海外プロジェクト - 戦後の日本企業はこうして海外進出を始めた - こんなところに日本企業?!【海外進出日系企業研究】

07/10/2022

海外進出日系企業研究

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今回は、私が海外駐在していた時に見聞きした、日本企業の海外PJTビジネスについてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/b-DLC6uTdEQ

実は自動車や家電などの日本の製造業が海外に進出するよりもずっと前から、総合商社、ゼネコン、プラントエンジニアリング会社、重電メーカーなどが海外で、発電所建設、橋梁建設他のインフラプロジェクトや各種プラントの建設などを受注していたのです。その背景には、戦後のアジア諸国に対する賠償と、それに並行する経済協力としての資金協力がありました。

第2次世界大戦後、最も早く組織された開発途上国援助のための国際機関である「コロンボ・プラン」に日本が加盟したのは、1954年でした。戦後10年も経っていない時期です。

当初、苦しい中で"第二次世界大戦当時におけるアジア諸国に対する損害賠償"としてODA(政府開発援助)をした日本としては、自国の戦後復興の為に、そのODAを通じて輸出の促進や海外投資による国内産業の振興を図る事を狙いました。

ODAには、保健や教育などの分野に必要な資金を贈与する「無償資金協力」と、将来、被援助国が返済することを前提とする「有償資金協力(円借款)」があります。

インフラプロジェクトは有償資金協力が適用されるケースが多いのですが、当初は調達先が援助供与国に限定されたタイド援助が一般的でした。例えば日本の円借款で橋梁を建設する場合、タイド援助であれば橋梁建設入札の参加者は日本企業に限定されるのです。なので日本政府が途上国に貸し付けた資金は、橋梁建設工事を落札した日本企業に還流します。途上国は日本政府に返済をしますので、日本企業は途上国が返済不能に陥るリスクを負担せずに工事を落札出来ます。

このタイド援助には「日本の援助は利益追求型の援助だ」という批判があり、80年代後半からアンタイド援助が主流になって行きます。ところが、私が2002年から4年間駐在したフィリピンでは、アンタイドにも関わらず、日本のODAによるプロジェクトの多くは、日本企業に落札されていました。このあたりは極めてフィリピンらしい"阿吽の呼吸"ですね。

アロヨ大統領とその夫ホセ・ミゲル・アロヨ

一方中国では、日本のODAがアンタイドになったとたんに、多くのプロジェクトをドイツ企業が落札したりしていました。歴代ドイツ首相がドイツ企業を売り込んだ成果なのか、中国ではシーメンスなどのドイツ企業が強いですね。

タイドからアンタイドになったとたんに手のひらを返した中国は少数派で、多くの被援助国では、引き続き高い割合で日本企業が受注を獲得し続けました。このODAが、海外プロジェクトに関わる日本企業の背中を押したのです。このような背景があり、日本の総合商社、ゼネコン、プラントエンジニアリング会社、重電メーカーなどが、発展途上国のインフラプロジェクトを受注して行きました。

私はインドに駐在していた2000年にスリランカのコロンボに出張したのですが、日本のゼネコンと総合商社が大勢の日本人駐在員を派遣していて驚きました。当時のスリランカは、国民一人あたりの日本からのODAの金額が世界で一番多い国だったのです。なのでそのODAのプロジェクトを受注した企業や受注を目指す企業が、大勢の駐在員を置いていました。

当時ニューデリーに住んでいる日本人は約2000人でしたが、コロンボにも約1000人が住んでいました。ODAによるプロジェクト以外には殆どビジネスチャンスの無い小さな島国に、1991年に始まったインドの経済自由化をビジネスチャンスと捉えて多くの日系企業が駐在員を送り込んでいたニューデリーの半数に達する日本人が住んでいたのです。如何にスリランカ向けODAのボリュームが大きかったのか判ります。

