ホンダの海外展開 - 本田宗一郎と藤澤武夫の夢の続き -【海外進出日系企業研究】

09/09/2022

海外進出日系企業研究

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今回は、私が海外駐在していた時に印象深かった日系企業から、ホンダについてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/djVSYHyW4v8

ホンダという会社について考える時に重要なのは二輪事業です。売上高としては四輪事業が圧倒的に大きく、かつ欧米先進国では二輪車市場が極めて小さいので見落としがちですが、ホンダは世界の二輪車市場で圧倒的なM/Sを誇る巨人なのです。

日本も欧米先進国と同じく二輪車市場が小さいので、実感が湧きにくいのですが、全世界の市場規模は年間販売台数ベースで5000万台強になります。ちなみに日本の年間販売台数は約40万台です。ホンダの全世界M/Sは20%程度で、2位を大きく引き離して圧倒的な強さを誇っています。


ホンダの二輪の2021年度売り上げは2.2兆円で、四輪の売り上げ9.4兆円には遠く及ばないのですが、二輪事業の営業利益率は14.3%と、四輪の4.7%を大きく上回っています。EV(電気自動車)やF1レース、ホンダジェットなど、様々な分野でのホンダのチャレンジを支えているのが、この盤石な二輪事業なのです。



私がホンダの二輪事業の強さを知ったのは、インドに赴任した1999年です。現在のインドは世界の二輪車市場の35%を占める巨大マーケットなのですが、ホンダは1980年代の早い時期からその潜在力に気付いて、マーケットにアプローチしていました。1984年にインドの自動車メーカーKinetic(キネティック) Engineering Limitedと合弁でキネティック・ホンダを、インド最大規模の自転車メーカー、ヒーロー・サイクルと合弁でヒーロー・ホンダを設立します。キネティック・ホンダはスクーター、ヒーロー・ホンダはバイク、という棲み分けでした。


以前の投稿"スズキの海外展開 - スズキのどこがすごいのか -"で、スズキが1980年代に合弁パートナーとしてマルチ・ウドヨグに出資した先見の明についてお話ししましたが、ホンダが合弁パートナーとしてキネティック・ホンダとヒーロー・ホンダに出資したのも、ほぼ同じ時期です。バイクメーカーから四輪に進出したという共通の背景を持つこの2社が、ともにインド市場の将来性を見通しながら、スズキは四輪、ホンダは二輪と、違う方向に進んだのは興味深い事です。

この四輪事業のアプローチの違いは、ホンダとスズキの大きく違う点です。本田宗一郎さんと鈴木修さんの哲学の違いと言っても良いと思います。文系(中央大学法学部出身)の修さんは、自社を"中小企業"と見切って、先行者利益を得られるマーケットとしてインド四輪車市場を選択しました。一方技術者出身の本田宗一郎さんは、自社の技術で先行する巨人(ビッグ3)にチャレンジする道を選び、最大市場の米国に工場建設したのです。

スズキはマルチ・ウドヨグに全力投球していた為、インドの二輪事業まで手が回らなかったのでしょう。インドにおける二輪事業は、現在インドにおけるM/S第3位のTVSモーターへの技術供与に留まりました。ただしスズキもその後インド二輪車市場で巻き返し、ホンダには遠く及ばないものの、2021年度は60万台を売り上げています。これにはマルチ・スズキで得られたブランドイメージが相当寄与しているものと思います。

キネティック・ホンダは14年後の1998年に合弁解消となり、ホンダは1999年にスクーターの製造販売を行う、ホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディア(Honda Motorcycle and Scooter India, Private Limited)を100%出資で設立します。

インドは徐々に経済開放を行っていたので、過去には100%外資の会社設立が出来ませんでした。なので、ヒーロー・ホンダにおけるホンダの出資割合は26%でした。自国産業保護政策の関係で、ホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディアでは、ヒーロー・ホンダとバッティングしないスクーターをはじめとした車種しか製造販売出来ませんでした。

ヒーロー・ホンダは大成功でM/Sはトップ、2000年には年間販売台数200万台を超えました。しかしその時点でもホンダの出資割合は26%で、将来出資割合を引き上げられる見込みもありませんでした。

