YKKの海外展開 - 富山の中小企業は如何にして世界ファスナー市場の巨人となったか - 【海外進出日系企業研究】

16/02/2024

海外進出日系企業研究

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今回は、私が海外駐在していた時に印象深かった日系企業から、YKKについてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/US0RMYSWC68

私が1991~1995年にドイツ・デュッセルドルフに駐在していた時に仕事の関係で訪問したYKKの工場は大変印象的でした。

ドイツ工場はフランクフルト中心部から約35kmの人口約1万人の町Mainhausenにありました。

35kmと言うと"フランクフルトの郊外"と思われるかもしれませんが以前の投稿"ドイツ人の特徴"でお話しした通り、地方分権の歴史が長いドイツでは各種の機能が多くの都市に分散しており一極集中を避ける事に成功しているので、金融の中心であるフランクフルトも人口は76万人しかいません。なので中心部から35kmも離れたら郊外ではなくただの田舎です。

当時私が住んでいたデュッセルドルフは日系企業の誘致に積極的だった為、多くの日系企業が進出していました。デュッセルドルフが誘致に力を入れる前に日系企業が多く進出していたのは北部の港湾都市ハンブルクでした。デュッセルドルフとハンブルクに比べるとフランクフルトに進出する日系企業は限定的だったので、そこから更に35km離れた場所にあるYKKは以前の投稿"日本企業の海外工場進出 こんなところに工場?!"で紹介したフランクフルトの南西約200kmにあるクボタの工場ほどではないにせよ「こんなところにわざわざ工場作る?!」という感じではありました。

更に驚いたのはその時に面談した社長がドイツ→オーストリア→ドイツと15年以上継続して海外勤務をしていた事です。90年代前半の当時は海外に駐在する日本人は現在よりも遥かに少なかったので、海外勤務と本邦勤務を交互にする会社が多く、海外間の異動は稀でした。ところがYKKでは一旦海外に出ると10年以上海外勤務が続くのは普通との事でした。

YKKの人が長く海外駐在する理由は簡単でYKKがファスナー世界M/S45%のトップメーカーだからです。YKKは世界のファスナー市場で2位以下を大きく引き離したジャイアントなのです。日本国内ファスナー市場におけるYKKのM/Sは95%なのですが世界売上に占める日本国内の割合は8%弱しかありません。なので必然的に海外駐在員の駐在期間が長くなるのです。

更に創業者である吉田忠雄氏が海外に赴任する社員に「土地っ子になれ」と言っていた事も海外駐在期間が長くなる理由と考えられます。

吉田忠雄氏

「土地っ子になれ」とは「現地に生まれたつもり、永住するつもりで溶け込め」という意味だそうです。ちなみに私が面談したドイツ会社の社長はドイツ→オーストリア→ドイツの駐在期間中ずっと家族帯同でお子さんは現地校に通っていたのでドイツ語がペラペラだった事から日本の大学に進学する為に単身帰国した後にNHKのTVドイツ語講座に出演していました。

この「土地っ子になれ」はYKKの工場立地にも関係が有る様に思います。日本人コミュニティにドップリ浸かる事無く地元に馴染む為に敢えて周辺に全く日系企業の無い場所を選んでいるのではないでしょうか。私はドイツに駐在している時に出張してオーストリア工場を訪問する機会もありました。オーストリア工場はウィーン中心部から約70kmの人口約2千人の町Marzにあります。私は工場に行く為にウィーン市内でタクシーに乗ったのですが、運転手がMarzを知らなかったので地図を見せて説明しなければなりませんでした。


私が1999年に赴任したインドではYKKの工場はニューデリーから90km離れたジャリアワスJaliawasという村にありました。ニューデリーに隣接したハリヤナ州にある人口1000人前後の小さな村です。


YKKインド工場に赴任して来た社長がニューデリー日本人商工会で着任挨拶をした際に「サウジアラビアから来ました。サウジアラビアでは7年間勤務していました」と言った時には私の隣に座っていた総合商社の現地トップも「凄い会社だな」と漏らしていました。

