現在(2025年2月)ホンダと日産の経営統合協議決裂が話題となっています。ホンダが日産に「子会社になれ」と言って"対等な立場"を主張してた日産が怒ったと伝えられていますが、昨年12月の記者会見での日産内田社長の発言「どちらが上どちらが下ではない」に対しては「ホンダがそれを言うなら分かるが日産が言うか?」という反応が多かった様です。
ホンダについては過去に"ホンダの海外展開 - 本田宗一郎と藤澤武夫の夢の続き -"という投稿をアップしましたので今回は経営統合協議のもう一方の当事者だった日産の歴史についてお話ししたいと思います。なお終戦直後から1980年代までの歴史についてはデイビッド・ハルバースタムの「覇者の驕り」を参考にしています。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
橋本増治郎が中心となって1911年に設立した快進社が日産の源流になります。
豊田自動織機がトヨタの起源となる自動車部を開設したのは1933年ですから日産はトヨタより22年も前にその歩みを初めていた事になります。1914年に完成した車は快進社に出資した田・青山・竹内の頭文字を取って脱兎号と名付けられました。
その後快進社はダット自動車製造と社名変更して鮎川義介が設立した戸畑鋳物の傘下に入り、1934年鮎川率いる日本産業コンツェルンの構成会社として日産自動車と改称しました。
ちなみに永く日産車のブランドネームとして使用されたダットサンは"田・青山・竹内の息子"を意味しています。当初はSONだったのですが損は縁起が悪いという事から太陽のSUNに変えてDATSUNにしたそうです。
第2次大戦中は乗用車の生産は中止され軍用トラックの製造に専念しました。日本産業コンツェルンの持株会社は満州に移され日本陸軍が満州で使用したトラックの大部分は日産自動車製でした。
戦後鮎川及びその他の会社幹部は公職追放で会社を去った為1947年に報知新聞社取締役だった箕浦多一が社長に就任するのですが、外部から来たため会社に慣れない箕浦は就任4カ月後にメインバンクの日本興業銀行に財務担当の派遣を依頼します。この時に派遣されたのが1957~1983年まで日産の社長・会長を務める事となる川又克二でした。
当時川又は42歳で自動車についての知識は全く無く運転も出来ませんでした。興銀時代の川又の評価は決して高くなかったので左遷されたようです。国策銀行だった興銀は当時巨大な権力を持っていました。一方の日産はいつ倒産するかも分からない弱小企業だったのです。1950年の日産の総生産台数は戦前型のトラック11,072台と乗用車865台でした。2023年度の生産台数は339万台ですからその1%にも満たない規模だったと言う事ですね。
興銀から派遣されて日産自動車の常務となった川又は強力な組合と対峙する事となります。日本の占領を開始した当初マッカーサーは日本を"中道左派"に持って行こうとしていました。そのため労働組合加入を合法化して積極的に組合結成を奨励したのです。終戦後の一時期日本では過激な組合運動の嵐が吹き荒れていました。
川又が日産に派遣された時に労組の委員長だったのは益田哲夫です。益田は戦後自動車産業の労働組合として結成された全日本自動車産業労働組合及びその支部である日産自動車分会で委員長を務めていました。
産業別労組の委員長が分会を率いていた事から日産分会は自動車業界の中で最も過激だったのです。他の役員の腰が引けている中で川又は前面に立って組合と対決しました。
1953年5~9月に後に"日産百日闘争"と呼ばれる労働争議が起こります。
川又は経理部の下級管理職だった宮家愈に第2組合を作らせて対抗しました。この宮家の片腕となったのが入社したばかりだった塩路一郎です。
塩路が先頭に立って第1組合(日産分会)側労働者の引き抜き・切り崩し作戦を展開し日産分会は完敗して労働争議は終息します。その後宮家と塩路の率いる組合は社内で川又を全面的にサポートして反川又派の幹部社員と対峙する様になりました。
1955年に反川又派は川又と組合に対する最後の攻撃を仕掛けます。反川又派のリーダーは当時の社長・浅原です。
