トルコと欧州 - 関係性の歴史的背景に関する考察 - トルコのEU加盟はどうなる?

25/08/2023

トルコ

t f B! P L

今回は、ロシアのウクライナ侵攻後、独自の動きを見せるトルコについて考えてみたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/Hwdi2dARq0o

ロシアのウクライナ侵攻後にフィンランドとスウェーデンがNATO加盟を申請しましたが、トルコは自国がテロ組織に指定するクルド人武装勢力をスウェーデンが受け入れているとしてスウェーデンの加盟申請に難色を示していました。数カ月に亘る交渉の結果、スウェーデンがクルド人武装組織のメンバーへの対策などで譲歩し、エルドアン氏は2023年7月にスウェーデンのNATO加盟支持を表明します。

エルドアン氏はスウェーデンのNATO加盟への支持と凍結されているトルコのEU加盟交渉の再開を、関連付けているようにも見えたのですが、これに対しEU当局は「それらは異なる二つの問題だ」として即座にエルドアン氏の求めを撥ねつけました。

しかしNATOはその後の声明で「スウェーデンが"トルコのEU加盟プロセスを再び活性化させる努力"を積極的に支援する」と説明しました。

トルコが最初にEU加盟を申請したのは1987年です。一方のNATOについては1947年設立の5年後1952年に、トルコはギリシャと共に加盟します。

1951年9月20日のオタワ会議でトルコとギリシャのNATO加盟の決議が採択を採択するメンバー国代表

NATOの結成当初は"ソ連を中心とする共産圏への対抗"と並んで"ドイツを抑え込む"事も目的とする軍事同盟だったので、第2次大戦の連合国側戦勝国だったトルコもすんなりと入れたようです。黒海の南側でソ連及び東欧諸国と接しているという地理的条件も、トルコのNATO加盟を後押ししたものと思います。

ギリシャと同時というのが味噌で、ギリシャが先に入っていたらトルコ加盟を拒否していたかもしれません。

その後冷戦が本格化するに従って、西ドイツにも西側の主要メンバーとなって貰う必要が出てきた為、"ドイツを抑え込む"事が目的から外れ、1955年西ドイツ再軍備とNATO加盟が実施されます。この時、西ドイツ再軍備とNATO加盟に最後まで反対していたのはフランスでした。

NATOには創設の3年後に早々と加盟したトルコですが、一方のEUは最初の加盟申請から36年経っても未だに加盟が実現していません。理由は幾つか考えられます。

一つ目の理由は「貧富の格差の激しいトルコの加盟でトルコ系移民の流入に歯止めが効かなくなる事を恐れている」というものです。

二つ目の理由は少数民族のクルド人への弾圧など人権問題が存在する事です。トルコも2002年の死刑制度廃止等少しずつ国内の人権問題を片付けてきたのですが未だに道半ばです。

三つ目の理由は「欧州議会は加盟国の人口に応じて議席数が割り当てられるのでトルコが加盟すると議席数でドイツを抜いて最大になってしまう」というものです。

もう一つのポイントはトルコがイスラム教国である事です。EU側は決して口には出しませんがキリスト教主流のEUにイスラム教国のトルコが加盟する事に抵抗があるのです。更に言えば"オスマン帝国時代に侵略を受けた事への恨み"です。特に数百年に亘ってオスマントルコに支配され、苦労の末19世紀に漸く独立を果たしたギリシャは、最後までトルコの加盟に反対するでしょうし、現在も北キプロス問題でトルコと対立するキプロスの支持を得るのも、容易ではないでしょう。

"恨み"の原因となっている欧州とオスマントルコの関係史を振り返る前に、私がトルコについて知るようになった経緯をご説明したいと思います。

多くの日本人にとってトルコはあまり馴染みが無い国かもしれませんが、実はトルコは大変親日的な国です。1889年オスマントルコのアブデュルハミト2世は明治天皇に勲章を奉呈する為に軍艦エルトゥールル号を日本へ派遣するのですが、エルトゥールル号は帰途、紀伊大島の樫野埼(かしのざき)で遭難・沈没します。

