石破首相は2025年5月に日経新聞主催の「アジアの未来」国際フォーラムで演壇に立った際に2008年に防衛大臣としてシンガポールのシャングリラホテルで開催された英国国際戦略研究所主催のアジア安全保障会議(通称シャングリラ会合)に出席した時のエピソードを紹介しました。
石破さんはシンガポールの建国の父リー・クアンユー初代首相と面会した際に「日本がシンガポールを占領した時に何をしたのか知っていますか」と訊かれ学校の歴史の授業で習った「シンガポールを占領して昭南島と名付けた」位しか知らなかったのでその様に答えたところリー・クアンユーは悲しい顔で「それしか知らないのか」と言ったそうです。不勉強ぶりを晒してしまったと感じた石破さんは帰国して日本とシンガポールの間で何があったのかを学んだと言う事です。
さて今回はリー・クアンユーが石破さんに質問した日本がシンガポールを占領した時に行った事「シンガポール華僑粛清事件」についてお話ししたいと思います。
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私がこの事件について知ったのは1999~2001年にかけてニューデリーに駐在していた時でした。1970年代にシンガポールに駐在した経験のある知人から「当時土木工事現場で大量の人骨が発見されオーチャードロードを歩いていた日本人が襲撃される等の事件があって身の危険を感じた」と言う話を聞いた時です。以前の投稿"インド駐在はつらいよ"でお話しした通り私は出張や日本食料品の買い出し等で頻繁にシンガポールを訪れていたのですがシンガポールの人々は大変親日的でまさか過去にそんな事件があったとは夢にも思いませんでした。
私の知る限りシンガポールの現役政治家も正面切って日本の政府関係者に「シンガポール華僑粛清事件」の話をする事は殆ど無い様に思います。石破さんは2008年のシャングリラ会合の際にリー・シェンロン首相とも別途面談していますがそこではこの様な話は一切出ていません。既に首相を退任していたリー・クアンユーとの非公式な面談の場だったからこその質問だった様に思います。
石破さんの真摯な態度・人柄がリー・クアンユーにその様な踏み込んだ質問をさせたのかもしれません。「シンガポール華僑粛清事件」は「南京大虐殺」に劣らぬ凄惨な大虐殺と言われるのですが中国が反日運動で「南京大虐殺」をアピールするのに比してシンガポールは自制的に対応してくれているので「シンガポール華僑粛清事件」を知らない日本人が多くいるものと思います。
「シンガポール華僑粛清事件」が起きたのは1942年2~3月にかけてです。日本陸軍は1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃より約1時間早くマレー半島東北部のコタバルに上陸しました。半島を縦断し英連邦軍を破ってシンガポールを占領したのは1942年2月15日でした。
シンガポールのフォード自動車組立工場で陸軍第25軍司令官の山下奉文と英連邦マラヤ司令部司令官のアーサー・パーシバルが降伏交渉を行いました。
日本軍はシンガポールを占領すると直ぐに「昭南島」と命名します。名前の由来は「昭和時代に獲得した南の島」という意味です。
英領マラヤの攻略に際して日本軍はマレー人を上回る人口となっていた華僑の抵抗に遭います。1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発する日中戦争が拡大する中で東南アジア各地では華僑の反日感情が高まり対中支援活動が盛んになっていました。英領マラヤ特にシンガポールの華僑が東南アジアにおける抗日運動の中心になっていたのです。
日本軍の南方占領の目的は重要資源の獲得で南方軍総司令部ではその為の抽象的な方針は示されたのですが東南アジア各地で経済的な力を持っていた華僑に対する具体的な施策は現地の軍に任されました。山下奉文がシンガポール陥落以前の1941年12月に定めた第25軍の「華僑工作実施要領」では「服従を誓い協力を惜しまない動向をとらざる者に対しては断乎その生存を認めない」としていました。
シンガポール陥落の二日後に組織された昭南警備隊の司令官には第5師団歩兵第9旅団長だった河村参郎少将が任命されました。
山下は河村に軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用する為シンガポールの安全を乱し軍の作戦を妨げる可能性のある華僑"抗日分子"を掃討する事を指示しました。掃討作戦の詳細については参謀長鈴木宗作中将と参謀辻政信中佐から以下の様に指示されました。
