ユニクロの海外展開 - 宇部の紳士服店は如何にして世界的アパレル企業になったか - JTCを超えて 【海外進出日系企業研究】

10/05/2024

海外進出日系企業研究

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今回は、私が海外駐在していた時に印象深かった日系企業から、ユニクロについてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/60brTmQhJG0

1984年に広島に1号店をオープンしたユニクロは2018年にグループ売上高でGAPを抜いてZARA、H&Mに次ぐ第3位となりました。2023年8月期の売上高は2兆7665億円で海外売上比率は50%を超えています。

ユニクロ1号店

終戦直後に日本で創業されたソニーやホンダをはじめとする多くの元気なベンチャー企業は世界に飛び出して大成功を収めましたが、ユニクロはバブル崩壊後の日本から世界に羽ばたいた数少ないベンチャー企業の一つです。

私が海外のユニクロを初めて間近で見たのはモスクワに駐在していた時でした。2010年4月にユニクロがモスクワにロシア1号店をオープンしたのです。このユニクロロシア1号店オープンの経緯はドキュメンタリー番組として日本のTVで放映されました。

ユニクロは店舗運営のマネージャーを含むロシア人幹部候補を日本に呼んで3ヵ月間の研修を行い、日本で研修を受けた幹部が現地スタッフの採用・教育及びその他の1号店開店準備に携わりました。ところがいよいよ開店の日が近づいた時に突然ロシア人スタッフ全員が退職を申し出て来ます。日本から派遣されていた日本人スタッフは驚き慌てます。

その時に一人のロシア人幹部が「職場に戻る様に私が皆を説得してみましょう」と申し出て来ます。日本人スタッフは藁にもすがる思いでそのロシア人幹部に説得を依頼します。最終的に給与を2倍に引き上げる事を条件に全てのスタッフが戻って来ます。その結果無事に予定通り1号店をオープンする事が出来ました。

このTV番組はロシアでも視聴可能だったので多くのモスクワ駐在員が見ていました。大手日系メーカーのロシア現地法人社長だった私の知人(日本人)は「ユニクロの対応は"お子ちゃま"だ。」とコメントしていました。その知人はそれ以上の詳細な説明はしなかったのですが私なりの推測をしてみます。

まず言えるのは説得に当たった幹部も含めてロシア人スタッフ全員が"グル"だったのだろうと言う事です。ストレートに給与アップ交渉をしても大幅引き上げを呑ませる事は難しいと考えて、開店間近のギリギリのタイミングで全員退職という手段で脅しをかけたのです。

全員退職した時に交渉窓口を作らないと「しょうがない。開店を延期してまたスタッフの採用と教育をやり直そう。」となってしまう可能性があるのでロシア人幹部の一人が「戻る様に私が皆を説得してみましょう」と申し出た訳です。

この流れを防ぐ為の一番簡単な方法はロシア企業との合弁事業とする事です。以前の投稿"オリガルヒ列伝"でもお話ししましたがソ連崩壊後の混沌を生き延びたロシア企業はロシア特有のトラブルに対応する力を備えています。ロシア人スタッフの中にスパイを潜り込ませて事前に悪だくみを察知し対応する事など朝飯前でしょう。

その後の対応としては首謀者に対して身体的な危険を匂わせるくらいの事はするかもしれませんね。または首謀者の給与だけ大幅に引き上げる約束をして他のスタッフを押さえる様に依頼するかもしれません。

以前の投稿"最強の反社は警察 - ロシアの汚職(腐敗) -"でもお話ししましたがロシアの汚職・腐敗や治安の悪さは西欧より東南アジアに近いものです。

但しここで問題になるのは信頼出来る合弁パートナーを見つけられるかどうかです。合弁パートナーに嵌められた場合の損害は従業員の悪だくみの比ではありません。信頼出来る合弁パートナーを見つけるには相当時間がかかります。合弁パートナーが見つからずにロシア進出を諦める事になるかもしれません。

