海外駐在員今昔物語 - 半世紀を振り返って - TELEXを知っていますか?

10/02/2023

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今回は、この50年位の間の海外駐在員の業務と日常生活の変遷について、お話ししたいと思います。私が大学を卒業して就職したのは1980年、海外関連業務に携わるようになったのは1990年なのですが、今回はそれ以前の、先輩方からの伝聞も含めてお話しします。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/pYfa3ku52NA

通信技術と航空機の進歩及び航空運賃の引き下げによって、現在の世界は相当狭くなりましたが、50年前の世界は、今よりずっと広いものでした。成田空港開港より前の1960年代に研修生としてロンドンに赴任した先輩は、会社の同僚や友人、親族など100人以上に見送られて羽田空港を飛び立ち、南回りでロンドンに着いたそうです。

ちなみにこの南回り路線は、日本から欧州の最終目的地まで、各駅停車のように経由地に着陸し、乗客の入替、乗務員の交替、燃料の補給などを実施したのですが、この経由地の一つだったのがニューデリーでした。私がニューデリーに駐在していた2000年前後も状況は変わっておらず、空港が一番混んでいる時間帯は真夜中でした。出発地や到着地の都合でフライトスケジュールが組まれる為、経由地であるニューデリーの到着時間が真夜中になってしまったようです。

さて、話を1970年代に戻します。当時は1ドル360円の固定相場制の時代で航空券も高価だったので、一旦赴任したら自費では帰国しないのが普通でした。会社は駐在員の福利厚生の一環として一時帰国制度を設けていましたが、2年経過毎に一回帰国出来るという制度で、赴任後2年間は日本の土を踏めませんでした。

そういった物理的な距離以上に、当時の通信事情が駐在員を日本から隔絶された状態にしました。1980年代に入ってFAXが導入されるのですが、それ以前は文書の通信手段は国際郵便(エアメール)でした。国際郵便料金も高かったので、エアメール用の極端に薄くて軽い便箋を使っていました。

コピー機も現在ほど普及していなかった為、2枚の便箋の間にカーボン紙を挟んでコピーを作成していました。業務に係る文書ですから出した側も控えを取っておく必要があった訳です。ちなみに現在のEメールの宛先のところで使われているCC(写し)は、このカーボンコピー(Carbon Copy)の略です。

電話代が極端に高かった上に、直通ではなく申し込んで暫く待ってやっと通じるものだったので、緊急時以外には電話は使われませんでした。

エアメール以外の当時の一般的な国際通信手段はTELEXでした。タイプライターのようなキーボードが付いている通信機器で、メッセージを打ち込んで送信ボタンを押すと送り先のTELEX端末にメッセージが印刷されて出て来るのです。使用するのはアルファベットのみですので、日本語にする場合はローマ字表記になります。

文章の長さによって通信料が変わるため、省略可能な単語は出来る限り省略する習慣がありました。今でも使われているASAPは、as soon as possibleの省略形としてTELEXで使われていたものです。それ以外にもpleaseをPLS、for your information(参考まで)をFYI、などの省略形が今でも使われていますね。

日本人駐在員が本社とのやり取りの中で使っていた省略形にOKYというのもありました。本社が海外現地の事情を考慮せずに勝手な指示を出して来た時に「お前来てやれ」の省略形でOKYと返事するのです。

私が海外関連業務に携わるようになった1990年には、日本と海外の連絡はFAXが中心になっていたのですが、ソ連東欧諸国や中東・アフリカなどとの連絡には、まだTELEXが使われていました。ソ連共産党は一般大衆が情報を共有しにくくする為に、わざと電話回線の整備を遅らせていたそうです。私がドイツに赴任した1991年でも、モスクワに何度ダイヤルしても話し中で、1時間位繰り返し掛けて漸くFAXを送れたりしました。

本社にはタイプ室という部署があって、そこに原稿を持って行くと、年配のタイピストの女性がTELEXを発信してくれました。TELEXの使用頻度はどんどん低くなっていったので、私がドイツから帰任した1995年にはタイプ室は無くなっていました。ちなみに国際TELEX網の役務提供が終了したのは2005年3月31日です。

私が業務でEメールを本格的に使い始めたのは、1999年にインドに赴任してからでした。使い始めとしては遅い方だと思います。PCは会社貸与のIBM ThinkPadで、メールソフトはNetscape Navigatorでした。ThinkPadは中国のレノボに買収され、Netscape NavigatorはマイクロソフトのOutlook Expressに駆逐されてしまいましたね。インターネットへの接続はダイヤルアップで、その通信速度は今となっては信じられないくらい低速でした。そうは言っても一旦Eメールを使い始めた後は、業務は一気にそちらに移行し、FAXを使う機会は大幅に減少しました。

さてここまで海外駐在員の業務に関連した通信事情の変遷を見てきましたが、次にテレビについてお話ししたいと思います。私がモスクワに赴任した2008年には、インターネット経由で日本のテレビ番組を見る事が可能になっていました。VPNを使うなど多少の手間はかかりますが、現在では日本で放送されているほぼ全ての番組を海外で視聴する事が可能です。