民間企業であるヒーロー・サイクルに、莫大な利益を生み出し続けているヒーロー・ホンダの出資割合を引き下げるインセンティブは全くありませんでした。ホンダは最終的にヒーロー・ホンダの合弁を解消し、ホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディアにインドの二輪事業を一本化します。直近の販売台数を見ると、1位はヒーロー・モトコープ(旧ヒーロー・ホンダ)で、ホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディアは2位に付けています。ヒーロー・モトコープの販売台数の26%よりはるかに多い台数をホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディアで販売している事を考えると、合弁解消は正解だったのではないでしょうか。現在ではホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディアでは、スクーターだけでなく、バイクも製造販売しています。

ホンダの二輪事業でもう一つ忘れてはならない国はベトナムです。私は1995年に日本からベトナムに出張したのですが、そこでスーパーカブの洪水を見ました。ホーチミンやハノイのメインストリートは、自動車はほんの僅かしか走っておらず、スーパーカブで埋め尽くされていたのです。

ホンダは今でもベトナムの二輪車市場で圧倒的な強さを誇っており、ベトナムでは二輪車の事を「ホンダ」と呼びます。なので、「ヤマハのバイク」と言うところを「ヤマハのホンダ」と言う訳です。昔、ゼロックスがコピー機のM/Sで圧倒していた時に「コピーする」事を「ゼロックスする」と言っていたのと同じですね。


ベトナムにおけるスーパーカブ人気には、ベトナム戦争が関係しています。話は1958年8月のスーパーカブ発売に遡ります。1948年に従業員34人の町工場「本田技研工業株式会社」を浜松でスタートしてから10年後です。このスーパーカブは当時としては爆発的な売れ行きを見せるのですが、ホンダはなんとその翌年にホンダ100%出資の現地法人アメリカン・ホンダ・モーターをLAに設立して、米国市場に参入します。


当時の米国では、バイクはアウトローの乗るもので、年間6万台程度しか売れていませんでした。この時にホンダで海外展開を主導していたのが、当時専務だった藤澤武夫さんです。藤澤武夫さんは創業以来本田宗一郎さんと二人三脚でホンダを引っ張っていました。

米国は第2次世界大戦後、世界の覇権を握り、1950年代から60年代にかけて史上最高の豊かな国になっていました。藤澤さんは、そのような世界一の消費力を誇る米国で二輪が売れ始めたら、巨大な二輪車市場になると考えたのです。この発想は、ウォークマンで新たな需要を開拓したソニーに通ずるものがあります。盛田さんは「我が社のポリシーは、消費者がどんな製品を望んでいるかを調査して、それに合わせて製品を作るのでなく、新しい製品を作ることで彼等をリードすることにある」と言いました。

藤澤さんは更に、将来の四輪事業の展開も視野に入れ、米国でのホンダブランド浸透も意図していました。

アメリカン・ホンダ・モーターはキャンプや狩猟、釣りなどのレジャー用の足としてスーパーカブを売り込む事に成功し、次いでティーンエイジャーの日常の足としても注目されるようになります。


この時代、日本ではサラリーマンの初任給は8.500円ほどで、スーパーカブは55,000円でした。ところが米国では初任給が500ドルくらいで、スーパーカブは295ドルでした。学生たちはアルバイトで稼いだお金で、パーソナルモビリティーとしてスーパーカブを買いました。まさに藤澤さんの読み通りになったのです。

ここで話はベトナムに戻ります。ベトナム戦争当時の南ベトナムには最大で約55万人の米軍兵士がいました。1965年からの10年間で南ベトナムに投入された米軍兵士は延べ260万人です。米本国で大流行していたスーパーカブを知る彼等が、ベトナムでのユーザーとなったのです。ホンダは1967年から69年までの3年間で、約75万台のスーパーカブを南ベトナムに輸出しました。

1975年にサイゴンが陥落し南ベトナム政府が崩壊すると、戦争に負けた米軍は全てベトナムから撤退してしまいます。膨大な数のスーパーカブが統一されたベトナムに乗り捨てられ、ベトナムの人々の手に渡っていくのです。米政府は1979年にベトナム経済封鎖をおこない、同盟国にも同調を求めます。