以前の投稿"ドイツ人の特徴"では"走りながら考える"ドイツ企業とリスクを取る事を避けるあまり"石橋を叩いて壊す"日本企業についてお話ししました。私はユニクロは日本企業では稀な"走りながら考える"企業だと思います。おそらくはトップの柳井氏のキャラクターによるものでしょう。

苦労してロシア1号店をオープンしたユニクロは2022年時点でロシア全土に50店舗を展開していました。"走りながら考える"ユニクロらしい事業展開の速さですね。残念ながら2022年3月にロシア事業の一時停止を決定し以降ロシア国内全店舗の休業を続けています。休業はしたものの撤退はしないのもユニクロらしさですね。

ロシアの事例で判るのはユニクロはJTC(Japanese Traditional Company)の対極にある企業だと言う事です。

さてここからはユニクロの海外展開の歴史を振り返ってみたいと思います。

父親から引き継いだ山口県宇部市の紳士服店を世界的アパレル企業に育て上げた柳井氏が影響を受けたのがハロルド・ジェニーンという米国の経営者が書いた「プロフェッショナル・マネージャー」という本だそうです。

ジェニーンが唱える"3行の経営論"は「本を読む時は初めから終わりへと読む。ビジネスの経営はそれとは逆だ。終わりから始めてそこへ到達する為に出来る限りの事をするのだ。」というものです。この経営論に感銘を受けた柳井氏は未だ上場もしておらず山口・広島を中心に30に満たない店舗しか無いユニクロの"終わり"を"世界一"と定めます。日本企業では稀な"走りながら考える"ユニクロの始まりですね。

柳井氏は自身で設定した"世界一"というゴールに向かって脇目も振らずに疾走して行くのですが、バブル崩壊後に日本経済全体が暗いトンネルの中に入ってしまっていた当時柳井氏の野望は理解され難いものでした。杉本貴司氏の著書"ユニクロ"には広島証券取引所上場直前の柳井氏とメインバンク広島銀行の宇部支店長の確執が描かれています。

ちなみにその後柳井氏と広島銀行は関係を修復したらしく現在のファーストリテイリングの取引銀行には、3メガバンク、HSBC、JPモルガン・チェースと並んで広島銀行と山口銀行が入っています。

海外展開と言うと海外での販売に目が行きがちですがユニクロは海外出店の前から海外と取引を行っていました。それがSPA(Speciality Store Retailer of Private Label Apparel)です。SPAとはファッション商品の企画から生産・販売までの機能を垂直統合したビジネスモデルで、米国のファッション専門店GAPのフィッシャー会長が1986年に発表したものです。日本では「製造小売業」と呼ばれています。

SPAは素材調達・企画・開発・製造・物流・販売・在庫管理など製造から販売までの全ての工程を一貫して行う業態ですが、ユニクロは生産自体は外部の生産工場に委託しています。工場を持たない事からファブレス(fabless)と呼ばれます。ファブ(fab)とはfabrication facility(製造施設)の略です。ユニクロのファブレスはアップルがiPhoneの生産をEMS(電子機器の受託製造サービス:electronics manufacturing service)に委託するのと同じ様な感じです。

柳井氏が国境を跨ぐSPAのビジネスモデルを知ったのは香港で出会ったジョルダーノの創業者ジミー・ライからです。1986年に香港でジョルダーノの店に入った柳井氏は格安で品質の良いポロシャツに驚いて帰国後に知人を通じてジミー・ライのアポを取り付けたのです。柳井氏は単なる観光ではなく事業のヒントを求めて香港に行ったという事です。

広島にユニクロの1号店(ユニーク・クロージング・ウエアハウス)をオープンさせるに至るアイデアを得たのも、米国西海岸への視察旅行で見た大学のキャンパスにある生協だったそうです。


柳井氏は大学2年の夏休みに一人で世界一周の旅をしています。元々海外が好きだったから父親の紳士服店を継いだ後に貪欲に海外のビジネススタイルを学ぼうとしたのでしょうね。ちなみに柳井氏の奥様は学生時代の世界一周の時にスペインで出会った日本人留学生だそうです。