ところが1980年代までは、海外で日本語のテレビ番組を見る事は出来ませんでした。インターネットもテレビも無いのですから、海外駐在員が日本の情報を入手する手段は新聞だけでした。海外新聞普及株式会社(OCS)が1957年に海外で暮らす在留邦人に新聞を届けるサービスを開始していました。私がドイツのデュッセルドルフに駐在していた1991~1995年当時は、日本から電送されたデータを使って、オランダで印刷された日経新聞が、時差の関係で前日の夕方に自宅に配達されていました。今はインターネットで新聞の電子版を読む事が出来ますから、この様なサービスは殆ど無くなっているようです。

1990年代に入ると、日本のテレビ番組を海外で放映する日本語衛星放送局が出てきます。1990年3月にはJapan Satellite TV(JSTV)が欧州及び中東・ロシア・北アフリカをサービス範囲として日本語テレビ放送を開始しました。放送内容はNHK及び各民放の番組の再送信が主でした。

当時はインタネット受信は無く、パラボラアンテナとデコーダーを設置するか、ケーブルテレビで視聴するかだった

1998年にはNHKが国際衛星放送NHKワールドプレミアムを開始したので、1999年にインドに赴任した時は、もっぱらそれを見ていました。

2001年9月11日の米国同時多発テロも、会社から帰って来て自宅でNHKワールドプレミアムのニュースで見ました。その後の勤務地であるシンガポールとフィリピンでも、NHKワールドプレミアムを見ていたのですが、時差が1時間なので、大河ドラマは日曜日の夕方7時から見ていました。

さてここからは、世界を狭くした航空機の進歩及び航空運賃の引き下げについてお話しします。前述の通り1960年代にロンドンに赴任した先輩は、羽田から南回りの各駅停車のようなフライトでロンドンに辿り着いたのですが、もう一つあった北回りのフライトはアンカレッジ経由でした。

領空の制限によりソ連上空を通るシベリアルートが使用出来なかった為、北極圏を通る北回りルートが使われていたのですが、当時の航空機は航続距離が短かったので、アンカレッジで燃料補給を行なってから北極圏を通過するルートをとっていたのです。

私は1987年に研修でロンドンに行ったのですが、その時は成田発アンカレッジ経由ロンドン行のJAL便を使いました。私がアンカレッジに降り立ったのはその時が最初で最後です。

その後欧州便はロシア上空を通るシベリアルートを使うようになります。ロシアのウクライナ侵攻の影響で、現在は再びロシア上空を飛ぶ事が出来なくなっているのですが、航空機の航続距離が伸びた為、北回り、南回りとも直行便になっています。

ちなみに現在の最長の直行便はシンガポール航空のシンガポール発ニューヨーク行です。運航距離は9,537マイル、飛行時間18時間5分で、エアバスA350が使われています。

このように航空機の航続距離はどんどん伸びていったのですが、世界を狭くする事にもっと貢献したのは、航空運賃の引き下げでした。1970年代まで殆どの大手航空会社は、国際航空運送協会(IATA)と航空会社、各国政府の間で決められた事実上のカルテル料金体系を維持しており、乗客は割高な国際航空運賃を一方的に押し付けられていました。

ところが1970年代後半に大型機の就航が一段落すると、多くの大手航空会社において座席数の供給過多が深刻化します。

この時期はオイルショックの影響による世界的な長期不況で、旅客数も減少していました。その結果、多くの大手航空会社は空席を埋める為に、これまで自らの身を守り続けてきた"IATAカルテル"を大きく離脱しない範囲で自主的に割引運賃を導入せざるを得なくなりました。その後"IATAカルテル"はゆっくりと崩壊して、2018年に正式に廃止されます。

私が1991年にドイツに赴任した時に不思議に思ったのは、同じルフトハンザのエコノミークラスでも、ドイツ国内線と周辺国へ行く国際線で料金が大幅に違う事でした。フライト時間が1時間10分のデュッセルドルフ⇔ミュンヘンの往復航空運賃は2~3万円なのに、フライト時間1時間35分のデュッセルドルフ⇔ウィーンは10万円以上、1時間50分のデュッセルドルフ⇔ブダペストは15万円以上でした。国際線に"IATAカルテル"の名残があったんでしょうね。

その後の格安航空会社(LCC)の台頭やインターネット経由の直販ビジネスモデルも"IATAカルテル"の崩壊に拍車を掛けます。この航空運賃の大幅な引き下げによって、気軽に海外に出かけられるようになり、世界は一気に小さくなったのです。

海外駐在員の食生活も、この50年間で大きく変わりました。海外で日本の食料品が入手し易くなり、併せて日本食料品を日本から海外に発送するサービスも充実して来ました。私の推測ですが、海外駐在員の増加に伴う需要の増大と、海外における食品輸入の自由化の進展が関係しているのではないかと思います。

この日本食料品の入手し易さは国や地域で大きなバラつきがありました。ベルリンの壁が崩壊する前の東欧では日本食料品の入手は不可能だったそうです。スパゲッティをうどんの代わりにしたり、パン粉を糠味噌の代わりにして糠漬けを作ったりしたと聞きました。