この経済封鎖はおよそ16年間続きました。当然ベトナムはスーパーカブも部品も輸入できなくなりました。経済封鎖の16年間は、ベトナムの人々がスーパーカブの絶対的な信頼性と耐久性を体験する長い時間になりました。スーパーカブが本当に燃費よく壊れにくい事が証明された16年間だったのです。この時期、ベトナムにはスーパーカブの修理用部品を製造する小さなメーカーがありました。私が1995年にベトナムで見たスーパーカブの洪水は、米軍が残していったものだったのです。

ホンダは経済封鎖が解かれた1996年に、二輪製造販売のホンダ・ベトナムを設立します。今でもホンダはベトナム二輪車市場でM/S80%を誇っています。

さて、ここまではホンダの二輪事業についてお話ししてきましたが、ここからは四輪事業についてです。もともと本田宗一郎さんも藤澤武夫さんも、二輪の次に四輪に進出する事は当初から考えていたのですが、その背中を強く推す事になったのは、通産省が1961年5月に出した"自動車行政の基本方針(後の特定産業振興臨時措置法案:特振法案)"でした。

通産省では、貿易自由化と資本自由化の結果として、自国の自動車産業が駆逐される事が無いように、特定産業に指定し、合併ないし整理統合、設備投資を進めることを目指したのです。その後の我が国の自動車産業の発展を見ると、余計なお世話と感じてしまいますが、当時弱小だった日本の自動車産業を、ビッグ3他、強力な欧米の自動車メーカーとの競争から守らなければならないという通産官僚の思いは、城山三郎原作のTVドラマ「官僚たちの夏」などを見ると、分からないでもない気になります。

この特振法案が成立してしまうと、新たに四輪事業に新規参入する事が認められなくなる為、ホンダは法案成立前に四輪車の生産実績をつくるべく、1962年1月に急遽軽四輪スポーツカーと軽四輪トラックのプロトタイプ製作に着手したのです。結局この特振法案は廃案となるのですが、おかげでホンダは四輪事業への参入を加速させる事となりました。

この時にプロトタイプとして作られた軽四輪スポーツカーのS360は結局発売されなかったのですが、その後継車種のS500、S600、S800は発売されて大人気でした。




このSシリーズは直列4気筒DOHCで、夫々のシリンダー毎にキャブレターを付けた4連キャブレターだったのですが、キャブレターの調整が難しく、友人の家の近所に有ったホンダSF(Service Factory)押上工場には、いつもキャブ調整待ちの列が出来ていたという事です。

このSシリーズはその後、1999年発売のS2000、2015年に発売して2022年に生産終了したS660に繋がります。


このSシリーズは、オープン2シーターという性格上、マーケットには限界があったのですが、1966年に発売した軽乗用車N360は、最高出力31馬力、最高速度115km/hという小型乗用車並みの性能と、大人4人がゆったりと乗れる居住性、ミニクーパーで有名な英国のミニに似たお洒落なデザインで、一躍ベストセラーカーになります。当時流行っていたアイビールックに身を包んだ大学生が、颯爽と乗り回すイメージでした。庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」で主人公はガールフレンドと赤のN360でデートします。


このN360の成功は、1972年発売のシビックに引き継がれます。

ホンダは米国で1970年に発効した世界一厳しい大気汚染防止法であるマスキー法の基準を、CVCCエンジンにより世界で初めてクリアし、それをシビックに搭載して米国で販売します。

CVCCエンジンを搭載したシビックは、燃費の良さ、排ガス浄化に触媒を使わない事により当時米国で一般的だったハイオクガソリンを使用出来る事などから、米国でも高い評価を得て大ヒットします。当時の米国のガソリンスタンドは、ハイオクガソリンしか販売していないところが多く、レギュラーガソリンしか使用出来ない触媒を使った排ガス浄化対応車は、給油場所に困っていたのです。このシビックを発展させたアコードは、米国で小型車のスタンダードカーとして、プレミアが付く人気車種に成長し、米国におけるホンダ四輪車の地位と市場を着々と構築して行きました。