余談ですがジミー・ライはその後ジョルダーノを手放してアップルデイリー(リンゴ日報)という日刊紙を立ち上げました。2020年に香港国家安全維持法違反等で逮捕されたのが世界中でニュースになったのでご記憶にある方も多いと思います。

SPAでは販売元がデザインまで手掛けて工場に発注します。そうやって大量生産した服を全量買い取るリスクと引き換えに圧倒的な安価を実現するのです。但し海外工場への発注は日本国内の工場への発注に比べると多くの困難を伴います。海外工場に仕様書を丸投げにしてもなかなかその通りに作ってくれないので生産や品質の管理を発注者側が細かく行う必要があるのです。ユニクロは海外工場との交渉・生産及び品質の管理等を通して海外ビジネスを学んで行きます。更に柳井氏は香港の工場への生産委託を通じて東南アジアの華僑ネットワークへのアクセスを手に入れます。1987年に香港の工場への生産委託を開始したユニクロですが今では海外の生産委託先は中国、ベトナム、インドネシア、バングラデシュ、カンボジア、タイと広がっています。




ユニクロが世界的アパレル企業になったのは柳井氏のキャラクターに依るところが大きいのですが流石にたった一人でそれを成し遂げる事は不可能です。ユニクロ発展の陰には多くの若い優秀な人材がありました。

右端が澤田氏、左から3人目が玉塚氏

その筆頭は伊藤忠から転職した澤田貴司氏です。澤田氏は伊藤忠化成品部門に勤務していた当時に取引の無かった旭硝子に飛び込み営業を行って取引を開始したのだそうです。日本でBtoB営業をした事のある人なら直ぐに分かるのですがこれは驚異的な事です。旭硝子というのは三菱財閥の2代目総帥・岩崎彌之助の次男である岩崎俊彌が創業した企業です。岩崎彌之助は三菱財閥創業者岩崎弥太郎の弟ですから岩崎俊彌は岩崎弥太郎の甥にあたります。なので旭硝子は三菱グループの中核企業の一つです。

1989~1990年に行われた日米構造協議で米国側が日本の構造障壁として提起した六つの問題点の一つが"系列取引"で英語でも"ケイレツ"と言う言葉が通用するようになりました。

この系列取引の一つが財閥グループなのです。三菱グループは最も結束が固い財閥グループです。その三菱グループの保守本流である旭硝子が三菱商事以外の総合商社と取引をするなどと言う事は通常ありえません。そんな旭硝子との取引を開始した伊藤忠の澤田氏は並外れた能力を持ったビジネスマンだという事です。

1996年、転職活動をしていた澤田氏はリクルートの紹介でファーストリテイリングの宇部本社を訪ねて柳井氏と面談します。当時ファーストリテイリングは未だ東証2部上場前で首都圏に出店を開始したばかりでした。この時澤田氏はスターバックス日本法人の幹部の職が内定していたのですが柳井氏との面談後にそれを蹴ってファーストリテイリングに入社します。澤田氏にこの決断をさせたのが柳井氏のキャラクターです。

1997年にファーストリテイリングに入社した澤田氏がスカウトしたのが2002~2005年に社長を務める事になる玉塚元一氏です。玉塚氏は旭硝子で澤田氏のカウンターパートだったのですがその後日本IBMに転職していました。玉塚氏がファーストリテイリングに入社したのは1998年11月28日ユニクロ原宿店オープンの日でした。原宿店は都心攻略の1号店として出店したものでそこでの主力商品がユニクロを飛躍に導く事となるフリースでした。原宿店の主力商品をフリースにすると決定したのは都心攻略の責任者だった澤田氏です。

左から玉塚氏、柳井氏、澤田氏

このフリースブームに乗って会社が急成長する中で2000年に柳井氏はロンドン出店を決定します。原宿店オープンから2年も経っていませんでした。SPAで馴染みのあるアジアではなくロンドンにした背景には柳井氏の「世界一を目指すならまずはファッションの本場で戦う」という考えがありました。