すぐに周辺の住民が救難活動に当たり、その後日本政府は生存者を日本の軍艦でイスタンブールまで送り届けました。また日本国内で集められた義援金は、軍艦に同乗した時事新報記者によってオスマントルコに直接届けられました。これらがトルコの人々に大変感謝されたのです。

ただ感謝するだけでなく、トルコは1985年にしっかり恩返ししてくれました。イラン・イラク戦争当時テヘランから脱出出来なくなっていた在留邦人215名を、トルコ航空の救援機が救出してくれたのです。当時の自衛隊法は自衛隊の外国における活動を、人道目的を含めて想定しておらず、自衛隊機を派遣するのは不可能だったのです。

日本人を運んだトルコ航空のDC-10イズミル号

私も以前はトルコに対するイメージを特に持っていなかったのですが、1991年にドイツ・デュッセルドルフに赴任すると急にトルコが身近な国になりました。ドイツには外国人労働者(ガストアルバイター:Gastarbeiter)として働いているトルコ人が大勢いたのです。オフィス等の清掃を行うプッツフラオ(Putzfrau)と呼ばれる掃除婦の多くはトルコ人でした。

ドイツは第二次大戦敗戦後の復興において労働力不足となった事から、1960年に労働者不足の解消策としてトルコ等の外国人労働者の受け入れを始めます。

当初は日本の技能実習制度の様に在留期間3年を期限としていたのですが、彼等の滞在は世代を経る毎に長期化して今日に至ります。その間に国籍法改正・移民法制定等、法律も整備されました。現在のドイツではトルコ系市民は約300万人にも上ります。

日本は2022年6月時点の外国人の中長期在留者と特別永住者の合計は296万人で、その中で最も多い中国人でも74万人ですから、トルコ人だけで300万人のドイツのレベルに達するにはまだ時間がありそうです。

国籍・地域別 在留外国人の構成比

ドイツではスポーツ選手・映画監督・女優・政治家…と様々な分野でトルコ系移民の活躍が見られますが、ドイツ社会におけるトルコ系移民の生活には常に軋轢が生じており、今日でも緊迫状態にあるようです。私がデュッセルドルフに駐在していた1993年には、近郊のゾーリンゲンでトルコ人家族5世帯19人が住む建物に、ネオナチの4人の若者が放火して、トルコ人住人5人が死亡、4人が重傷を負うという事件が発生しました。


放火犯の4人の若者

このような外国人排斥の極右思想は、旧西独地域より旧東独地域に多く存在する様です。ドイツの極右政党"ドイツのための選択肢:AfD"は旧東独地域でより支持を伸ばしており、2023年6月には遂にAfDの候補者が旧東独ゾンネベルク郡の首長に選出されました。

州別AfD支持率

旧東独ゾンネベルク郡の首長に選出されたAfDの候補者

統合前の東独はソ連の影響下にあった為、学校教育ではドイツ市民はドレスデン空襲など"英米の被害者"であると同時に、反ナチ活動を行っていた存在として"ファシストVS広範な反ナチ労働者=市民"という構図で語られていました。一方の西独も1980年頃までは被害者の立場で戦争や敗戦直後の記憶が共有されてきたのですが、1980年前後を境に転換し、以後はホロコーストを始めとする様々な加害の罪をも自らのものとして引き受け共有する事によって新たな"国民の歴史"を構築しました。このあたりが旧西独地域と旧東独地域でのAfDの支持率の違いに繋がっているものと思われます。

1979年に西ドイツで放映された米国のテレビドラマ「ホロコースト−戦争と家族−」
ドイツ市民が何の抵抗もなくナチスに協力する姿がはっきりと描かれた

難民を積極的に受け入れたメルケル首相も旧東独出身ですが、お父さんが牧師なのでキリスト教の博愛精神や人道主義を身につけていたのでしょう。残念ながらメルケル首相は旧東独地域での受けはあまり良くないようです。

メルケル首相と両親

2019年に行われた調査では「旧東独市民の57%が自身を"2級市民"と見做し、東西統一が成功したと感じているのは38%」という結果でした。このあたりも旧東独地域で外国人排斥が起こり易い理由かもしれません。