川又は当時専務に昇格していました。浅原と彼の仲間は興銀の役員達と会合を持ちその席で川又の罪が列挙されました。未熟だ、野心があり過ぎる、組合べったりだ、等です。そこで川又を子会社である日産ディーゼルに転出させる事が決定されました。
自身の追放を知った川又は宮家に相談します。宮家は興銀の頭取への働きかけを行いながら一方でストライキをちらつかせて関係者に圧力を加え川又の日産ディーゼル転出を阻止します。この攻撃失敗で力を失った浅原は2年後に社長を退くのですが後任に指名しようとしたのは川又ではなく原科恭一という別の人物でした。原科は生産部門の人々に圧倒的に人気があったのですが興銀と組合の支持を受けて川又が社長に就き原科はその3年後に日産ディーゼルに転出しました。これ以後川又は組合に頭が上がらなくなります。
解散に追い込まれた日産分会に代わって唯一の労組となった日産労組の初代委員長だった宮家は日産に戻って役員になる事を希望していました。1961年に宮家は日産本社の業務部長として職場復帰し塩路が後任の委員長となります。当時既に取締役となっていた石原俊が邪魔をしたので宮家は役員になれなかったという話もありますが定かではありません。ちなみにこの石原は1977年に社長に就任しています。
ここまでにお話しした川又克二・塩路一郎・石原俊の3人がその後長きに渡って権力闘争を繰り広げる事になります。
1950年代後半の日本は高度成長期に差し掛かっていました。日産は急激に伸びる需要に応えるべく多額の設備投資を繰り返していたのですが銀行出身の川又は過大なリスクを取る事を恐れていました。自分ではなく原科を支持した生産部門が主張する巨額な設備投資に反対する気分もあったのかもしれません。「覇者の驕り」ではトヨタに比べて遅くかつ規模も小さい投資に留まる日産を描写しています。
川又は横須賀市追浜の工場用地取得の決定を遅らせた上、生産部門が月産2万台の工場規模を主張したのにそれを5千台まで縮小しました。
皮肉なのはその追浜工場に川又の銅像が建てられた事です。存命の経営者の銅像を建てる事は稀ですがこれをやったのは宮家でした。
塩路は宮家の様に日産に戻って出世する事は望まず組合の委員長に留まって権勢を振るいました。塩路は日産に戻るよりも組合の委員長でいる方が大きな権力を維持出来る事を知っていたのです。1966年日産は経営難に陥ったプリンス自動車工業を通産省主導により吸収合併するのですが、プリンスの組合は以前の日産の第1組合の様に過激なものでした。
塩路は川又の意を汲んでプリンスの組合を切り崩しその組合員の大半を日産労組に取り込みます。塩路は川又を後ろ盾として益々その権力を強めて行きました。
さて主要登場人物としてご紹介したもう一人の石原俊は若くして取締役経理部長を務めていたのですが、1955年の反川又派による川又と組合に対する最後の攻撃に際して反川又派に与したと見られ経理部長を外されて米国向け輸出担当になります。
当時の日産車は品質で米国製自動車に大きく遅れており成功の見込みが薄い米国向け輸出担当は明らかな左遷でした。
石原は1960年に米国日産自動車の社長に任命されるのですが勤務地は東京のままでした。
この時米国西海岸の責任者だったのが片山豊です。1935年に日産に入社した片山は労働争議の時は宣伝課長の職にあったのですが第1組合・第2組合の両方から距離を取っていました。それが原因で労働争議の後、彼の社内での立場は脆弱なものとなりました。
1958年彼はオーストラリアで行われるラリーに参戦する事を役員会に提案して承認を得ます。それは1万マイルのでこぼこ道を19日間で走破する過酷なラリーでしたがフジと名付けた車は優勝しサクラと名付けた車も上位入賞しました。
当時の日本の道路の状態があまりに酷かったので日本車は耐久性に優れざるを得なかったのが勝因という事です。このオーストラリアでの勝利によって日産は真剣に自動車輸出を検討し始めます。貿易立国を目指した通産省の意向があったのかもしれません。
