シーク教指導者殺害事件 - カナダとインドの対立の背景 - トルドー首相の苦悩

05/01/2024

インド

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今回は2023年6月にカナダで起きたシーク教指導者の殺害事件についてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/4g4-oU54KNs

カナダのトルドー首相が殺害にインド政府が関与したとの見方を示したのでインドが反発し両国の関係が悪化しています。

殺害事件についてお話しする前にまずはシーク教についてざっくりとご説明します。

シーク教はキリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教に次いで世界で5番目に信者の多い宗教で約2400万人の信者がいます。印僑として欧米諸国や東南アジアで暮らすシーク教徒も多く、少数ですが日本にもコミュニティが存在します。

シーク教徒の外見的な特徴はターバンとヒゲです。誤解される事が多いのですがインドでターバンを巻いているのは主としてシーク教徒で大多数のインド人はターバンを巻いていません。シーク教では「自然の進んでゆく道を阻んではならない」という教えがありその為髪やヒゲを切ることを禁じられているので、伸ばした髪の毛を保護する為に布製のターバンを巻いているのです。

以前の投稿"海外駐在員ゴルフ事情"でお話しした通り私はインドに駐在している時は毎週末ゴルフをしていたのですが、ゴルフ場のシャワールームでターバンを外して床に着く程に伸びた髪を洗っているインド人を時々見かけました。人によってはターバンの上にサンバイザーをちょこんと乗っけてゴルフをしていました。

最近は古い戒律に従わないシーク教徒も増えている様でターバンをしているのにヒゲが無かったり、あっても綺麗に刈り揃えられていたりします。

ターバンをしないシーク教徒も増えている様ですがそうなると外見ではシーク教徒かどうか判りませんね。ターバンの上から帽子を被る事が出来ないのでインドの軍装では軍帽に代わる"制式ターバン"が定められています。


また40万人以上のシーク教徒がいる英国では自動二輪運転時のヘルメット着用義務を免除されているそうです。

ターバンを巻いている事から米国ではイスラム教徒と間違われる殺人事件が度々起きています。よく見れば巻き方が全然違うんですけどね。

15世紀末のシーク教成立時から裕福で教育水準の高い層の帰依が多かった事から、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出しました。

その系譜に連なるのが第17代インド首相(在任期間:2004~2014年)のマンモハン・シンです。インド独立以来ヒンズー教徒以外が首相に就任したのはマンモハン・シンが初めてでした。

さてここからはカナダの殺害事件についてご説明します。シーク教の指導者ハーディープ・シン・ニジャール氏が2023年6月18日カナダ・バンクーバー郊外のサリー市で覆面の2人組によって射殺されました。

ニジャール氏はインド北部パンジャブ州にシーク教徒の独立国家"カリスタン"を樹立する事を目指す"カリスタン・タイガー・フォース"という組織のリーダーでインド政府は2020年にニジャール氏をテロリストに指定していました。

ニジャール氏はカナダのインド総領事館等に大掛かりなデモを仕掛け集会で"Kill India"のスローガンを掲げてアジ演説を行っていました。

シーク教徒の独立を目指すカリスタン運動の起源は英国植民地時代のインドに遡ります。

ここでざっとシーク教の歴史を振り返ってみたいと思います。シーク教は15世紀末にグル・ナーナクがインドで始めた宗教です。

"グル"はサンスクリット語で師・指導者・教師・尊敬すべき人物等を意味する言葉です。グル・ナーナクは「神の前に万人は平等である」としてヒンズー教とイスラム教の要素を統合した教えを展開しました。イスラム教と同じく一神教で偶像崇拝を禁じていますが一方でヒンズー教の輪廻転生も認めています。

シーク教はパンジャブ地方を中心に北インド一帯へ広がって行きました。当時この地域はイスラム教のムガル帝国領でしたが第3代君主アクバル大帝は宗教に寛容だったのです。


アクバル大帝

1574年にはパンジャブ地方中心部の都市ラームダースプル(現在のアムリトサル)で聖地・黄金寺院の建設を開始しました。

黄金寺院は1604年に完成し聖典『アーディ・グラント』が置かれました。ところが1605年にアクバル大帝が死去するとムガル帝国はシーク教徒への弾圧を強めて行きます。