Wir sind das Volk = 我々は国民だ

なお統合時点の東独にも西独よりは少ないものの約9万人の外国人労働者がおり、その過半はベトナム人でした。

数としては西独のトルコ人に比べて圧倒的に少ないのですが、私がドイツに駐在していた当時(1991-1995)日本大使館は、日本人が旧東独地域に行くとベトナム人と間違われて襲われる事があるので、注意喚起していました。ラフな格好をしているとベトナム人と間違われて襲われるので、ビジネススーツにネクタイ等のきちんとした服装を推奨していました。

以前の投稿"ソ連崩壊の瞬間、モスクワの街にはビートルズが流れていた"でもお話ししましたが、私はドイツに駐在していた時(1991-1995)、ドイツ国内に加えて旧ソ連・東欧地域も担当していました。ベルリンの壁崩壊によってソ連・東欧地域のビジネスが拡大する事が見込まれた為、多くの日系企業がソ連・東欧地域担当者を新たにドイツに派遣していたのです。

私の会社は東欧ビジネスの拠点としてウィーンにもオフィスを開設し、私はそこも担当していました。なのでウィーンに頻繁に出張していたのですが、そこで初めてオスマントルコによるウィーン包囲戦について知りました。

ウィーン市民が潰走したオスマン軍の陣営から打ち捨てられたコーヒー豆を見つけたのが、ウィーンのコーヒー文化の起源なのです。現地ではホイップクリームを浮かべたコーヒーではなく、エスプレッソにミルクを加え、その上からミルクの泡を乗せた"メランジェ"というコーヒーが日常的に飲まれていました。


カフェツェントラル

メランジェ

私はそれまで"トルコ=中東の国"というイメージしか持っていなかったので、さほど遠くない過去に欧州の奥深くまで攻め込んでいた事は驚きでした。この時に包囲戦に耐えた城壁の取り壊された跡が、ウィーンの中心部にある全長5.3kmの環状道路"リングシュトラッセ"です。




ブダペストに出張した際に、ハンガリーが100年以上オスマントルコの支配下にあった事を知ったのも驚きでした。ウィーンやブダペストで受けた印象としては、オスマントルコ≒モンゴルという感じです。日本なら"元寇"ですね。

という事でここからは、トルコのEU加盟を難しくしている"オスマン帝国時代に侵略を受けた事への恨み"の原因となっている、欧州とオスマントルコの関係史を振り返ってみたいと思います。

1299年トルコ人の遊牧部族長オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたのがオスマン帝国の始まりです。


オスマン1世

オスマン帝国はその後、東ローマ帝国などの東欧キリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して、地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国へと発展します。その出現は西欧キリスト教世界にとって衝撃的でした。

オスマン帝国はバルカン半島に進出し1453年第7代スルタン・メフメト2世の時代に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を陥落させ東ローマ帝国を滅ぼします。

メフメト2世

メフメト2世はバルカン半島における支配地域を拡大してギリシャ全土をオスマン帝国領としバルカン半島支配を確立しました。またイスタンブールと改名されたコンスタンティノープルに造船所を築き海軍力を増強、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を"オスマンの内海"とします。2014年にロシアが侵攻したクリミアに以前あったクリミア・ハン国もオスマン帝国の属国となっていたのです。

オスマン帝国は第10代皇帝スレイマン1世(在位1520~1566年)の時代に絶頂期を迎えます。


スレイマン1世

メフメト2世とスレイマン1世の時代のオスマン帝国と西欧諸国の戦いの様子は、塩野七生さんの三部作"コンスタンティノープルの陥落""ロードス島攻防記"と"レパントの海戦"に詳しく描かれています。

正規の十字軍は1096年の第1次から1271年の第9次までというのが一般的ですが、"十字軍"とは教皇が呼びかけ参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称なので、この時代のオスマン帝国に対抗した西欧諸国の連合軍も"十字軍"と呼ばれます。このあたりの記憶がトルコのEU加盟を難しくしているのではないかと思います。