ラリー勝利の2年後の1960年に片山は米国西部の営業責任者としてロサンゼルスに異動となります。これは組合に距離を取った為に本社内で浮いた存在となっていた片山の追放を意味しました。ところがカリフォルニアが大変気に入った片山にとってはそれは解放でした。彼はその後17年間米国に駐在したのです。
この片山と石原のコンビで日産は米国における販売を大きく伸ばして行きます。二人とも反主流派でしたが、どちらかと言うと気は合わなかった様です。片山は完全に米国のビジネススタイルに馴染んでそれを採用しようとしていたのですが、一方の石原は国際派とは言うもののあくまでも"日本人ビジネスマン"でした。しかし彼等は米国で事業を成功させるという一点では心を一つにしていました。
完全に浮いた存在となっていた片山が米国から本社に品質改善について要望を挙げても無視されました。片山が東京に要求を出す度にそれは彼が日本人というより米国人化した証明として受け取られたのです。ところが同じ事を石原が言うと皆が耳を傾けました。川又との間に問題はありましたが石原はまだ社内に影響力を持っていました。石原が東京本社に居る事もプラスに働いた様です。石原自身も「自分が東京にいるから要求を通せる」と言っていました。石原が経理畑の出身である事も要求を通す上で有利に働きました。常にコストアップに反対する経理部門でしたが石原は彼等の信用を得ていたのです。
片山は米国でコツコツとディーラー網を拡大して行きました。片山は勇気と野心のある人々を集めてディーラーとしました。ディーラーとなった彼等は後に百万長者となりました。
VWが完全に優位を占めていた米国輸入車販売実績トップテンに日産は1964年に初めてランクインします。VWは米国輸入車市場の63%を占め年間の販売台数は30万7千台でした。余談ですがVWビートルの圧倒的な人気で米国でのシェアを伸ばしたVWはその後、ゴルフ(米国における車名はラビット)で運転感覚や車種のキャラクターを一般的米国車に近付け過ぎた為にシェアが長期低落します。
日産は1965年7月に販売台数が月1000台に到達し1966年には年間2万2千台1967年には3万3千台と台数を伸ばしました。
1968年に日産のシェアを大幅に伸ばす車が米国で発売されます。それがブルーバード510でした。米国ではダットサン510の名前で販売されました。
510はエンジンのパワー不足を訴え続けた片山の要望に沿って新開発のL型水冷直列4気筒SOHC1600ccエンジンを搭載し、サスペンションは日産初の四輪独立懸架を採用していました。
510は先行発売されていたBMW1600と同じコンセプトでありながら値段は半分以下だったのです。
510は初年度10万台売れて米国の輸入車第3位となりました。
この510は日本では1967年にブルーバード1600SSSとして発売されて爆発的に売れていました。SSSはスーパースポーツセダンの略です。五木寛之が1969年に発表した短編小説「ダブル・クラッチ」ではストーリーの中心にブルーバード1600SSSが登場します。
1970年には片山が待望したスポーツカーが米国にやって来ます。フェアレディZでした。米国では240Zの名で販売され"Z Car"と呼ばれて大人気となりました。
1973年の第一次オイルショックは日産にとって更なる追い風となりました。米国運輸省が第一回の燃料消費量測定を行った結果、日産のサニー(米国名ダットサン1200)が最高得点を獲得しました。日産は「ダットサンは節約する」というTVコマーシャルを流して大々的に売り込みを図りました。
米国における日産車の拡販で大きな功績のあった片山ですが東京本社との関係は最後まで悪いままでした。1975年に石原の部下が米国日産社長として送り込まれて片山は会長となり1977年に突然帰国を命ぜられ帰国と同時に定年退職させられました。1983年米国の雑誌Car&Driverは「ユタカ・カタヤマ貴方はどこへ行ってしまったのか?」というタイトルの記事で「日産の製品は面白味に欠ける様になった」と嘆きました。