1716年にムガル帝国によって処刑されたシーク教徒の戦士バンダ・シン・バハードゥルの彫刻

シーク教徒はムガル帝国への抵抗を続けムガル帝国の衰退に伴ってパンジャブ地方に12のシーク教の小国家群を成立させます。この小国家群はシーク連合体と呼ばれる緩やかな政治連合を形成していました。

小国家の一つであるスケルチャキア・ミスルの首長だったランジート・シンが1801年に小国家群を統一し首都をラホールに定めてシーク教国を建国しました。

ランジート・シン

しかし1839年にランジート・シンが死亡すると後継者争いが勃発します。その混乱に乗じて英国が介入して最終的にシーク教国を滅ぼして英領とします。

第2次大戦後にインドが英国から独立するに際してパンジャブ地方とベンガル地方のイスラム教徒は分離独立してパキスタンとなったのですが、パンジャブ地方のシーク教徒は分離せずにヒンズー教徒と共にインドに残ります。

このインドとパキスタンの分離独立の経緯については以前の投稿"ロシアとインド- インドはなぜロシアをかばう? -"で触れていますので興味のある方はご参照下さい。英国がインド独立運動の宗教的分断を図った事が後の分離独立という悲劇の原因となったという経緯についても説明しています。

ちなみにシーク教国の首都だったラホールは分離独立の際にパキスタン側に含まれました。現在はパキスタン第2の都市でホンダの4輪工場があります。

シーク教徒が分離独立の時に"カリスタン"を建国しなかったのは、当時のパンジャブ地方においてシーク教徒は少数派だったからです。パンジャブ地方はインドとパキスタンに分割された為、インド側のイスラム教徒はパキスタンへ、逆にパキスタン側のヒンズー教徒及びシーク教徒はインドへ、夫々強制的に移住させられた結果インド側のパンジャブ州ではシーク教徒が35%を占める様になったのです。

更に1966年に旧パンジャブ州はヒンズー教徒が多数を占める東部のハリヤナ州とシーク教徒が過半を占める西部の新パンジャブ州へと分割されました。なので現在のパンジャブ州では人口の6割がシーク教徒です。

余談ですがパンジャブ州から分離したハリヤナ州はニューデリーに隣接しており州内の都市であるグルガオンはニューデリーの衛星都市として急速に発展しています。グルガオンにはスズキやホンダの工場もあります。私がメンバーシップを持っていた「クラシックゴルフ」があるのもグルガオンです。私がニューデリーに駐在していた1999~2001年当時もグルガオンにポツポツとホテル建設等が始まっていたのですが、現在では高層ビルが林立する大都会になっており多くの日本人駐在員が住んでいます。

さて英国から独立したインドの初代首相ネルーは多数の宗教を共存させる姿勢を取って政教分離を国是として掲げました。その為少数派のシーク教徒が迫害される様な事は無かったのですがこれは一方で宗教上の理由での分離運動を認めない事を意味した為独立や自治権の拡大を望んだ一部のシーク教徒とは対立する事となりました。

第3代パンジャブ州首相パルタップ・シン・カイロン(左)とネルー首相(右)

1970年代後半には急進派宗教指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが台頭してシーク分離主義が過激化します。1980年代に入るとシーク分離主義過激派は反対派に対するテロを頻発させるようになりパンジャブ州の治安が悪化します。

これに対応する為にインド政府は1983年10月にパンジャブ州を州政府から大統領直接統治下に移すのですが情勢は好転しませんでした。1984年シーク教徒の聖地・黄金寺院に立て籠もるビンドランワレと過激派の排除を目的として、インド政府軍を投入してブルースター作戦(黄金寺院事件)を決行しビンドランワレを殺害します。作戦は戦車や装甲車両を含むインド軍部隊により実行され、巡礼者で黄金寺院が満員だった事から過激派に関係の無い一般市民にも多くの犠牲が出ました。

ビンドランワレを殺害した事によりブルースター作戦は軍事的には成功と考えられますが政治的には大失敗でした。多くのシーク教徒が抗議の為に軍隊その他の公共機関を辞職し国外のシーク教徒も大混乱となります。「聖地・黄金寺院を冒涜した」として復讐を誓うシーク教徒が多く現れた事で却って分離主義過激派を増やしてしまったのです。

