ロシアがウクライナへの軍事侵攻を始めて1年が経ちました。侵攻開始直前の2022年2月15日に"ウクライナとはどんな国か - 歴史的背景とロシアとの関係 -"、3か月後の5月24日に"ウクライナ侵攻 何がロシアをそうさせた? - ベルリンの壁崩壊からロシアのクリミア併合までの振り返り -"という二つの投稿をアップしましたが、今回はそれらの動画の続編です。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
私の個人的な感想ですが、プーチンはこれまでに幾つかの歴史的な分岐点で誤った決断をしてしまった様に思います。未来を見通すのはとても難しいので、ウクライナ侵攻の今後の進展を予測する事は私にはとても出来ません。なので以前の二つの動画と同様に今回も、既に起きてしまった事象、具体的には、既に犯してしまったプーチンの失敗について考察する事にしたいと思います。
プーチンの最大の失敗は「短期間でのゼレンスキー政権打倒とウクライナ全土の制圧は容易」と見誤った事でしょう。その結果ロシアは、欧米から厳しい経済制裁を科されながら、NATOの全面的な支援を受けるウクライナ軍を相手に長期戦を余儀なくされています。こうなる事が判っていたら、プーチンも"特別軍事作戦"を始めはしなかったでしょう。
ネオコンとして有名な米国のビクトリア・ヌーランド国務次官が『こんなにうまくプーチンが引っかかるとは思っていなかった。これでプーチンを弱体化出来る』という趣旨の事を言ったそうです。
このプーチンのミスは、2014年にクリミアを短期間にほぼ無血で併合した成功体験から、ウクライナの軍事能力を過小評価したのが原因と言われています。ここで興味深いのは、侵攻開始直前に複数のロシアの退役軍人が「この作戦は成功しない」とコメントを出していた、という事実です。
にも関わらずゲラシモフ参謀総長やその他の側近はプーチンを止めず、侵攻を開始してしまいます。
キーウを目指して進軍し捕虜になったロシア兵が「ウクライナの人々に歓迎されると思っていた」と発言していました。もしかしたらプーチンもそう考えていたのかもしれません。
プーチンがウクライナ侵攻をせずに"ミンスク合意"を履行しないウクライナ政府の非を、国際社会に対して訴えていれば、事態は今とは全く違うものになっていたでしょう。
ミンスク合意とはどんなものかご説明すると、話は2014年2月のマイダン革命に遡ります。2013年11月に親露派のヤヌコーヴィチ大統領が、2007年からEUと交渉していた連合協定の調印を先送りすると発表し、それが反政府運動のきっかけとなって、2014年2月22日のヤヌコーヴィチ大統領逃亡により親EU政権に交代します。これがマイダン革命です。
1998年からたびたびEU加盟希望を表明していたウクライナに対してEU側からは、「具体的な成果を挙げてヨーロッパの価値と基準に対して帰属する姿勢を見せる事」を求められていました。この具体的なアクションプランとしてEUが提示したのが"連合協定"の締結です。
連合協定は「政治対話と外交・安保政策」「司法・自由・安保」「経済・部門協力」「深く包括的な自由貿易協定」の 4 つの柱で構成され、連合協定を結ぶ事によってウクライナにおける政治・経済・貿易・人権改革を図り、その見返りにウクライナはEU市場との関税の減免や財政的・技術的な支援を受けられる、というものでした。
ところが経済的に困窮していたウクライナとしては、冬を越す為に天然ガスのコスト引き下げをロシアに飲んで貰う必要があり、ヤヌコーヴィチ大統領は連合協定調印の先送りを発表したのです。加えてロシアからは融資による150億ドルの資金提供のオファーがありました。
話を戻すと、ヤヌコーヴィチ大統領逃亡により新たに発足した親EU政権に従うのを由としない東部の親露派がドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を形成し、独立を宣言します。
クリミアでも親露派が中心となって住民投票を実施し、ウクライナからの独立後にロシアに編入されます。クリミアはこのような形でほぼ無血でロシアに併合されるのですが、ドネツクとルガンスクではウクライナ政府軍と親露派武装勢力の武力衝突(ドンバス戦争)が続きました。このドンバス戦争の停戦を意図したのがミンスク合意です。