スリランカは、地政学的に重要な場所にあるので、当時世界の警察を自負していた米国はスリランカと太いパイプを維持したかったのですが、米国が深く関わるとインドを刺激する事になるので、米国に代わって日本が多額のODAを行っていたのです。その結果、蟻が蜜に群がるように総合商社やゼネコンが集まっていたのです。

スリランカはその後、中国から多額の借款を得てインフラ整備を行い、新型コロナで観光収入が激減した結果、深刻な経済危機に陥ってしまいました。スリランカは、2017年に南部のハンバントタ港の建設費返済が出来なくなり、中国とスリランカの合弁企業に港の運営権を99年間リースせざるを得なくなりました。このケースは、中国が地政学的に重要なスリランカの港を押さえた事から、中国の債務の罠に嵌った典型例と言えそうですが、2022年の経済危機は、中国のODA以外に野放図に国際ソブリン債(ISB)による借り入れを増やし続けたスリランカ自身の責任が大きいようです。スリランカが債権国会議の開催呼びかけを日本に求めている背景には、このような日本とスリランカの関係があります。

私が仕事で関係があったのは、1994年7月~2005年7月に実施されたコロンボ港改修PJTでした。工事現場を案内して貰ったのですが、港の堤防の外側にはスリランカ海軍の船が停泊して、当時スリランカ北部を実効支配していたテロ組織"タミル・タイガー"の攻撃に備えていました。スリランカは2009年まで内戦状態にあったのです。

コロンボ港

私はコロンボではいつもヒルトンホテルに宿泊していましたが、その隣にはタミル・タイガーのテロで破壊されたままの状態で放置されたインターコンチネンタルホテルがありました。ヒルトンホテルには"銀座ほうせん"という日本食レストランが入っており、結構レベルが高かったので、ニューデリーから出張する時は、そこで食事をするのが楽しみでした。

2000年9月30日にホテル・ニッコー・ニューデリーが開業するまでは、ニューデリーにはレベルの高い日本食レストランが無かったのです。

私は海外出張時に利用する目的で、日本でシティバンクの口座を開設して、キャッシュカードを持っているのですが、コロンボの商店街の片隅にある薄汚れたATMで現金(スリランカルピー)を引き出した時は、そのATMと東京の私の銀行口座が繋がっている事に、感動してしまいました。

戦後日本の経済発展は、ODAによる政府の支援を受けたゼネコンや総合商社の駐在員が、地の果てのようなところで危険を顧みずに頑張ってくれたから達成されたのです。

地の果てのプロジェクトとして私が本当に大変だと思ったのは、インドの水力発電所建設PJTです。水力発電にはダムが必要です。ダムは通常、山岳地帯にあります。私が話を聞いたインド・ダウリガンガ水力発電所建設PJTの現場は、ネパールとの国境の近く、ヒマラヤ山脈の中でした。


そこで仕事をしている鹿島建設の日本人駐在員は、たまに保養の為にニューデリーまで出て来るのですが、車で片道二日掛かるという事でした。途中、辺鄙な山の中のホテルで一泊するのです。

当時私はニューデリーに住んでいた訳ですが、月に一回はインド国外に出ないと窒息してしまうと思っていました。日本本社の社員には「クジラやイルカは、たまに海面に出て呼吸しないと窒息するだろ。それと同じだ。」と話していました。ダウリガンガPJTの鹿島建設の人々にとっては、私が窒息してしまうニューデリーが、二日掛かりで漸く辿り着く保養場所だったのです。

ゼネコンの社員には夫々、専門分野があるそうです。以前ドイツに駐在していた時に、仕事で関係があった清水建設の日本人駐在員に聞いた話です。その人はANAが買収したウィーンのグランドホテルの改修工事の仕事をしていました。改修とは言っても、実態は殆ど新築と同じでした。街の景観を変更する事が許されないので、外壁のみを残して中は全て建て替えるという改修工事だったのです。