片山は米国日産を率いて米国自動車市場で成功した功績により1998年に米国自動車殿堂入りします。後にも先にも日産から米国自動車殿堂入りしたのは片山だけなのですが日産の社史では片山について一切触れていないそうです。
日産社内で米国における成功を独り占めしたのは石原でした。川又との確執で左遷されて米国向け輸出担当となったのですが米国での成功によって再び出世街道に復帰したのです。1973年に川又が社長を退任する際多くの人が次は石原が社長になるべきと考えていましたが川又は組合に受けの良い岩越を後任の社長に指名しました。4年後の1977年にやっと石原に番が回って来た時、彼は65歳でした。
石原の社長就任後も川又=塩路連合との対立構造は続きました。石原と塩路の対立が顕在化したのが米国への工場進出でした。石油危機の結果日本から米国への自動車輸出が急増し1980年には全米自動車労組(UAW)が急増する日本車の輸入制限を求めて米国国際貿易委員会(ITC)への提訴に踏み切ります。高まる圧力を受けて日本政府と自動車業界は1981年に対米自動車輸出台数を制限する"自主規制"を導入する事になります。
自主規制を受け入れた日本車メーカーは米国での現地生産を加速します。塩路は1959~1960年にハーバードビジネススクールに留学していた事もありUAWの幹部とは親交がありました。なので塩路は早くから米国への工場進出を主張していたのですが石原はどちらかと言うと後ろ向きでした。その石原が最終的に工場進出を決めたのは米国南部テネシー州ナッシュビル郊外のスマーナで非UAW加盟工場となるものでした。UAW幹部と連絡を取り合っていた塩路の面目は丸潰れでした。
初代工場長となったのはフォードの副社長だったマービン・ラニヨンです。ラニヨンは製造部門の人間でフォードが財務部門によって牛耳られている事に不満を持っていました。フォードは米国陸軍統計管理局からフォードに移った"神童"と呼ばれるチームによって改革された後遺症で財務部門の権限が強かったのです。
神童チームの一員で後にフォードの社長からケネディ政権の国防長官に就任したマクナマラが有名です。
ラニヨンは日本式と米国式の良いところを組み合わせた経営で成果を上げます。米国への工場進出に消極的だった石原は当初米国工場をトラック生産のみに限定していたのですが、初期の成功に気を良くして1983年のトラック生産開始の1年後には乗用車の生産開始を決定しました。
米国への工場進出に続く英国進出に対しては塩路は強硬な反対の立場を取っていました。英国への工場進出を巡って石原と塩路は暗闘を繰り広げます。川又は元々海外進出全般に後ろ向きだった事もあり英国進出に反対だったのですがサッチャーの日本政府に対する働きかけの影響で態度を軟化させて行きました。財界活動に軸足を移していた川又としては政府や経団連の意向に忖度する必要があったのです。
石原と塩路の戦いはエスカレートして行き1983年には石原側がリークした記事がフォーカスで話題になりました。見出しは「日産英国進出をおびやかす塩路天皇のヨットと女の現場」でした。記事は「いかにも誇らしげに舵をとっている男性はヨットの持ち主である。この男が塩路で彼の後ろには銀座のバーのピアニストがいる」と書かれていました。
当時は色々な新聞・雑誌に塩路の銀座での夜遊びぶりや金銭問題、ヨット等についての記事が掲載されていました。1986年に川又が81歳で逝去しましたが塩路は告別式に参列しませんでした。石原が「参列したらフォーカスやフライデーのカメラマンに追い回されるだろう」と警告し塩路はそれを受け入れたのでした。
「覇者の驕り」に描かれた日産の歴史はここまでです。
石原は1977年の社長就任時に新経営方針の「グローバル10」を発表しました。世界の自動車マーケットにおける日産のシェアを10%に引き上げるという目標を掲げた積極的な経営方針で、米国・英国への工場進出以外にもスペイン企業モトール・イベリカへの資本参加、ドイツのVWとの提携生産、イタリアのアルファロメオとの合弁事業等を海外で展開しましたがそれらの多くは残念ながら失敗に終わり巨額の赤字を生みました。米国における片山の様な人物が他の国に存在しなかった事もそれらの失敗の原因ではないかと思います。