2014年9月5日にウクライナ、ロシア、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国の代表が、欧州安全保障協力機構(OSCE)の援助の下、ベラルーシのミンスクで調印しました。この結果、紛争地での戦闘は著しく減少しましたが小競り合いは続いていました。
ところが2015年1月初めにドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の親露派勢力がウクライナ政府の支配地域に対して新たな攻撃を開始し、結果としてミンスク議定書による停戦は完全に崩壊しました。
この停戦崩壊を受けてフランスのオランド大統領とドイツのメルケル首相が2月7日に新たな和平の計画(フランコ・ドイツ案)を発表し、2月11日にミンスクの独立宮殿で"フランコ・ドイツ案"の実施を議論する為の会談が持たれます。参加者はロシアのプーチン大統領、ウクライナのポロシェンコ大統領、 ドイツのメルケル首相、フランスのオランド大統領、ドネツクのザハルチェンコ首長、ルガンスクのプロトニツキ首長でした。
合意された措置の一部には、2月15日からのOSCEが監視する無条件の停戦、最前線からの重火器の撤退、捕虜の解放、ウクライナにおける憲法改正などが含まれています。2015年2月15日に停戦が発効した後、戦いは概ね鎮静化しましたが、紛争地域の一部では小競り合いと砲撃が続きました。それから間もなく紛争地帯での戦闘は終結し、2月24日にドネツク軍とルガンスク軍は最前線から火砲を撤退させ始め、2月26日にはウクライナ軍も火砲を撤退させました。
このミンスク合意で重要なポイントは「ドネツク・ルガンスク両州の特定地域に暫定的自治権を付与する"特別な地位"に関する法律を定め地方分権を実施する」という点です。平たく言えば「ウクライナ国家の中にロシア人の人権が保障される2つのロシア人特別区を作る」という事です。
ところが自国の東部地域をロシアに実効支配されるのを恐れたウクライナは、シアからミンスク合意の履行を迫られても実行しようとしませんでした。
国連安保理は2015年にミンスク合意の履行を求める決議を全会一致で承認していました。この時はまだ、ウクライナ=善玉 ロシア=悪玉、という図式は定着していませんでした。
2019年に就任したゼレンスキー大統領も当初は、紛争が長期化する中、国民の厭戦気分を背景に停戦合意の履行に積極的でした。ところが親露派の分離独立を認めず"主戦論"を唱える民族派の猛反発に直面します。更に、就任当初は70%以上あった支持率が30%を切るまでに落ち込みます。それでなくても汚職がはびこるウクライナでの政権運営は困難が多いので、コメディー俳優出身で政治は素人のゼレンスキー大統領には難しかったのです。
支持率低下に苦しむゼレンスキー大統領は支持率挽回を目指して対露強硬路線を採るようになります。追い風となったのは米国のバイデン政権の発足でした。バイデン政権は「ウクライナ現政権の主権と領土的一体性を守る」という立場のみからゼレンスキー政権を全面支持しました。
2021年10月末にウクライナ軍はトルコ製攻撃ドローン"バイラクタルTB2"を初めて使用しドネツク州の都市近郊で親露派の武装組織を攻撃します。
ここがプーチンとロシアにとっての分岐点でした。この時点では欧米は、ドローンを使った攻撃についてウクライナに苦言を呈していたのです。この時点でドイツとフランスを通じてウクライナにミンスク合意の履行を迫るべきでした。
メルケル首相が退任したのは2021年12月ですから、親露派がドローンの攻撃を受けた時はまだ在任中だったのです。プーチン大統領からメルケル首相に直接頼んでいたら、違った展開になっていたかもしれません。それでもウクライナがミンスク合意を履行しなかった場合、国際世論は今みたいにはウクライナを支持しなかったでしょうし、もともと難しかったEUとNATOへの加盟は更に難しくなったでしょう。
ところがプーチンは"特別軍事作戦"を始めてしまい、ゼレンスキー大統領は"戦時大統領"となって支持率は90%超まで急上昇、ウクライナのみならず世界中で大人気となり、ゼレンスキー=ヒーロー プーチン=悪役、という図式が固定してしまいます。