1977年オープンのデュッセルドルフで一番古い日本食レストラン「きかく」は、寿司をメインとしたレストランだったのですが、東欧で日本食が食べられなかった当時、年1回ワルシャワ、プラハ、ブダペストの日本大使館に出張して、日本人会会員を対象とした寿司パーティーを開催して、各都市の在留邦人から大変感謝されていました。「きかく」は歴史ある日本食レストランだったのですが、2020年に閉店してしまったそうです。

私がドイツに赴任した1991年当時、デュッセルドルフには約1万人の日本人が住んでいました。ノルトラインヴェストファーレン州が誘致に積極的だった為、州都のデュッセルドルフに多くの日系企業が進出していたのです。日本人学校は小・中学校合計で生徒数1000人を超えるマンモス校でした。

街の中心部のインマーマン通りにはホテルニッコーはじめ、邦銀支店、日本食レストラン、日本食料品店、日本書店などが集積していました。



なので私を含め多くの日本人駐在員は「日本人にとって住みやすい街に駐在出来てラッキー」と思っていました。ある時、日本人会の集まりで、マレーシアのクアラルンプールから転勤でデュッセルドルフに赴任して来て間もない人と話す機会がありました。一人がクアラルンプールから来た人に「デュッセルドルフは日本人にとって住みやすくて良いでしょう」と話しかけると、その人は「いや、クアラルンプールの方がずっと住み心地が良いですよ」と答えました。私を含めた他の人達は『この人は負け惜しみを言っているのだろう。発展途上国マレーシアのクアラルンプールがデュッセルドルフより住みやすい訳がない』と思いました。このあたりは当時の欧州駐在員が持っていた、アジアの駐在員に対する独特の優越感に由来していると思います。

私はドイツから帰任した1995年からインドに赴任する1999年までの4年間の本社勤務の時に、度々東南アジアに出張する機会があり、『クアラルンプールがデュッセルドルフより住みやすい』という発言に納得しました。以前の投稿"インド駐在はつらいよ"でも触れましたが、シンガポールやバンコクには日本の大手百貨店が進出しており、そこの食料品売り場は日本のスーパーと変わらない品揃えだったのです。デュッセルドルフの日本食料品店とは比べものにならない規模と品揃えでした。

バンコクには"瀬里奈"や"星ヶ丘茶寮"までありました。後で聞いたのですが、バンコクの"瀬里奈"と"星ヶ丘茶寮"は、日本のそれらとは全く関係ないものでした。いかにも東南アジアらしい話で、勝手に店名を使用して看板には同じロゴまで使っていたのです。


日本の外食産業は1990年代から徐々に海外進出を始めるのですが、多くが大々的に海外進出するのはもう少し後になってからです。比較的早い時期から海外進出を始めた吉野家、営業利益の5割近くを海外で稼ぐようになったサイゼリヤ、ロシアでもチェーン展開していた丸亀製麺(ウクライナ侵攻後の2022年に撤退)などの他、今では一蘭、一風堂、山頭火などの有名ラーメンチェーンも海外進出しています。私がデュッセルドルフに駐在していた頃(1990年代前半)から考えると、これは夢のような話です。

当時デュッセルドルフにはラーメン屋は存在せず、家族旅行でパリに行った時に、パリに唯一あったラーメン屋"ひぐま"でラーメンを食べるのが楽しみでした。

ネットで調べたところ、現在はデュッセルドルフに13軒のラーメン屋があるそうです。1990年代前半には前述の「ひぐま」しかラーメン屋が無かったパリは、いまやラーメン激戦地と言われる位、ラーメン屋が乱立しており、日本の有名チェーン店も複数出店しています。このように食生活の観点からも世界は50年前と比べて遥かに小さくなっているのです。

以前の投稿"シンガポール繁栄の理由"でもお話ししましたが、おそらく世界で一番日本のモノを入手し易いのはシンガポールでしょう。シンガポールに駐在していた私の知人は「異国情緒が無さ過ぎる」と文句を言っていました。

世界は小さくなったとは言っても、日本人にとっての住み心地は場所によって相当のバラつきがあります。以前の投稿"インド駐在はつらいよ"では、トヨタが日本人駐在員の住み心地を考えて工場をバンガロールに建設した、とお話ししましたが、こういった企業は少数派で、多くの企業は工場の立地を決定するに当たって、日本人駐在員の住み心地は殆ど考慮しません。なので日本人が全く居ない発展途上国の田舎町に工場を建設する事もままあります。また、海外プロジェクトやIPPなどで海外の僻地で長期間働く日本人も大勢います。そういった人たちの生活環境は"異国情緒"なんて生易しいものではありませんね。

さて今回の、海外駐在員の業務と日常生活の変遷のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。

世界は50年前と比べて小さくなったとは言っても、外国の片田舎、僻地で暮らすのは未だに日本人にとって厳しいところがあります。私の海外駐在は全て大都市だったのですが、そういった厳しい環境で仕事をしている日本人駐在員と接する機会もありました。そのような過酷な環境で仕事をする日本人駐在員については、また機会を改めてお話ししたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/pYfa3ku52NA

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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