さてここからはYKKが如何にして世界ファスナー市場のジャイアントになったのか、その歴史を見て行きたいと思います。YKKの創業者である吉田忠雄氏は1908年に富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれました。20歳の時に貿易商になる夢を胸に上京し中国陶器やファスナーの輸出入を手がける古谷商店に勤めます。

ところが古谷商店は4年足らずで倒産してしまい忠雄氏は在庫品のファスナーを引き取って1934年にサンエス商会を立ちあげます。

サンエス商会

その後、江戸川区小松川にファスナー製造工場を建てるのですが、工場が空襲で焼失した為に魚津に疎開し再起を図る中で終戦を迎えます。

焼失した小松川工場想像図


魚津工場

戦後魚津工場が徐々に軌道に乗り始めた1947年に忠雄氏は米国人バイヤーが持って来た米国製ファスナーを見てショックを受けます。それは自社製品より遥かに品質が良く、しかも価格が安かったのです。当時魚津工場では手作業でファスナーを製造していたのですが米国製は全ての工程が機械化された製品だったのです。それが高品質・低価格の理由でした。

手作業によるファスナー製造

「安価で高品質な米国製ファスナーが入ってきたら太刀打ち出来ない」と考えた忠雄氏は生き残りを賭けて米国製のファスナー製造機械を輸入する決断をします。ところが当時は戦後の外貨不足の為に厳しい外貨割当の制限があり簡単には輸入許可が下りませんでした。当時はまだGHQによる占領統治下です。忠雄氏は霞が関に通い詰め1949年に漸く輸入許可を得ます。地方の中小企業が1台3~4万ドルもする外国の機械を買うのには官僚も驚いたでしょう。為替レートと物価を勘案すると現在の価値で1億円位だと思います。

翌年届いた米国製の機械は期待に違わぬものでした。160人で行っていたファスナー製造作業を僅か6人でやってのけたのです。忠雄氏はこのファスナー製造機械を100台、国内の精密機械メーカーに発注します。1951年に第一陣の国産ファスナー製造機械30台が導入されると同年10月には月産100万本を突破し国内トップシェアとなります。

工場に到着した米国製マシン

量産体制を整えた忠雄氏の次なる一手は一貫生産体制の確立でした。原材料や機械・製造ラインまで遡って自社生産する事で品質を高めようとしたのです。これは「川上遡上主義」と言い表されます。1954年に着工した黒部工場では圧延伸線・熔解・染色・織機・鈑金・型工作・アルミ合金製造といった工場の建設が進められ3年後の1957年に完成します。

黒部工場

黒部アルミ合金工場内部

このアルミ合金製造でファスナーに使う以上のアルミ合金を生産出来る様になったので、それを有効活用する為にアルミサッシという新しい事業分野に進出したのが現在のYKKAPです。1958年には黒部市生地(いくじ)に紡績工場も完成しテープの材料となる糸に至るまで一貫生産が可能になり、更にファスナー製造機械も全面的に自社生産する様になりました。

生地工場

ファスナーメーカーが紡績やアルミ合金の製造まで行う事に社内外から批判や反対の声もあったという事ですが、忠雄氏は「消費者に申し分のない品質のファスナーを安定して提供するにはファスナーに最も適した材料を原料から作るべきだ」と言ったそうです。これは大変ユニークな考え方です。

日本の代表的な製造業である自動車メーカーは"アッセンブリーメーカー"と呼ばれ、部品メーカーなどのサプライヤーから資機材を調達して自動車を組み立てます。分業によって効率化を達成しコストを削減する為です。内製化するよりもサプライヤーから供給を受ける方がコストが抑えられるのでその様にする訳です。以前の投稿"現在のロシアの製造業とソ連時代の計画経済"では、分業をしない内製化の失敗例としてソ連時代の自動車メーカーについてお話ししました。ソ連の計画経済では生産高のノルマのみが設定され利益目標が全く無かったので自動車メーカーはサプライヤーからの調達が滞って生産高ノルマが未達となるリスクを極小化する為に極限まで内製化を進めていました。自社で製鉄の高炉を持ち自動車用鋼板の製造まで内製化していたのです。利益目標が無いのでコストは完全に無視されました。