藤澤武夫さんが予定した通りに、米国で二輪から四輪へと市場を拡大したホンダは、満を持して1979年にオハイオ州メアリスビルに設立した新工場ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)で二輪車の製造を開始、翌年には、二輪車工場の隣接地に四輪車工場を建設し、日本の自動車メーカーとして初めて、米国で乗用車を現地生産する計画を発表します。1982年11月、ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)で現地生産第1号車の2代目アコードがラインオフ。戦後創業し、シビックやアコードなど限定的な商品ラインアップしか持たないホンダが、トヨタ、日産などの大手よりも早く米国に工場進出して四輪の生産を開始したというのは快挙です。

これらの取り組みが、現在の米国におけるホンダの強さに繋がっているのは間違いないところです。ホンダの2022年3月期連結決算では、営業利益の過半が北米となっています。

最後に、ホンダの撤退についてお話ししたいと思います。2021年にホンダは英国スウィンドンの四輪工場の操業を停止しました。その後は欧州向け全量が日本から輸出されます。日本とEUの経済連携協定(EPA)が2019年に発効したので、関税無しの輸出になります。

ホンダは「ブレグジットとは関係ない」と言っていますが、英国のマスコミは「ホンダはブレグジット後にEU向け輸出に新たな関税が課されることを懸念しており、ブレグジットも工場閉鎖の要因の一つだ。」と伝えています。

1979年のブリティッシュ・レイランド(BL)社との技術提携に始まり、1992年にスウィンドン工場での生産開始となった、ホンダの英国における四輪生産の歴史は、ここで幕を閉じだのです。

私はたまたま、2016年6月23日に行われたブレグジットに関する国民投票結果を、翌日午前中の日本のTVで見ていました。現地時間で6月23日深夜から24日未明で、英国各地の投票結果が徐々に発表される中で、ニュースキャスターが「スウィンドン市はブレグジット反対が60%以上です。」と報じました。私は「ホンダの工場があるんだから当然だな。」と思って見ていたのですが、急にキャスターが、「あっ。間違いです。逆でした。ブレグジット賛成が60%以上です。」と訂正したのです。

解説によると、スウィンドンにおける各種世論調査の結果は、だいたい英国全体と同じになる、との事でした。まさにその通りで、ブレグジット賛成が多数を占める事になりました。ちなみに日産の英国工場があるサンダーランド市も、60%以上がブレグジット賛成でした。

英国マン島TTレースやF1で、欧州への思い入れが殊のほか強いホンダとしては、欧州で唯一の四輪製造拠点である、英国スウィンドン工場撤退は苦渋の決断だったろうと思います。このあたりはスズキの思い切りの良い撤退とは一線を画します。

ちなみに私が駐在していたロシアでは、ホンダは工場建設予定こそありませんでしたが、2008年のリーマンショックの前までは販売子会社であるHonda Motor Rusを通じて、積極的に輸入販売を拡大していたのですが、リーマンショックの後は販売の低迷が続き、2020年にロシアの四輪販売から完全撤退します。

2008年には販売台数89,152台でM/S2.9%まで行ったのですが、2020年の販売は1,508台という寂しいものでした。このゆっくりとした撤退はロシアの新聞から「これは日本流の丁寧な『サヨナラ』だ」と論評されました。

1990年代の終わりに「400万台クラブ」という言葉が流行って、「400万台以上の生産規模のない会社は生き残れない」と言われて大型の合併やM&Aが繰り返されていた時にも、自主独立路線を貫ぬいていたホンダですが、昨今の電動化、自動化の大波の中では、他社との連携に走らざるを得ないようです。その中で私が最も期待しているのが、ソニーとの合弁会社「ソニー・ホンダモビリティ」です。戦後に創業された日本の製造業の中で最も元気だったこの2社が、また何かやらかしてくれるのではないかと思います。

さて今回の、ホンダのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。今回は時間の関係で、F1、ホンダジェットなど、触れられなかった事もあり、中国、インドネシア、その他のアジアの国々の話などと併せて、また機会を見てお話ししたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/djVSYHyW4v8

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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