1. 掃討作戦の終了後は警備隊の兵員を別作戦に転用するので作戦を2月23日迄に終わらせる事
2. 選別対象は①元義勇軍兵士②共産主義者③略奪者④武器を所持・隠匿している者⑤日本軍の作戦を妨害する虞のある者➅治安と秩序を乱す者並びにその虞のある者とする事
3. 中国人の住民を集めて抗日分子を選別、並行して疑わしい場所を捜索して隠れている者を拘束し、抗日分子は全て秘密裏に処刑する事
掃討作戦の指示が出された時点で締め切りの2月23日まで1週間を切っていました。辻参謀は作戦の監督役とされました。
2月19日に山下第25軍司令官の名で「シンガポール在住の18~50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」とする警備隊命令が布告されます。「この命令に従わない者は厳重処分する」とされていました。2月21~23日にかけて憲兵隊はシンガポールを5つの地区に分けて検問を行いました。
集合場所に集まってきた華僑を尋問し選別された華僑をトラックに載せて海辺や山中に連行しあるいは小舟で海上に連れ出し機銃掃射によって殺害しました。殺害の対象となった「抗日分子」の選別は厳密に行われていた訳ではなく辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばす等、粛清する人数そのものが目的化されていた為、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出していました。この為多数の無関係のシンガポール華僑が殺害されました。
リー・クアンユーは回顧録で「命令に従って集合場所に行ったが身の危険を感じて『荷物を取りに行きたい』と申し出て友人宅に戻り1日半ほど潜伏していたところ理由は分からないが審査済とされて帰宅を許可され危うく難を逃れた」と述べています。
その時リー・クアンユーが殺されてたら今のシンガポールは無かったかもしれません。危ういところで命拾いしたリー・クアンユーが面談当時防衛大臣だった石破さんに悲しい顔で「それしか知らないのか」と言ったのも分かりますね。
「シンガポール華僑粛清事件」の正確な犠牲者数ははっきりしていません。シンガポールの戦犯裁判の法廷で日本軍が認めた堅めの数字でも死者は少なくとも6千人以上とされています。
1942年3月4日付の朝日新聞の記事には2月28日~3月3日までの全島一斉検挙で70,699人の抗日華僑容疑者を逮捕したとの記述がありこのうち何名が無事釈放されたかは不明です。シンガポールの戦犯裁判に提出された第25軍の従軍記者の文書では記者が2月18or19日に第25軍の(辻ではない)参謀から「第25軍参謀作戦部の計画で抗日分子の容疑で5万人の中国人が殺される事になっている」と聞いた事、その後に同じ参謀が「5万人を殺害する事は不可能だと分かったが約半数は処刑した」と話した事、更にその約1ヵ月後に別の参謀から「5万人を殺害する計画だったが約半数を殺害した時に作戦停止命令が出された」との話を聞いた事等が陳述されています。シンガポール国立公文書館の文献等では犠牲者数約5万人というのが一般化しているそうです。
1947年4月シンガポールの戦犯裁判で昭南警備隊長河村参郎中将と第2野戦憲兵隊長大石正幸中佐の2人に絞首刑、他の5人の被告に終身刑が宣告されました。山下奉文司令官はマニラの戦犯裁判で死刑が確定し1946年2月に処刑されていた為シンガポールの戦犯裁判では起訴されませんでした。掃討作戦の詳細指示に関わった鈴木参謀長は1945年4月にフィリピンで戦死していました。
掃討作戦の詳細指示に関り監督役を行った参謀辻政信は第18方面軍高級参謀としてバンコクで終戦を迎えました。辻は8月14日に方面軍司令官に"国家百年の為"に潜伏する事を願い出て許可されます。司令官は英国の問い合わせに対して「辻は敗戦の責任を感じ自決する為に離脱した。山中において一人で命を断ったとみられる」と虚偽の説明を行いました。
辻は日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏するのですが、英国が捜索を強化するとバンコクにおける中華民国代表部に赴いて「日中平和の為働きたい」と大見得を切り、中華民国代表部の助けによって1945年11月にハノイに渡り、更にそこから飛行機で重慶へ行きました。