このエピソードを聞いて私が思い出したのはホンダです。以前の投稿"ホンダの海外展開"でもお話ししましたが創業以来本田宗一郎さんと二人三脚でホンダを牽引した藤澤武夫氏は、日本で大成功したスーパーカブの輸出を開始するに当たってまずは東南アジア、次に欧州、最後に米国と攻めるのが順当だと誰もが考える中で、世界経済の中心である米国で需要を開拓すれば一気に世界市場で成功出来ると考えて対米輸出を決めたのです。ホンダが最初に海外4輪工場を建設したのも米国オハイオ州メアリスビルでした。

ユニクロは2001年9月にロンドン市内に4店舗を同時にオープンさせます。3年で英国内に50店舗をオープンするという目標が設定されていました。ところが残念ながらユニクロの英国進出は失敗でした。ロンドン進出から1年後には英国内に21店まで膨らんだ店舗網を一旦整理する事になります。

原因は、国内のフリースブームで忙しかった事もあり「郷に入りては郷に従え」として現地の経営陣にオペレーションを丸投げしてしまった事でした。英国の百貨店マークス&スペンサーの新規事業担当だったスティーブ・ポンフレットを引き抜いてトップに据え、ポンフレットが自らの人脈でGAPの幹部等をスカウトして英国オペレーションの経営陣を結成します。この英国の経営陣はユニクロ社内で"ドリームチーム"と呼ばれていたそうです。

ここで思い出されるのが2023年のWBC決勝戦直前のミーティングで大谷翔平が言った「憧れるのをやめましょう」です。"ファッションの本場"として最初の進出先に選んだロンドンで当時のユニクロから見れば遥かに先を行くアパレル企業からスカウトした経営陣を"ドリームチーム"と呼んでいたというのは"憧れ"と言うしかないですね。日本人がオペレーションに口出しし難い雰囲気が醸成されて経営陣以外の英国人スタッフも日本人の指示に従わない様になります。この状況は海外進出を開始した日本企業が必ずと言って良いほど通る道です。

ユニクロが凄いのはそれを長く放置する事無く素早く手を打った事です。ロンドン進出から1年と少しで"ドリームチーム"との契約を打ち切り英国内の21店舗をロンドンの5店舗に集約します。

ところがユニクロはこの英国におけるオペレーション縮小の直後である2002年9月に海外進出の第2弾として上海に2店舗を同時オープンさせます。英国での大失敗が顕在化している状況で更に他の国に進出するなんてJTCでは在り得ません。この中国事業を任されたのは中国から日本に留学した後にユニクロに入社した3人でした。中国事業も当初は戦略が定まらずに英国と同様に途中でオペレーションの縮小に追い込まれるのですが、中国事業を任された3人の内の一人である潘寧(ばんにん)氏が出店を任された香港店の大成功を突破口として、現在(2023年8月期)では中国のユニクロ店舗数は925店と日本国内の800店を上回っています。

潘寧氏

英国と中国の例で判るのはユニクロは常に失敗から学んで立ち上がるという事です。普通の経営者であればオペレーション縮小のタイミングで完全撤退すると思うのですが、ユニクロは失敗の原因を見つけてそれを改善する事で成長しようとします。以前の投稿"JTの海外展開"では「JTは大型買収前にパイロット(試験的)買収で経験を積んだ」とお話ししました。ユニクロはパイロットケースではなく本番の失敗で経験を積んでそれを成功に結び付けているのです。

2023年8月期のユニクロの海外店舗は1634店で国内の800店の2倍を超えています。ファーストリテイリングの2023年8月期連結売上高は2兆7665億円で海外ユニクロは1兆4371億円と52%を占めます。営業利益の海外比率は更に大きい60%です。





今やファーストリテイリングは立派なグローバル企業なのですが柳井氏は目標の"世界一"に向けて走り続けています。トップのZARAと2位のH&Mの背中が見えていますから世界一になるのも遠い未来ではないかもしれません。

さて今回のユニクロの海外展開のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。JTCの対極にあるファーストリテイリングはバブル崩壊後の日本から羽ばたいてグローバル企業になりました。日本はバブル崩壊後の長いトンネルを漸く抜けつつあるように見えます。これから更に多くのベンチャー企業が世界に羽ばたいて行くと良いですね。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/60brTmQhJG0

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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