17世紀に入ると徐々にオスマン帝国の国力は弱まり、1683年の第二次ウィーン包囲の失敗を境にバルカン半島におけるオスマン帝国領は縮小・解体の方向に転じました。更に1683~1699年の神聖同盟(オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシア等)との大トルコ戦争の結果、ハンガリーも失います。

1821年にはギリシャがオスマン帝国からの独立を宣言してギリシャ独立戦争が勃発、1830年ロンドン議定書が締結され独立が決定します。

ピョートル大帝の時代から南下政策を推進するロシアに対抗する為にオスマン帝国は1914年ドイツと極秘軍事同盟を締結し、第一次大戦に同盟国側で参戦して敗戦国となってしまいます。このあたりの繋がりが現在ドイツにトルコ移民が多い背景かもしれません。

第1次大戦同盟国
左からドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリア

ちなみに第一次大戦下のオスマン帝国に対するアラブ反乱への英国支援を描いたのが、映画"アラビアのロレンス"です。アラビアのロレンスの撮影現場でピーター・オトゥールがアンソニー・クインを殴り、骨折のせいで殴った右手の小指が動かなくなったそうです。

第一次大戦で敗戦国となったオスマン帝国は解体されてトルコ共和国となり、東トラキア(エディルネ・マリツァ川以東)を除く全欧州領、シリア、イラク、エジプト、スーダン、キプロス、ドデカネス諸島、ロードス島、エーゲ海諸島(イムヴロス島およびテネドス島を除く)を放棄します。ちなみにシリアはフランス、イラクとキプロスは英国、ドデカネス諸島とロードス島はイタリアが取りました。

トルコ共和国の初代大統領に就任したムスタファ・ケマルは、イスラム教と政治を分離しなければトルコ共和国の発展は無いと考え、国家の根幹原理として政教分離を断行し、憲法からイスラム教を国教とする条文を削除しました。またトルコ語表記をアラビア文字からラテンアルファベットへ変更、一夫多妻禁止や女性参政権導入、スルタン制の廃止等トルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から"父なるトルコ人"を意味する"アタテュルク"の称号を贈られました。

トルコは第二次大戦では中立を維持しましたが、末期の1945年、連合国の勝利が確定的になると、その圧力により2月23日に対日独宣戦布告しました。

2023年の大統領選挙で再選したエルドアン氏は現在3期目で、2003~2014年の首相在任と併せて20年に亘ってトルコのトップの座に居ます。エルドアン氏には従来の世俗主義を再解釈したイスラム回帰を思わせる行動があり、都市部の知識階級やリベラル派、軍部などの世俗主義者には、エルドアン氏に対する根強い反感があります。

エルドアン大統領夫妻

それでも大統領選で2回も再選された背景には、都市部の富裕層と農村部及び都市貧困層の、二極分化があります。

農村部及び都市貧困層にはイスラム回帰がアピールするのです。エルドアン氏は典型的な保守派ポピュリストと言えます。イスタンブールにあるアヤソフィアはキリスト教正教会の大聖堂を起源とし、コンスタンティノープル陥落後は1931年までイスラム教モスクとして改築を繰り返して使用されていたのですが、トルコ共和国政府は1935年に世俗的な博物館としました。


ところが2020年トルコの裁判所は、モスクから博物館に地位を変更したのは不当だとして現地のイスラム系団体が提訴していた問題で、イスラム系団体の訴えを認める判断を下し、これを受けてエルドアン大統領は同日アヤソフィアをモスクとする大統領令に署名しました。


復活した金曜礼拝

さて今回のトルコのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。

最後に余談を一つ。私がモスクワから帰任した2014年に証券会社からトルコの株式に投資するトルコリラ建ての投資信託を勧められました。私は当時既にエルドアン氏が集権的な傾向を強めていた事を踏まえて、トルコの経済発展に賭ける投信の購入はキッパリとお断りしました。私の予想通りトルコ・リラ/円の為替は2014年の1リラ=50円弱から2023年の1リラ=約7円まで急降下したのですが、この話を知人の投資アドバイザーにしたところ「でもトルコの株価は上昇しているのでその時に投信を買っていたら利益が出ていたかもしれないよ」と言われました。投資って奥が深いですね。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/Hwdi2dARq0o

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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