以前の投稿"海外駐在員今昔物語 - 半世紀を振り返って -"の最後で、「外国の片田舎や僻地のような過酷な環境で仕事をする日本人駐在員について、機会を改めてお話しする」とお伝えしました。そのような過酷な環境で仕事をする日本人駐在員の筆頭は、発電所建設、橋梁建設他のインフラプロジェクトや各種プラントの建設などに携わる、総合商社・ゼネコン・プラントエンジニアリング会社・重電メーカーなどの人々ですが、それらの話は既に以前の投稿"海外プロジェクト - 戦後の日本企業はこうして海外進出を始めた -"と"海外IPP - 総合商社と国内電力事業者が海外で発電事業?! -"でお話ししましたので、今回は、外国の片田舎や僻地に工場進出する日系企業についてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
工場をそんな辺鄙な場所に作るのは、当該国の地方自治体が工場を誘致する為に各種優遇策を提供したり、既存の工場を安く買い取って活用出来たり、合弁相手の都合で進出場所が決まったりと、様々な背景があります。
以前の投稿"インド駐在はつらいよ"では、トヨタが日本人駐在員の為にインドで一番気候が穏やかなバンガロールを進出先に選んだ、とお話ししましたが、このように日本人駐在員の住み心地を考慮して工場進出先を決定する企業は少数派です。多くの企業は経済合理性のみで工場進出先を決定します。
私が最初にその事を感じたのは1991年、ドイツのデュッセルドルフに赴任して間もない頃でした。仕事で関係があったクボタの工場を訪問した時の事です。その工場は1989年に進出した建設機械の工場で、日本人社長と面談しました。場所はフランクフルトの南西約200km、ザールラント州の州都ザールブリュッケンの郊外にある人口3万4千人のツヴァイブリュッケンです。ザールブリュッケンの人口は18万人弱で、州都ですから周辺にはそれより大きい街はありません。
訪問したのは進出の2年後なので面談した社長は初代だったのですが、工場進出準備委員会の委員長として進出先の選定にも関わっていた由でした。社長曰く「進出後は自分が社長として赴任する事になっていたので、こんな田舎に工場を造りたくはなかったが、誘致の為の優遇策等の諸条件を考慮して、ここを選定するしかなかった。」との事でした。
先進国のドイツではありますが、都会から離れた片田舎で、そこに住んでいる日本人はクボタの駐在員だけという環境は、住み心地の点では厳しいものがあります。ドイツ語しか通じず、日本から隔絶された環境です。日本食レストランも日本食料品店もありません。
私にとっては、日本企業が駐在員の住み心地を考慮せずに経済合理性のみで進出先を決定する事を知った初めてのケースだったので、大変感銘を受けました。
その次に私が『大変だな~』と思ったのはブリヂストンのインドール工場でした。
私がニューデリーに駐在した1999~2001年当時は、ニューデリー・ムンバイ・カルカッタ(現コルカタ)・チェンナイの4大都市や、前述のバンガロールでも生活環境は厳しいものがありましたが、インドのその他の都市に比べればまだましでした。
そんな中でブリヂストンは1996年にニューデリーとムンバイの中間地点にある地方都市インドールへの工場進出を決めたのです。合弁パートナーの勧めに従ったという事でした。合弁パートナーは「インドールはホンダの2輪工場もあるインドのデトロイトだ」と言ったそうですが、ホンダは1998年に合弁解消してしまい、工場が操業開始した時にはインドールの日本企業はブリヂストンだけになっていました。
インドールの人口は200万人くらいです。インドは国全体の人口が多いので、夫々の都市の人口も多くなります。インドの都市の人口を10分の1に換算すると、日本の都市の人口と同じぐらいの感じになるのです。人口20万の地方都市って感じです。
工場のオープニングセレモニーに来た本社の社長が、空港で出迎えた日本人駐在員に「どうしてこんなところに工場を造ったんだ?」と聞いたそうです。出迎えに行った日本人駐在員は心の中で「あんたが言うなよ!」と思ったそうです。
この時にインドールを訪れた社長は、買収した米国ファイアストンの経営立て直しに辣腕を振るった事で有名な海崎氏ですが、そんな大物社長なのに随行員が一人もおらず、たった一人で飛行機を乗り継いでインドールまで来られたそうです。