教科書的にはソ連時代の内製化は非効率の典型例なのですがYKKはまさにこの内製化を進めたのです。様々なファクターが重なり合って「川上遡上主義」がYKKにとっての最適解となったのでしょうが、それを分かっていて内製化を推進した忠雄氏の経営判断は凄いと思います。

垂直統合を推進したYKKが次に取り組んだのは海外進出でした。国内で圧倒的なM/Sを達成してしまったので更なる成長を目指して海外に進出したのです。今でこそ成長する企業が海外進出を目指すのは当たり前になっていますが当時は戦後間もない時期で外貨制限と同様に海外渡航も制限されていました。そんな時代にYKKは海外進出を始めたのです。

1959年ニュージーランドに第1号海外現地法人を設立し、1960年米国、1964年オランダと着々と海外現地法人を増やして行きます。日本のメーカーの海外工場進出が顕著となるのは1985年のプラザ合意による円高の進行がきっかけでしたが、その時点でYKKは既に世界40カ国で生産活動を行っていました。現在では海外展開数は世界70以上の国と地域に達しています。

ニュージーランド

米国

オランダ

YKKが極めて早い時期から海外に出た理由としては各国の関税障壁を乗り越えなければならなかった事と併せて、ファスナーが消費即応型Just in Timeの商品である事が挙げられます。アパレル業界ではデザインの開発には時間をかけるかもしれませんが、いざ洋服を作る段階になると素早く製品を店頭に並べようとします。その為顧客企業からファスナーの発注が来たらすぐに届けないと注文が他社に回ってしまうのです。日本からファスナーを輸出していたのではとても間に合わないのでどうしても顧客の近くにYKKの工場が必要だったのです。

縫製産業は他の産業と比べてミシンを動かす為に多くの人手が必要なので縫製工場は賃金が安い途上国により多くあります。なのでYKKはファストファッション向けの縫製工場が多くある途上国に自社の工場を展開しています。私はニューデリーに駐在していた2000年に出張して操業開始直後のYKKスリランカ工場を訪問する機会がありました。

スリランカ

当時はスリランカ北部と東部を実効支配してタミル人の独立国家建国を目指していたタミル・タイガーというテロ組織が武装闘争を行っていました。スリランカは内戦状態にあったのです。コロンボ市中心部と空港を結ぶ幹線道路には多くのバリケードが設けられ、銃を持った兵士が通る車をチェックしていました。その翌年にはバングラディシュにも工場が出来るのですが私は同じ年にシンガポールに異動してしまったのでそちらは残念ながら訪問出来ませんでした。

海外に進出したYKKの成功の基となったのは内製化したファスナー製造機械でした。世界中のYKKの工場には日本のYKKが製造した機械が配備されています。24時間無人化されボタン一つで制御出来る高性能マシンを配備した工場は他社から見ればブラックボックスの様なものです。YKKは工場をブラックボックス化し独自の技術や製品のクオリティを守ったからこそ世界のYKKになったのです。

さて今回のYKKのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。今回は富山の中小企業だったYKKが戦後間もない時期に積極果敢に海外展開を開始して世界のファスナー市場を席捲した過程についてお話ししましたが、YKKがファスナーを供給するファストファッション業界では1984年に広島に1号店を開いたユニクロが売上高でGAPを抜いてZARA、H&Mに次ぐ第3位となっています。ユニクロの海外売上比率は50%を超えています。ユニクロの海外展開については、また機会を改めてお話ししたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/US0RMYSWC68

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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