中国では連合国であった国民党政権に匿われ国防部勤務という肩書を与えられます。辻が過去に蔣介石の特務機関のボスである戴笠の家族を助けたので国民党政権が辻へかなりの親近感を持っていた為だそうです。
蔣介石自身も蔣の母親が病死した際の慰霊祭を辻が以前に行った事から辻に非常な好意を持っていたと言われます。
やがて始まった中国の国共内戦が国民党に不利になり始めたので中国に留まる事に危機を感じ1948年に上海経由で日本に帰国し戦犯で訴追されるのを避けて国内に潜伏します。一時期は児玉誉士夫のもとに身を寄せていたそうです。
英軍は辻の帰国直後から捜査を再開したのですが逮捕には至らず1949年9月に戦犯裁判終了をGHQに通告しました。GHQはそれを受けて辻を戦犯容疑者の逮捕リストから削除し、辻をGHQ参謀第2部のエージェントとして利用するようになります。結局辻が戦犯として逮捕・起訴される事はありませんでした。
戦犯指定から逃れた辻は1950年にサンデー毎日に逃走潜伏中の記録「潜行三千里」を連載しこれが単行本となって同年度のベストセラーとなります。辻はその後著書を次々出版しベストセラー作家としての知名度を確立しました。
辻は1952年に石川1区から衆議院議員に初当選し自由党を経て自民党に所属します。
1959年には参議院に鞍替えして全国区で3位当選します。
1961年辻は参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し4月4日に公用旅券で日本を出発します。辻は北ベトナムでホー・チ・ミンに会う事を望んでいたそうです。予定では1カ月程度の日程だったのですが5月半ばになっても帰国しない為家族の依頼により外務省は現地公館に調査を指示します。
辻はラオス入りを支援した旧日本軍兵士・現地軍将校によって4月21日に目撃されたのを最後に消息を絶っていました。その後の調査で仏教の僧侶に扮してラオス北部のジャール平原へ単身向かった事が判明します。
辻とともに粛清を主導したとみられている参謀の朝枝繁春は戦後半藤一利のインタビューで「辻が中国に逃れ蒋介石に匿われて重慶にいた頃にタイ・ラオス・ミャンマーの黄金の三角地帯からアヘンを仕入れ隠匿していたので、それを回収して中国で売り選挙資金を得るつもりだったのではないか」との推理を語っていました。
ちなみに「シンガポール華僑粛清事件」の際に朝枝は軍刀を抜いて「軍の方針に従わねば憲兵でもぶった切ってやる」と言って強引に粛清を強要して回ったと言われており、半藤のインタビューでは朝枝が辻にばかり責任を押し付けるような事を言った為、最後には両者で怒鳴り合いになったそうです。朝枝はシベリアに抑留されていたので戦犯裁判を免れました。
辻はその後発見される事は無く家族の失踪宣告請求により1969年に東京家裁が死亡宣告を行ないました。死亡原因については諸説がありはっきりしていません。
1966年日本政府はシンガポールとの間で「SGD2,500万相当の日本の生産物と役務を無償で供与する」という内容の戦後賠償協定を締結し、1967年にシンガポールにおいて両国外相が「第2次大戦の間のシンガポールにおける不幸な事件に関する問題の早期のかつ完全な解決の為である」として調印します。1994年には村山富市首相が日本の首相として初めて慰霊塔(日本占領時期死難人民記念碑)を訪れ献花しました。日本占領時期死難人民記念碑はダウンタウン中心部の戦争記念公園にある慰霊塔で1942年2月~1945年8月の日本軍占領時期の市民戦没者追悼の為に1967年に建設されました。シンガポール島内で発掘された華僑粛清の犠牲者の遺骨が納められています。
さて今回の「シンガポール華僑粛清事件」のお話はここまでです。辻は「シンガポール華僑粛清事件」後の1942年3月に参謀本部作戦課に呼び戻されて作戦班長となりその後マニラ占領後にバターン半島に立て籠もる米比軍の追撃の戦闘指導の為にフィリピンに派遣されバターン半島で日本軍に投降した米比軍の捕虜が捕虜収容所に移動する際に多数死亡した「バターン死の行進」にも関わっています。また辻は関東軍がソ連軍機械化部隊に大敗した1939年のノモンハン事件の首謀者と言われています。辻政信についてはまた機会を改めてお話ししたいと思います。それではまた。
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