帰りにインドールの空港まで見送りに行った駐在員が「社長。手荷物を盗まれないように、チェックインの時は両足でしっかり挟んで下さいね。」と声をかけると、チェックインカウンターに向かって歩きながら、後ろに手を振って応えてくれたとの事でした。
以前の投稿"インド駐在はつらいよ"では、私のニューデリー駐在時の日常生活についてお話ししましたが、地方都市のインドールの生活の過酷さは、それとは比べものにならないものでした。当時のインドールには、インド料理以外のレストランは、唯一の外資系ホテルだったホリディインの中の1軒しかありませんでした。洋食や中華料理など、インド料理以外の料理を幅広く供しており、なんちゃって日本食も少しだけありました。
工場はインドールの中心部から60kmくらいのところにあり、インドール中心部と工場の中間地点の塀で囲まれた一角に数十人の日本人駐在員が暮らす社宅がありました。
社宅は複数の建物に分かれており、共用棟には食堂があって日本人のコックが食事を提供していました。共用棟にはカラオケルームも備えられていました。殆どの日本人駐在員はその社宅と工場の往復だけで毎日を過ごしているという事でした。わざわざ街まで出てもホリディインと無国籍レストラン1軒があるだけですから。
ブリヂストンは2013年にムンバイの南東170kmにあるプネに第2工場を建設し、インド現地法人"ブリヂストン・インディア"の本社もプネに移しています。
前述の通り私がインドに駐在していた2000年前後の時期、複数の日系企業が進出していたのは、ニューデリー・ムンバイ・カルカッタ(現コルカタ)・チェンナイの4大都市とバンガロールくらいだったのですが、現在ではそれに加えてアーメダバード・ハイデラバード・プネの3都市にも複数の日系企業が進出しており、日本人会が組織されています。私がインドを離れてから20年以上が経過しており、日本人の住み心地も相当改善されているようです。
私がインドに駐在していた当時、プネに進出している日系企業はシャープだけでした。シャープは1990年にプネを本拠地とするカリヤニグループの所有するテレビとビデオデッキの工場に出資して日本人駐在員を派遣していました。
インド人が一番最初に買う家電製品は、冷蔵庫でも洗濯機でもなく、テレビなのだそうです。当時のインドでは6千円くらいの白黒テレビが売れ筋だったそうです。自宅にトイレが無くてもテレビを買う、という事でした。
私は何回かシャープのプネ工場を訪問する機会があったのですが、生活環境はインドールとどっこいの厳しさでした。工場の社食で駐在員の皆さんと食事をご一緒したのですが、言われるまでそれが日本食だとは判りませんでした。インド人コックが日本人駐在員用に日本食を作っているのですが、日本人がいくら「日本食の料理の仕方を教えてやる」と言っても、"No thank you."と言うばかりで話を聞かないのだそうです。
"インド駐在はつらいよ"でお話しした通り、私は月1回のペースでインド国外に出て冷凍の肉や魚を買って来ていたのですが、当時のプネはそのような買い出しの出来る都市への直行便が無かったので、インド国内で入手した肉や魚を食べるしかない、との事でした。乗り継ぎだと、その間に冷凍の肉や魚が傷んでしまうからです。
ブリヂストンは2013年にロシアのウリヤノフスクへの工場進出を決定します。2014年のクリミア侵攻前ですから、ロシアはまだG8メンバーでした。もうすぐ自動車販売台数が欧州1位のドイツを抜きそうな勢いのロシア市場を目指して、多くの自動車関連企業が先を争って進出していたのです。私は残念ながら訪問する機会が無かったのですが、このウリヤノフスクも日本人が暮らすには過酷なところだったろうと思います。
ちなみにこのウリヤノフスクから200kmのところにあるトリヤッチには、ルノー・日産グループが株式の50.2%を持つアフトバズがありました。そのあたりも工場進出先にウリヤノフスクを選んだ理由の一つだったのかもしれません。このアフトバズについては以前の投稿"現在のロシアの製造業とソ連時代の計画経済"で触れています。アフトバズのトリヤッチ本社工場には日産の製造ラインが一本あり、駐在員と長期出張者で合計50名前後の日本人がいました。アフトバズにはもう一つの工場がイジェフスクにあり、そこには日産が派遣した15名前後の日本人がいました。私はイジェフスクにも行った事が無いのですが、日本人が住むには相当辛そうですね。