ANAグランドホテル

その人はホテルの建築が専門なので、現場は都会かリゾートだけという事でした。

一方ダムを専門とする人は、山の中の現場を渡り歩く事になります。ODAで水力発電所を建設するのは、貧しい発展途上国が多い傾向があります。燃料が不要の為、維持費が安くて済むからです。なのでダム建設を専門とする人は、貧しい発展途上国の山岳地帯のダム建設現場を渡り歩く事になったりします。やりがいがある仕事なのは間違いありません。

"地図に残る仕事"というキャッチコピーがありましたが、私が仕事で少しだけ関わったODAのプロジェクトで正にそれに該当するのが、第二ボスポラス橋です。1990年日本で本社勤務していた時に、ほんの少しだけ関りがあったのですが、モスクワに駐在していた2009年に、休暇でイスタンブールを訪れて、この橋を見る事が出来ました。

ODAの受注で経験を積んだ日本のゼネコンはその後、ODAとは全く関係ない海外工事の受注も拡大して行きます。特にシンガポールでは、多くの高層ビル建設や各種土木工事を受注しています。また、日本企業が海外進出を加速した1980年代以降は、日本企業の発注する工場建設なども受注しました。

マリーナベイ金融センター

ジュロンアイランド埋め立て工事

私が駐在していたフィリピンでも、西松建設が日産自動車の工場を建設したりしていました。

フィリピン日産

基本的に日本企業は日本のゼネコンに工事を発注する事を好みます。一般的に日本のゼネコンは地場のゼネコンより割高ですが、日本のゼネコンは約束を守るから発注するのです。海外のゼネコンは不測の事態が発生すると、簡単に納期を延ばしたり、工事代金を引き上げたりします。日本のゼネコンは納期と工事代金の約束をきちっと守るのです。

それ以外に、日本のゼネコンが顧客目線で親切な事も理由の一つです。ある日系企業が、欧州で地場ゼネコンに建設工事を発注したのですが、引き渡しを受けた建物に建設資材等が散乱して汚かったので、清掃を依頼したら追加費用を請求されたという事でした。引渡し前の清掃は請負契約書に書かれていないと言われたのです。日本のゼネコンであれば、この様な事は有り得ません。

日本企業がどんどん海外進出を進める中で、日本のゼネコンも世界中で工事を受注していたのですが、ロシアだけは例外でした。理由は簡単で、ロシアでは建設と汚職があまりに深く結びついているので、日本企業には手出しが出来なかったのです。以前の投稿"最強の反社は警察 -ロシアの汚職(腐敗)-"でもお話ししましたが、1992年から2010年まで18年間モスクワ市長を務めたルシコフは、公共工事のみならず、民間工事を含む全ての工事からカネを取っていたと言われています。彼の在任期間中、モスクワ市内で行われる全工事代金の5%が彼に支払われたという事です。東南アジアのハードなビジネスを難なくこなしていた日本のゼネコンでも、ロシアのハードルは高かったようです。

ルシコフモスクワ市長

私の知る限り、ロシアで日本のゼネコンが受注した唯一の工事は、モスクワの日本大使館建設だけです。流石のルシコフも、日本大使館には手出しが出来なかったようです。

在モスクワ日本大使館

サンクトペテルブルクの日産自動車の工場建設は、トルコのゼネコンが受注していました。

日産ロシア工場

トルコとロシアには歴史的な背景による独特の繋がりがあるようです。トルコのゼネコンはモスクワ市内のいくつかの高層ビル建設も受注していました。

モスクワシティ

このODAで経験を積んでビジネスのフィールドを拡大した、という観点で面白いのが、発電所の建設です。発展途上国では急激に増加する電力需要に対応して発電所を建設する必要があり、ODAを使って、前に話した水力発電所の他、火力発電所も多く建設されていたのですが、この発電所建設の経験を積んだ日本企業が、ODAとは関係の無い海外IPPビジネスに進出します。IPPとは、Independent Power Producerの略で、自らが所有する発電設備で作った電力を電力会社に卸売りする事業または事業者の事を言います。この海外IPPビジネスでもいろいろなドラマがあるのですが、今回は話が長くなったので、IPPについては回を改めてお話ししたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/b-DLC6uTdEQ


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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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