以前の投稿"ロシアとドイツ - その特別な関係 -"では、ロシアとドイツの特別な関係について考察しましたが、今回は、インドとロシアの関係について考えてみたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
私がインドとロシアの繋がりを身近に感じたのは、ニューデリーに赴任した1999年です。ニューデリーの街中で空軍の志願兵募集の大きな看板を見たのですが、そこに描かれた戦闘機はソ連製のミグでした。当時のインドの武器体系はソ連への深い依存状態にあったのです。
私はミグと聞くと反射的に敵戦闘機と思ってしまうので、不思議な感じがしました。私にとってミグとは、1976年にソ連空軍のベレンコ中尉が函館空港に強行着陸して亡命した際に乗って来た戦闘機で、1986年公開の映画「トップガン」のクライマックスで主人公のマーベリックがドッグファイトを繰り広げる敵戦闘機です。
2008~2014年のモスクワ駐在中は、街中で多くのインド人を見かけました。特にインド人女性は民族衣装を着ている事が多いので服装ですぐ判りました。サリーではなく、もう少し活動的なパンジャビドレスが一般的でした。寒い季節にはその上にオーバーコートを着ていたのですが、暑いインドから来たインド人が民族衣装の上にインドでは着る事の無いオーバーコートを着て極寒の地に居るのを見ると、感慨深いものがありました。
モスクワ市内にはインド人が経営する本格インド料理レストランが多くあり、私は自宅から歩いて5分位のところにある"カジュラホ(KHAJURAHO)"という店に時々行っていました。
以前の投稿"インド人の特徴 - インドよもやま話#2 -"でもお話ししましたが、インドに住んでいる時は、インド料理以外の選択肢が無いシチュエーションが多い為、選択出来る時はインド料理以外を選択する事が癖になってしまっており、インド離任後5年位は、インド料理を避けていて、自分から進んでインド料理を食べる事はありませんでした。モスクワに赴任した時はインド離任から7年が経っていましたので、トラウマも癒えており、インド料理を楽しむ事が出来ました。
インドにも、政府関係者や軍関係者は居たのだと思いますが、街中で多くのロシア人を見かけるという事はありませんでした。
以前の投稿"世界3大商人(華僑、印僑、ユダヤ人)とのビジネスは大変だけど面白い"でもお話ししましたが、インド人は印僑として日本を含む世界各国で活躍しており、その人口の多さと相俟って、世界中でインド人を見かけます。
私が特にインド人が多いと感じたのはロンドンです。2008~2014年のモスクワ駐在時に出張や休暇で訪れると、地下鉄の向かい合った4人掛けのボックス席には、一人はインド人が居ました。
一方のロシアもロシア系ユダヤ人が色々な国で活躍しているのですが、インドではロシア系に限らず、ユダヤ人が積極的にビジネスを展開している印象はありませんでした。インド商人と競合するから避けているのか、インドの住み心地が悪いからなのか、理由は不明ですが、私はインドでユダヤ人に会った事は無く"インドでロシア人をよく見かける"という事もありませんでした。
さてここからは、インドとロシアの関係の歴史的背景について考えて行きたいと思います。ソ連崩壊前の冷戦期には、ソ連とインドのグループと米国、中国、パキスタンのグループがありました。第2次大戦後の英国からの独立に際して分離独立する事になったのが、インドとパキスタンの対立の始まりです。
この分離独立はインド独立運動における最大の悲劇と言われています。
またインドは3000kmを超える国境で接する中国との間で国境紛争を抱えています。
中国とパキスタンが米国側に居る以上、インドとしてはソ連側に行かざるを得なかったのでしょう。
私の個人的な推測・見解も含め、この二つのグループが形成された背景について順を追って説明します。
今に繋がるインドとパキスタンの対立のそもそもの原因は、英国のインド統治にあります。1877年に英国のヴィクトリア女王がインド女帝を兼任する英領インド帝国が成立するのですが、この時は現在のパキスタンとバングラデシュはインド帝国に含まれていました。
英国はインド統治に際して分割統治の手法を取り、インド人知識人層を懐柔する為1885年に諮問機関としてインド国民会議を設けるのですが、反英機運の高まりに伴いインド国民会議派が急進的な民族主義政党へ変貌して行くと、英国は独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させます。この英国によって扇動された宗教的分断が、第2次大戦後の分離独立という悲劇を生みます。
ガンジーは一つのインドとしての独立を目指したのですが、ムスリム連盟を説得しきれなかったのです。
パンジャブ地方はパンジャブ州(パキスタン)とパンジャブ州(インド)に、ベンガル地方は東パキスタン(現在のバングラデシュ)と西ベンガル州(インド)に分割される事となり、両地方ではヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒(及びパンジャブではシーク教徒も)はヒンドゥー教徒地域へ、夫々強制的に移住させられて、大量の難民が発生しました。