2014年のクリミア侵攻の為、ロシアは既に経済制裁を受けていたのですが、現在の制裁と2014年の制裁では雲泥の差があります。特にEUはロシアとの経済的な結びつきが強いのでビジネスに踏み込んだ制裁は避けました。EUにとってロシアは主要市場でありエネルギーの供給国でもあったからです。EUよりは厳しい制裁を科していた米国にしても、現在とは比べものにならない緩さでした。マクドナルドもスターバックスも、引き続きロシア全土で営業を継続していたのです。
以前の投稿"ロシアとドイツ - その特別な関係 -"でお話ししたように、ドイツは特にロシアとの結びつきが強く、2014年以降もガスパイプライン"ノルドストリーム2"の工事を継続していました。
さてここまでは2022年2月24日のウクライナ侵攻を分岐点としてお話ししていたのですが、私がもっと重要な分岐点だったと振り返るのは、実はそこではなく2014年2月27日のクリミア侵攻です。
2014年2月27日、親露派武装勢力が地方政府庁舎と議会を占拠し、翌日には首都シンフェロポリの空港が占拠されました。ロシアは否定していますが、この武装勢力はロシア軍である可能性が高いとみられます。
親露派武装勢力(実はロシア軍)が占拠する中でクリミア議会はウクライナの暫定政権を承認した現クリミア自治共和国首相を解任し親露派の新首相を任命します。
3月1日ロシア軍は"ロシア系住民保護"を目的としてクリミア半島内に部隊を展開します。ロシア軍は2日、半島内にあるウクライナ軍の複数の前哨基地を包囲し部隊に武装解除を要求、ウクライナ軍の一部が抵抗して睨み合いとなりましたが武力行使には至りませんでした。
3月16日にはロシア編入の是非を問う住民投票が行われ、編入支持が96.6%と圧倒的多数でした。これを受けて翌17日にクリミア議会はウクライナからの独立を宣言し、ロシアへの編入を承認しました。これがこの動画の初めのところでお話しした"クリミアを短期間にほぼ無血で併合した成功体験"です。
3月2日G7首脳はロシアの軍事介入の動きを非難し同年6月にロシアのソチで予定されているG8サミットに向けた準備会合へのボイコットを発表、3月にハーグで開催された核安全保障サミットの合間にウクライナ情勢をめぐり緊急会議を開催し、ソチのサミットに参加せず代わりに6月にブリュッセルにおいてG7サミットを開催する事を決定した、と発表しました。プーチンはクリミア併合とドンバス地方の親露派共和国2カ国と引き換えに、G8メンバーシップを手放してしまったのです。
"米国及びNATOと対決する"という観点からは成功体験かもしれませんが、私はそもそもロシアが米国及びNATOと対決路線を採り続ける事自体が誤った選択だと思うのです。日本・ドイツ・イタリアは第2次大戦で米国を中心とする連合国にボコられたので、米国に追従する事を受け入れざるを得ませんでした。ソ連崩壊を対米敗戦と認識出来ないプーチン及びロシアは、米国と対等の関係でないと我慢出来ないのでしょうが、そもそもGDPが韓国よりも小さいロシアがそんな事を考えるのが間違いだと思うのです。
一方でG8メンバーシップは、ロシアより遥かにGDPの大きな中国やインドが望んでも手に入れられない貴重なものです。ロシアの目指すべきだった道は、G8に留まりながらEUとの経済的関係を更に深化させ、将来的にEU及びNATOに加盟する事だったのではないでしょうか。
ロシアは広大な国土を持つ資源大国です。G8に留まっていたら外資を使ってどんどんエネルギー開発が出来た筈です。2012年にはエクソンモービルがロシア石油最大手の国営ロスネフチと合弁で北極海と黒海の大陸棚で資源開発を進める事で合意していました。
ロシアはG8の中で米国に次ぐ人口を持つ魅力的な市場でもありました。自動車の販売台数では欧州1位のドイツを追い越しそうな勢いでした。なので世界各国の自動車メーカーがこぞってロシアに工場進出していました。外資がどんどん経済を拡大してくれる好循環があったのです。
さて今回の、プーチンの失敗のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。ロシアが2014年の軍事侵攻をせずにG8に留まっていたら、今の世界はどうなっていたでしょうか。米国と対立する中国が、ロシアに擦り寄って仲介を依頼していたかもしれませんね。
ウクライナ紛争が今後どう推移するのか予測がつきにくい状況ですが、また機会を見て続編を投稿したいと思います。
それではまた。
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