ウリヤノフスク・トリヤッチ・イジェフスクなどの都市はモスクワから飛行機で行く距離なのですが、モスクワ周辺には、通勤は不可能だけれどもモスクワから日帰りで往復出来る程度の距離のところに幾つかの日系企業の工場がありました。
コマツは2010年に建設機械を製造するヤロスラブリ工場の操業を開始しました。
日立建機も2013年に中型油圧ショベルの製造工場をトヴェリに竣工させています。
両方ともモスクワからの通勤は不可能なので、日本人駐在員は夫々の田舎町に住んでいました。但し週末はモスクワまで日本食料品の買い出しに来て、日本食レストランで食事をしたりなど出来るので、モスクワから飛行機で行くところにある工場に比べると、まだましだったようです。
2015年9月20日放送のテレ東「世界で働くお父さん」では、日立建機トヴェリ工場に勤務するお父さんが登場しました。しっかり者の長女(小学5年生)とビビリで甘えん坊の弟(小学3年生)の姉弟が単身赴任中のお父さんを訪ねる様子は感動的でした。
モスクワの南西190kmにあるカルーガには、三菱自動車と仏プジョー・シトロエングループ(PSA)の合弁工場があります。カルーガにはVWとボルボが先に進出していましたので、PSAがカルーガを選択したのだと思います。
ちなみにトヨタと日産はサンクトペテルブルクに工場を建設していました。サンクトペテルブルクはロシア第2の大都会ですので、進出している日系企業も多く、ロシアの中ではモスクワと並ぶ住み心地の良さでした。
ロシアのウクライナ侵攻に伴う制裁の影響で、ロシアに進出していた日系企業の工場は全て、撤退または生産停止に追い込まれています。
さて今回の、外国の片田舎や僻地に工場進出する日系企業についてのお話はここまでです。
最後に番外篇として、カザフスタンの製油所近代化プロジェクトの話をしたいと思います。以前の投稿"海外プロジェクト"で触れ損ねてしまったものです。
私がモスクワに駐在していた2013年にカザフスタンのアルマトイに出張して丸紅の事務所を訪問する機会がありました。その時に話を聞いたのがアティラウ製油所近代化プロジェクトです。
近代化プロジェクトはフェーズ1から3まであり、フェーズ1は2001年に日揮・丸紅コンソーシアムが受注しました。ところが2009年のフェーズ2は中国のシノペック・エンジニアリング(中国石化集団煉化工程公司)と地場のKazStroyService(KSS)のコンソーシアムが受注してしまいます。リーマンショック後のカザフスタン金融危機に際して中国が支援したのが理由です。アティラウ製油所近代化プロジェクトが35億ドルの中国品タイド融資の使途になったのです。その後の丸紅の巻き返し工作が奏功して、2011年のフェーズ3は丸紅・シノペック・KSSのコンソーシアムが受注します。
私はアルマトイで丸紅の人々と面談したのですが、その中の一番若い人(20代後半)が近々アティラウに赴任するという事でした。アティラウはアルマトイから2700km西方に位置する人口22万人の町です。稚内⇔宮古島間くらいですね。
私は以前の投稿"海外IPP"でお話しした独身でインドの片田舎に駐在していた東芝の駐在員の事を思い出して「独身ですか?」と聞きました。その人はなんと結婚したばかりで、アティラウで新婚生活をスタートするとの事でした。アティラウへの赴任が決まってから結婚を申し込んだのだそうです。私は、結婚したら地の果てで暮らす事になるのが分かっていて承諾したお相手の女性を思って、感動してしまいました。
ところがその場にいたその人の上司はあっさりと「普通の日本人はカザフスタンならどこでも同じと思ってしまうのですよ」と言いました。確かに、多くの日本企業が進出していて日本人コミュニティもある都会のアルマトイと、他の日本人がいない地方都市のアティラウの違いは、普通の日本人には分からないですね。
日本の総合商社というのは、日本以外の国ではあまり見かけない独特のビジネス形態だと思います。
最近は著名投資家ウォーレン・バフェットが率いる米国のバークシャー・ハザウェイが日本の5大商社の株式を購入して世界的に話題になっています。
また機会を見て、私が海外で見聞きした日本の総合商社についての動画をアップしたいと思います。それではまた。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。