短期間での一千万人以上もの人口移動によって生じた大混乱の為、特にパンジャブ地方では両教徒間に数え切れないほどの衝突と暴動、虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火し、死者数は100万人に達しました。この時に生じた両者の不信感と憎悪が現在のインドとパキスタンの対立に繋がっています。
一方カルカッタではガンジーの尽力により虐殺が抑えられた事もあり、今でもインドとバングラデシュの関係は良好です。
ところがヒンドゥー、イスラム両教徒の融和を説いた事で、ガンジーは1948年に狂信的なヒンドゥー・ナショナリストに暗殺されます。またこの強制移住で発生した大量の難民はインド、パキスタン両国の大都市に巨大なスラム街を生み出します。
インドと中国の国境紛争にも英国統治が関係しています。元々中国とインドの間には2000年に亘る伝統的な繋がりがありました。経済や文化、宗教そして芸術など各分野で密接に交流していたのです。
ところが英国のアジア侵入によって、2000年に亘って落ち着いていた中国とインドの繋がりは一時的に中断します。1949年に中華人民共和国が成立するまでのおよそ100年間、かつての交流が止まってしまったのです。
英国が居なくなっても過去の関係を復活出来なかった理由がチベットの国境問題です。1913~1914年、インドのシムラにおいて英国、チベット、中華民国の三者の間でシムラ会議が開かれました。
会議の席上英国は、モンゴルを内モンゴル(現在の中国内モンゴル自治区)と外モンゴル(現在のモンゴル国)に分割した様に、内チベットと外チベットに分割する事を提案したのですが、内チベットと外チベットの境界線に関して中華民国の合意が得られず交渉が決裂すると、英国の交渉長官であったヘンリー・マクマホンはチベット-インド国境にマクマホンラインとして知られる線を引き、この線の南側のチベットの歴史的領域であるタワン県を英領インド帝国に併合したのです。
事態を複雑にしたのはチベットの独立問題です。チベットは清国の支配を受けていたのですが、1912年の清国滅亡を期に独立を画策します。モンゴルもチベットと同じ立ち位置だったのですが、ロシアの仲介を得て内モンゴルと外モンゴルに分割されて現在の姿になっています。ところがチベットは英国の仲介が上手く行かず、中国領とインド領に分割され、チベットという独立国は無くなってしまいました。チベットの君主であったダライ・ラマ14世はインドに亡命してチベット亡命政府(ガンデンポタン)を樹立します。
チベットには同情すべき点が多々あるのですが、一方の中国にとっても、元々自国の一部であった地域の独立運動に他国が手出しをしているという事になる訳で、こちらの言い分も分かります。1907年の英露協商においては、中国のチベットに対する宗主権を認め、内政不干渉を取り決めているのですから尚更です。現在に至るまでインドはマクマホンラインを合法的な国境と主張して、その南側を実効支配しているのですが、中国は認めていません。
さて次のポイントはソ連と中国の仲違いです。仲違いのきっかけは1956年のフルシチョフのスターリン批判でした。
1956年のソ連共産党第20回大会でフルシチョフはスターリン批判を行うのですが、1957年11月にモスクワで開催された世界共産党会議に出席した毛沢東は、スターリンの米国との対決姿勢を継承する立場を取り、フルシチョフらソ連共産党の平和共存路線への転進は帝国主義への屈服であるとして受け入れられないと表明したのです。
ところがこの後、事態は以外な展開を見せます。インドという共通の敵を持つ事から、中国とパキスタンが親しい関係になります。更に、泥沼化したベトナム戦争からの"名誉ある撤退”を模索していた米国が、パキスタンに中国との仲介を依頼し、1971年7月秘密裏にパキスタン経由で北京入りしたキッシンジャーは周恩来と会談を行い、翌72年の早い時期にニクソン大統領が訪中する事で合意します。こうして米中パキスタン枢軸が形成されました。
更に米国とパキスタンの関係を緊密にしたのが、1979年のソ連アフガン侵攻です。米国はこれをソ連に対する反撃の機会と捉え、所謂新冷戦を開始します。
具体的にはサイクロン作戦(Operation Cyclone)というコードネームの作戦で、CIAを通じてソ連軍に抵抗する複数のゲリラ組織に武器や装備を提供します。ソ連が北ベトナムを支援していたベトナム戦争と、立場が入れ替わった感じですね。
ゲリラ組織は自分たちの闘争をアフガニスタンのイスラムを防衛するジハード(聖戦)と位置付け、自らムジャヒディンと名乗ります。ムジャヒディンとはアラビア語で"ジハード(聖戦)を遂行する者"という意味です。後に米国多発テロ事件を引き起こすウサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダも、この時にムジャヒディンを名乗ったゲリラ組織の一つでした。ソ連の足を引っ張る為に、米国は後に自身を攻撃するテロリストを育成してしまった訳です。