また従来のダットサンブランドをニッサンに統一した決定も失敗と評されました。特に北米市場では歴史と競争力を持っていたダットサンブランドを自ら放棄した事により売り上げが低迷しました。ちなみに2012年に新興市場向けの低価格ブランドとしてダットサンが復活するのですがその後販売が低迷し2023年にダットサンブランドの使用を停止します。伝統のブランド名を新興国向けの低価格車に使ったのは少し残念な気もしました。
「グローバル10」の急拡大路線は1990年代のバブル崩壊により日産の財務体質を悪化させ1992年の辻義文社長就任を機に石原は相談役に退きます。
その後も日産の経営は迷走を続け塙義一社長時代の1999年にフランス・ルノーの傘下に入る事となりました。
当時日産が提携相手の本命としていたのは実はルノーではなくダイムラーでした。私はモスクワに駐在していた2010年に塙社長の秘書を務めていた人物から当時の話を聞く機会がありました。日産本社での提携交渉が決裂した日その人は会議室を後にしたダイムラーのトップのユルゲン・シュレンプ氏ともう一人のダイムラーの役員を出口まで案内する為にエレベーターに一緒に乗り込んだそうです。エレベーターの扉が閉まって3人だけになった時に一方の役員が「良かった~。なんとか逃げ切れた。」と言い、シュレンプ氏が「おい、秘書が乗ってるんだから余計な事を言うな!」と言ったのだそうです。ダイムラーとしては「"危ない荷物"を背負い込まずに済んだ」と言う事だったのでしょう。
ダイムラーでさえ尻込みした日産を最終的に引き受けたのはルノーでした。ルノーは日産から見ると格下の相手です。過去には日産がルノーの買収を検討した事もあったそうですからルノーの傘下に入るのは相当抵抗があったと思います。
ルノーは副社長だったカルロス・ゴーンをCOOとして派遣します。ゴーンは1996年にスカウトされてミシュランからルノーに移り不採算工場の閉鎖や調達先の集約などで経費の圧縮を進め赤字だったルノーの経営を数年で黒字へと転換していました。ルノーはゴーンなら日産の経営改善が出来ると考えて出資に踏み切ったのでしょう。
ルノーとの提携とその後の改革で重要な役割を果たしたのは塙氏でした。格下のルノーの傘下に入るという決断は社内に激しい反対があったものと推察されます。ゴーンが進めたドラスティックな改革に対しても守旧派は激しく抵抗しようとした筈です。これらの反対派を抑え込んだのが塙社長です。
私がモスクワに駐在していた時にもう一つ印象深かったのは2012年のルノーと日産によるロシア最大の自動車メーカーアフトバズの買収です。この買収はプーチンと親密な関係にあったゴーンによって成し遂げられました。
当時のロシアの自動車市場規模はドイツを抜いて欧州1位になる勢いでした。ロシアのウクライナ侵攻によって売却せざるを得なくなりましたがもしそんなアクシデントが無ければ、ルノー日産連合はインドにおけるスズキの様にロシアの自動車マーケットを支配していたでしょう。
アフトバズの売却契約には6年以内に株式を買い戻す権利が盛り込まれているそうでその期限は2028年です。トランプが推進しているウクライナ和平が実現すると事に依ったらロシアに対する経済制裁が解除されるかもしれません。ただし日産は既にルノーとの決別を宣言しているのでルノーがアフトバズを買い戻しても日産が関わる余地は無いでしょうね。
さて今回の「日産の歴史」のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。カルロス・ゴーンの日産リバイバルプランでV字回復を果たした日産でしたが役員報酬を約50億円少なく有価証券報告書に記載したとする金融商品取引法違反容疑でゴーンが逮捕された後迷走を続けています。
今の日産の状況はルノーの傘下に入って救済された時と殆ど同じと思いますが残念ながら当時の塙社長の様な人物はいないようです。今後の展開から目が離せないですね。それではまた。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。