ブルースター作戦の実行を軍に指示したインディラ・ガンジー首相はその4ヶ月後に2人のシーク教徒警護警官による銃撃を受けて暗殺されます。元々は過激派でもなんでもなかった公務員がブルースター作戦の為に復讐に燃えてしまったのでしょうね。

その後もテロの連鎖は続き1985年にはシーク教徒によるエアインディア182便爆破事件が起きます。カナダ・トロントからモントリオールとロンドン・ヒースローを経由してインド・ムンバイへ向かう予定だったエアインディアのジャンボジェットが北大西洋上で墜落しました。

シーク教過激派が同機に搭載された手荷物の中に仕掛けた爆弾が爆発したのが原因でした。このテロ事件における犠牲者は329名にも上りました。これは2001年に米国同時多発テロ事件によって記録が更新されるまで単独のテロ事件の犠牲者数としては最多でした。

また同じ日に成田空港でトロントからバンクーバー経由で到着したエアカナダ3便からムンバイ行エアインディア301便に積み替えようとしていた手荷物が爆発して作業員2名が死亡し4名が重傷を負いました。犯人はエアインディア301便を爆破するつもりだったのですが時限爆弾の時間設定を誤ったと言う事です。

この2つの爆弾は4日前にバンクーバーで航空券を現金で購入し手荷物を預けておきながら実際には搭乗しなかった同名の乗客の手荷物に含まれていた事が判明しました。そもそも空港側は搭乗していない乗客の手荷物を旅客機に搭載するという規則違反を犯していました。搭乗していない乗客の手荷物はテロを防ぐ為に必ず降ろさなければなりません。またトロント空港のX線検査機が故障しており手動検査機を使っていたのですが操作および機能に欠陥があった為に爆弾を見過ごしたとの事でした。当時は現在に比べるとテロへの警戒が緩かったのだと思いますがこうした不手際さえ無ければ惨事を水際で防げたでしょうから残念ですね。

成田空港における爆発事件については犯人は1988年にイギリスで逮捕されてカナダに引き渡されカナダの法廷は1991年に懲役10年を宣告しました。

一方のエアインディア182便事件では1992年に被疑者2名がインド・ムンバイで警察との銃撃戦で死亡しました。カナダでは2000年にエアインディア182便事件に関与した容疑で更に2名が逮捕されましたが2005年に証拠不十分で無罪の評決が出されました。

なお無罪となった2名のうちの一人であるリプダマン・シン・マリク元被告は2022年7月にカナダ西部ブリティッシュコロンビア州で何者かに射殺されました。

インド政府がシーク教勢力に対するパンジャブ州の自治権の拡大を認める等の政治的な妥協を行った結果、インド国内では1990年代に入り過激派によるテロは沈静化します。前述のマンモハン・シン氏は1991~1996年にインド国民会議派のナラシマ・ラオ内閣で財務相を務めています。今ではインド国内のシーク教徒は独立国カリスタン樹立には極めて消極的です。

シーク教徒が外国へ移住し現地のコミュニティーが拡大する中で寧ろインド国外でカリスタン運動が高まっている可能性があります。世界で一番カリスタン運動が盛り上がっているのはカナダかもしれません。

インド国内では盛り上がっていない分離独立運動をカナダのトルドー首相が擁護する背景にはカナダの国内政治事情があります。カナダの下院ではトルドー首相率いる与党自由党は過半数を下回っており、シーク教徒のジャグミート・シン氏が率いる野党第3党の新民主党の政権協力が不可欠なのです。なのでトルドー首相としてはシーク教指導者殺害事件にインド政府が関与したという情報を看過する事が出来なかったのです。

新民主党党首ジャグミート・シン

ところが通常であればカナダの肩を持つ筈だった米国が態度を明らかにしていません。米国は対中包囲網クアッドのメンバーであるインドに気を遣わざるを得ないのです。またインドと距離を取る事はインドをロシアの側に追いやってしまう事にもなりかねませんからそれも問題です。

ニジャール氏殺害にインド政府が関与したという情報は米国から入手したという事ですからトルドー首相としては割り切れないかもしれませんね。米国としては公表しない前提でカナダに伝えたのにそれをトルドー首相が公にしてしまったと言う事かもしれませんが。

さて今回の、カナダで起きたシーク教指導者殺害事件についてのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/4g4-oU54KNs

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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