アフガニスタンの隣国のパキスタンもイスラム国家ですから、当然ムジャヒディンを支援します。米国はムジャヒディンを支援するパキスタンに対して1982年から5年間で総額32億ドルに及ぶ経済・軍事援助を供与します。ソ連のアフガン侵攻の結果、米国とパキスタンは益々関係を緊密化させたのです。
ソ連軍が1989年に撤退すると、戦地を求めるムジャヒディンはカシミール地方へ流入し、インドをターゲットとしたテロを実行するようになります。
さてここまで、米中パキスタン枢軸の成立過程を見てきました。その結果としてインドはソ連と連携するしか無かった訳ですが、1991年のソ連崩壊で蜜月は終わってしまいます。ソ連崩壊後の混乱したロシアには、インドの面倒を見る余力はありませんでした。自給経済維持の鍵を握っていたソ連の崩壊は、インドの経済開放過程を更に速める事となります。また、60年代末以来インドが依存してきたソ連製先端兵器やその部品の調達にも問題が生じます。ソ連が崩壊して修理部品供給が途絶えた結果、インドの軍人たちは自らロシアに出向いて修理部品を探し回る事態になったのです。
この一旦休止状態になったインドとロシアの関係は、プーチンが大統領に就任してロシア経済が立て直されると同時に修復されるのですが、それは元の印ソ関係への回帰ではありませんでした。経済的なグローバル化を受け入れたインドにとって、新しい印ソ関係は経済的な犠牲を払ってまで維持すべき関係とは考えられていないのです。
一方の米中パキスタン枢軸も、現在では完全に空中分解しています。2017年に就任した米国のトランプ大統領は、中国との間の膨大な貿易不均衡を問題として取り上げ、米中貿易戦争となるのですが、短期的なディールを意識したトランプ大統領の思惑を超えて、覇権競争にエスカレートしてしまいます。
またソ連のアフガン撤退以降、米国をテロのターゲットとして活動を始めたアルカイダなどのイスラムゲリラ組織の動きは、イスラムの同志として元々それらを支援していたパキスタンと米国の関係を微妙なものにしました。2011年5月2日未明に米国特殊部隊がイスラマバードから約60km北東のアボッターバードの隠れ家に潜伏していたウサマ・ビン・ラディンを急襲し殺害するのですが、米国がこの作戦について事前にパキスタンに知らせていなかった為、パキスタンは"主権侵害"としてこの作戦に激しく反発します。米国はアボッターバードのような軍関連施設がある都市でパキスタン軍あるいは少なくとも幹部の誰かが関与せずに、ウサマ・ビン・ラディンが隠れ住む事は有り得ないと考えて、パキスタンに不信感を持っていたのです。
米中、米パキスタンはぎくしゃくしているのですが、一方中国にとっては経済発展の過程でパキスタンの地政学的重要性が急速に高まりました。パキスタンが中国内陸・西部とアラビア海を繋ぐ最短距離であるという地理的な条件の重要性です。パキスタン・バルチスタン州のアラビア海に面する港湾であるグワダル港は、2002年以降中国の援助によって浚渫・バース建設が行われています。
また2001年には中国が主導する上海協力機構(中国・ロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタン)がスタート、2005年にはインドとパキスタンがオブザーバー参加し、2015年に正式加盟します。
またパキスタンは米国に不満を持ってはいるものの、経済的軍事的に米国に依存せざるを得ないという事情があり、一定の関係は維持しています。インドは対中包囲網の色彩が濃い日米豪印戦略対話(Quad)にも参加しています。
さて今回の、インドとロシアの関係のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。ロシアのウクライナ侵攻以来、インドの対応が注目を集めています。本当に彼等の外交はしたたかだと思います。一方で私はインド外交は"したたかさ"だけでなく"正義感"も併せ持っていると考えています。以前の投稿"インド人の特徴 - インドよもやま話#2 -"でインド人の"正義感"の例として「"平和に対する罪と人道に対する罪"は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反する」として被告人全員の無罪を主張した東京裁判のパル判事とサンフランシスコ講和会議に招請を受けて「日本に名誉と自由を、他の国々と同様に与えるべきである」として会議への参加と条約への調印を拒否したインド政府の姿勢を挙げました。この"正義感"を併せ持っているところがインド外交の強みなのだと思います。
近年、世界の外交・安全保障関係者の間で"トゥキディデスの罠"という言葉が話題となっています。古代ギリシャの覇権国スパルタと新興国アテネが大戦争に陥った史実を基に、覇権国と台頭する新興国は戦争に陥るリスクがある事を指す造語で、現代の国際政治では覇権国アメリカと台頭する中国を念頭に語られます。
スパルタとアテネは大戦争の結果、共に国力が衰えてマケドニアの台頭を許す事になったそうです。今から何十年か後には、インドが世界のリーダーとなっているかもしれませんね。それではまた。
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