シルクロードの国、ウズベキスタン ー 開発独裁の失敗 ー

11/10/2021

ウズベキスタン

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今回は、2012年9月に出張でウズベキスタンのタシケントを訪れた際に見聞きした事を、お話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/qjJ0N2VjKXI

ウズベキスタンは日本の1.2倍の国土に、中央アジア5カ国+コーカサス3カ国の中で最大の人口(3423万)を有しています。

かつ、人口の3分の2が30歳未満で、毎年50万人ずつ増加しているという、大変若い国なのです。

当時、日本企業が中央アジアへの関心を高めており、複数日本企業で組成された調査団が、頻繁にウズベキスタンを訪れている状況でした。旧ソ連のウズベキスタンはモスクワに駐在する私のテリトリーだったため、本社からの問い合わせに備えてマーケット調査を行う必要があったのです。

私が出張時に見聞きした事をお話しする前に、まずはざっと、ウズベキスタンがどんな国か、ご説明したいと思います。もともとは遊牧民の国だったのですが、19世紀にロシアによって保護国化され、ロシア革命後はソビエト連邦の共和国となり、スターリンの時代にウズベク人指導者が粛清され、ロシア人官僚が派遣されて、ロシア化が進みます。

またスターリンは、ウズベキスタンに多く建設された強制収容所に、ロシア人政治犯の他、第2次大戦終戦時の日本軍捕虜なども送りました。

ウズベキスタンに送られた日本軍捕虜

その他、約20万人の朝鮮民族が極東ソビエトの沿海州から強制移住させられています。スターリンは沿海州の朝鮮民族の人々が日本のスパイとなる事を恐れた、と言われています。

同様の理由で、ロシア帝国時代にロシアに移民しヴォルガ川沿岸に自治共和国を設立したドイツ人の子孫(ヴォルガ・ドイツ人)も、ドイツのスパイとなる事を恐れて、ウズベキスタンに強制移住させています。

ヴォルガ・ドイツ人

多くのロシア人たちはソ連崩壊後にウズベキスタンを去りましたが、未だに人口の約2.1%を占めています。ドイツ人は、無条件でドイツ国籍を得られる事から、ベルリンの壁が崩壊した後に、多くがドイツに移住しました。

朝鮮民族の人々は、もともとロシアの沿海州に住んでいたのですが、多くはウズベキスタンに残り、一部の人々だけがシベリアと極東ロシアに移住しました。今でも朝鮮民族の人々が多く(約20万人)いる事から、韓国とウズベキスタンの繋がりは強く、ソウルとタシケントの間には直行便が飛んでいます。

ウズベク人は容貌的にはモンゴロイドを基本としてコーカソイドが濃厚に入り混じっているのですが、スターリンのおかげで色々な血が混ざりあい、白人から朝鮮系まで、様々な外見の人々がいます。ちなみに、プーチンの再婚相手のアリーナ・カバエワも、ウズベキスタン出身です。

アリーナ・カバエワ

さて、苛烈だったスターリンの死後、ウズベク人はあの手この手でモスクワ中央政府の束縛を逃れようとします。少しずつ束縛が緩んでくる中で、ウズベク人のイスラム・カリモフが1989年6月にウズベキスタン共産党中央委員会第一書記に就任します。このカリモフはソ連崩壊後も引き続いて、2016年に死去するまで大統領職に留まります。私が2012年9月にタシケントを訪れた時も、カリモフが大統領でした。

イスラム・カリモフ大統領

カリモフはタシケント州立大学で経済学の修士号を取得しており、経済運営に自信を持っていました。ソ連崩壊後のロシアは、エリツィンの下でガイダルが進めた急進的経済改革で、一時的にハイパーインフレや農工業の生産低下を引き起こします。カリモフは社会共産主義の経済体制を殆ど変えず、ロシアの混乱を横目で見ながら、自らの経済運営に自信を深めて行きます。

2020年の一人当たりGDPは、ロシアがUSD10,037、ウズベキスタンはUSD1,702です。やはりどこかで荒療治をしないとダメなのですが、カリモフはそんなことはお構いなしでした。

カリモフはインフレ対策と称して、1000スムを超える高額紙幣を発行しませんでした。1000スムは2012年当時の為替レートで40円です。なので人々は取っ手付きの小さなカバンのような財布を持ち歩いていました。スキミングが横行しているので、クレジットカードの利用は危険という事でした。

私は2012年9月2日にタシケント国際空港に降り立ちました。

タシケント国際空港

イミグレーションの行列は大した事はなかったのですが、その後の通関で延々待たされる事となりました。係官が全ての乗客の荷物を念入りに調べるので、時間が掛かっていたのです。

