けず、そこでエレベーターを乗り換えて1階に降りるようになっていました。住民専用のスイミングプールやスポーツジムなども、受付と同じ6階にありました。
私は、とりあえずスイミングプールの様子を見に行こうとして、居室のあった20階からエレベーターに乗りました。ちなみにフィリピンでは、縁起の悪い13階は存在しないので、実際は19階です。
6階でエレベーターが開くと、目の前にはいつものユニフォームを身に付けたオークウッドの従業員と、迷彩服に銃を持った兵士が並んで立っていました。オークウッドの従業員はいつもと変わらない様子でにこやかに、「大変ご迷惑をおかけします」とだけ言いました。兵士は何も言わずに黙って立っていました。私は「ちょっとプールサイドの様子を見に行くので通してくれ」と言っても良かったのですが、そうは言わずに、黙って閉ボタンを押して自分の居室に帰りました。
居室に帰ってテレビの報道を見ていると、アナウンサーが「クーデター軍は外国人の人質(Foreign Hostages)を取って...」と言っていました。それを聞いて「この人質って私の事?」と思いました。
そうこうしているうちに、館内にアナウンスが流れました。「住民の皆さんにはウェスティンホテルにお移り頂きます。移動に使うバスが着いたら、またアナウンスしますので、速やかに1階に集合して下さい。」という事でした。ウェスティンホテルはオークウッドから6kmくらい離れた、マニラ首都圏パシグ市にありました。
着替えなどをまとめてボストンバッグに詰めて待っていると、「バスが着きましたので、1階に降りて下さい。」という館内アナウンスがありました。私は居室を出る時、念の為"Don't Disturb"の札をドアノブに掛けておきました。
居室を出てエレベーターで6階まで降り、ロビーを通って、1階に降りるエレベーターに乗り換えたのですが、ロビーには迷彩服を着た兵士が溢れていました。兵士たちは寛いだ様子で、ピリピリした感じは全く無かったので、住民たちもあまり緊張せずに1階でエレベーターを降りて、車回しに停められたバスに向かおうとしたのですが、急に兵士たちが緊張した面持ちになり、「床の電線に触るな!」と繰り返し叫びました。
クーデター軍は占拠したオークウッドの建物の周辺に爆発物を仕掛けていて、それらの爆発物と起爆装置を繋ぐ配線コードが、エレベーターの前の床にむき出しで置かれていたのです。幸い爆発は起こらず、私は他の住民たちと一緒にバスに乗り込みました。
20分くらいでウェスティンホテルに到着すると、「米国人はこちらに来て下さい」という呼びかけがありました。ホテルのロビーに米国大使館の人達がいて、避難してきた米国人を一人一人確認していました。米国以外の大使館の人はいませんでした。
ちなみにオーストラリアの大使もオークウッドに住んでいたのですが、バスには乗らずに大使館の車で空港に直行して、そのままオーストラリアに帰ってしまいました。
ウェスティンホテルでは、米国人以外の人達はレセプションに並んで、チェックインの手続きをしました。宿泊料はオークウッドが負担するという事で、無料でした。
反乱将兵は同日午後、政府との交渉の末、兵舎に戻ることで合意しました。アロヨ大統領は27日夜、テレビで演説し、「危機は去った」と述べ、マニラ首都圏での国軍将兵の反乱事件は終結したと宣言しました。
私はその夜はウェスティンホテルに1泊し、翌朝オークウッドに戻りました。オークウッドの周辺では、クーデター軍が設置した爆発物の撤去作業が行われていました。私の居室には特に変わった様子はありませんでした。
その後、クーデターに参加した将兵が処罰されたのですが、極刑となった者はおらず、一番軽い刑は、"腕立て伏せ20回"でした。
過去のクーデターでは、実際に銃弾が飛び交った事もあったようですが、この時はクーデター軍の兵士と鎮圧に向かった国軍の兵士が、オークウッドの周辺で談笑する様子がテレビ中継されるなど、緊迫感とは程遠い状況でした。
さて今回の、フィリピンのマニラ首都圏マカティ市で2003年7月27日に発生したクーデターについてのお話はここまでです。以前の投稿「東南アジアで最も民主的な国、フィリピン(前後篇)」で、1965年に大統領に就任したマルコスから、現在のドゥテルテ大統領までの流れを説明していますので、良ければ併せてご覧下さい。
フィリピンの次期大統領選は今年5月9日投開票予定で、前述のようにボンボン・マルコスがリードしています。機会を見て、フィリピンの次期大統領選についても、またお話ししたいと思います。それではまた。
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