私の前には、米軍の兵士らしい外見の白人が、カーキ色のダッフルバッグを持って並んでいました。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件の後、ウズベキスタンは南部にあるカルシ・ハナバード空軍基地への米軍駐留を承認しました。その後、米軍はウズベキスタン国内から撤退したのですが、私の前に並んでいた米兵は、アフガンに関連した休暇中の兵士のようでした。

税関の検査場前には、複数ある検査カウンター毎に列が出来ていました。列はそれほど長くはないのですが、全部の荷物を念入りに調べるので、なかなか進みません。2時間以上待って、ようやく私の前の米兵の番になろうとした時、検査カウンターの係官が「ここはクローズする」と言いました。

とたんに米兵がすごい剣幕で怒鳴り始めました。身長2メートル近いがっちりした体格の米兵がすごい剣幕で怒鳴るのに恐れをなしたのか、係官はクローズするのを諦め、米兵に続いて私も対応して貰う事が出来ました。

タシケントの街で驚いたのは、走っている車の殆どが、白かシルバーグレーの大宇またはシボレーだった事です。


アフガニスタンへの補給路として、米国が特に力を注いで、特別な外交関係を築いていた事が、乗用車におけるGM(&大宇)の寡占に繋がっていたのです。

カリモフ大統領とブッシュ大統領

大宇がウズベキスタン国内に持っている工場で、大宇ブランドとシボレーブランドの乗用車を年間20万台製造し、半数を輸出して、残りをウズベキスタン国内で販売していました。

大宇のウズベキスタン工場

乗用車の輸入関税が、排気量1000ccで140%、2000cc以上では180~200%と極めて高いので、輸入車の販売量は少なく、GM(&大宇)のマーケットシェアは限りなく100%に近いと推察されました。

税務当局が輸入高級車に乗っている人を狙って査察を行うので、ローカルの富裕層は輸入高級車を敬遠していました。なので、高級輸入車に乗っているのは、外国人など限られた層のみでした。

自動車販売は完全な売り手市場で、注文から納車まで数ヶ月待たされるのが普通でした。白またはシルバーグレー以外の色を注文すると、納車までの期間が更に長くなるので、みんな白かシルバーグレーの車を買うのだそうです。​タシケントの街中で白とシルバーグレーの大宇及びシボレーばかりが走っている理由が判りました。

私はマーケット調査の一環でJETROのタシケント事務所を訪問しました。

JETROタシケント事務所の入居するビル

所長さんは親切な方で、車でタシケント市内を案内してくれました。まず案内されたのは、オペラとバレエのための劇場であるナヴォイ劇場です。

ナヴォイ劇場

この劇場は、捕虜として抑留されていた旧日本軍兵士が建設に関わっていた事で有名です。

1966年のタシケント地震では、78,000棟の建物が倒壊したのに、ナヴォイ劇場は無傷だったので、日本人捕虜の仕事の成果として有名になりました。ただし日本人研究者によると本当のところは、日本人捕虜が行った作業は内外装工事の『仕上げ』だったようで、日本人捕虜が建設に参加した時には、建物の基礎や躯体はほとんど出来ていたようです。

1996年カリモフ大統領が、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置しました。記念プレートには、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と書かれています。"捕虜"という言い方をしていないのは、カリモフ大統領の気遣いです。

ナヴォイ劇場のプレート

所長さんはその後、日本人墓地も案内してくれました。

さて、2012年9月のタシケント出張の話はここで終わりです。以前の投稿「シンガポール繁栄の理由」で説明した通り、シンガポールは開発独裁の大成功例ですが、ウズベキスタンは、対極にある残念な失敗例と言えると思います。

隣国のカザフスタンも同じく開発独裁で、カリモフと同じく共産党第一書記から大統領になったナゼルバエフが2019年まで大統領職にあったのですが、2020年の一人当たりGDPはUSD9,121.70と、中進国のレベルです。

ナゼルバエフ大統領

カザフスタンは地下資源が豊富なので、単純な比較は出来ないのですが、それでもナゼルバエフの経済運営がカリモフよりも優れていたのは、疑いようがありません。

2016年にカリモフが死去した後も、その後継のシャヴカト・ミルズィヤエフ大統領がカリモフの支持基盤と手法を受け継いでおり、大きな変革は行われていないようです。

シャヴカト・ミルズィヤエフ大統領

以前の投稿「最強の反社は警察 ー ロシアの汚職(腐敗) ー」でも、ウズベク人出稼ぎ労働者のタクシー運転手の話をしましたが、国内の経済状況が厳しいことから、数百万人がロシアに出稼ぎに行っています。モスクワに来ている出稼ぎ労働者については、また機会を見てご説明したいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/qjJ0N2VjKXI

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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