今回は、私が海外駐在している時に印象深かった日系企業から、スズキについてお話ししたいと思います。
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私は1991年に東欧担当の増員としてデュッセルドルフに派遣されたのですが、その当時の東欧における最大の取引先がスズキでした。その後、インド、ロシアでもスズキと関りがありました。それらの経験を通じて知ったのは、海外展開する多くの日系企業の中で、スズキが極めて特異な存在だという事です。
以前の投稿"ドイツ人の特徴"の中で、「ドイツ企業では経営陣の独断専行が多く見受けられ、日本企業から見ると”危なっかしい”という事になるが、そう言う日本企業はリスクを取る事を避けるあまり”石橋を叩いて壊す”ような事をする。」と言いました。スズキは"鈴木修"という天才経営者のお陰で、日本企業にありがちな優柔不断による失敗を回避しているのです。
私がこの事を強く感じたのは、モスクワに赴任した2008年です。その年の9月にリーマン・ブラザースの破綻に端を発するリーマンショックが世界中を襲うのですが、その直前まで世界はバブル景気に踊っており、自動車メーカーは増産を重ねていました。その中でスズキのみが、米国のサブプライムローンの変調による危機の前触れを感じ取って、逸早く全世界の在庫の圧縮を始めていたのです。修さんの直観だと言う事でした。
他の自動車メーカーの経営陣の中にも、在庫圧縮した方が良いと考える人はいたようですが、売り上げが爆発的に伸び続ける中で、ネガティブな提案をして万が一その予測が外れた場合、自身の責任問題となってしまうので、ぎりぎりまで在庫圧縮を言い出せなかったようです。
当時のロシアにおけるスズキのM/Sはさほど大きくなかったので、ロシアでのスズキの在庫調整は目立ちませんでしたが、ロシアではリーマンショックが襲う直前まで、空前の好景気に沸いていた為、他の日系自動車メーカー各社は輸入をどんどん増やしていました。日本で組み立てられた完成車が自動車専用船で運搬され、バルト海に面したフィンランドのハミナコトカ港で陸揚げされて、そこでトレーラーに積まれ、陸路でロシア国内に配送されていました。
日本からフィンランドまでは、スエズ運河を経由して2~3か月の航海になります。2008年8月までは飛ぶように売れていた車が、9月以降ぱったりと売れなくなるのですが、その時点で、多くの自動車専用船が合計何十万台もの完成車を載せて、フィンランドに向かっていたのです。モスクワの新車置き場はあっという間に溢れてしまい、臨時の新車置き場に長期間保管された数万台の車は、販売前に錆が出たり色褪せしたりしました。一旦ロシアに入れてしまうと、ロシアの法規制上再輸出が困難となる為、各社は完成車をフィンランドに留め置いて、そこで仕様の手直しをして欧州の他の国に輸出先を振り替えようとしました。その結果、今度はハミナコトカの新車置き場が溢れてしまい、荷降ろし出来なくなった自動車専用船が何隻も、ハミナコトカ港外に長期間停泊する事態となりました。スズキだけがそういった事態を回避したのです。
ロシアに関するスズキの重要な決定のもう一つは、工場進出の中止です。リーマンショックの直前まで、ロシアの新車販売は驚異的な伸びを見せており、販売台数は、欧州1位のドイツを抜き去りそうな勢いでした。それを踏まえて2005年にトヨタが、2006年には日産が、サンクトペテルブルクに工場進出を決めます。スズキも2007年にサンクトペテルブルクへの工場進出を決め、2008年春に着工予定でした。
ところがスズキは着工直前にこれをキャンセルします。共同出資する予定だった伊藤忠が、既に100%出資してスズキロシアという会社を設立し、工場建設用地の手配等、準備を進めていました。製造を開始した段階でスズキもそこに出資して、共同出資とする予定だったのですが、着工を取りやめてしまったのです。
伊藤忠は、サンクトペテルブルク市内に新会社"スズキロシア"の事務所を構え、日本人数名を派遣し、数十人のロシア人を雇用して準備を進めていましたから、それらの出費が全て無駄になりました。伊藤忠の損害は、スズキが様々な形で補償したようですが、全額とはいかなかったようです。
これらは私が見聞きした、修さんのリーダーシップの極一部の例です。修さんは1978年に社長に就任して以来、2021年に会長を退任するまで43年に亘って経営の指揮を執ってきました。その間に売上高を10倍以上に増やし、四輪車の世界販売台数は第10位、二輪車の世界販売台数は第8位の世界的な自動車メーカーに育て上げたのですが、修さん自身は「スズキは中小企業で、自分は中小企業のオヤジだ。」と言い続けていました。実際は売上高3兆円を超える巨大グローバル企業なのですが、この気取りの無さがスズキと言う会社の真骨頂です。
浜松市にある、2輪工場に隣接した本社は大変質素で、とても世界的な大企業の本社には見えません。古びた3階建てのビルに正面玄関があるのですが、なんと受付には人がいません。受付にある内線電話で面談相手を呼び出すようになっています。このような無人の受付は、中小企業では良く見ますが、私は他の自動車メーカーの本社で、無人の受付を見た事はありません。たいがい制服を着た若い女性の受付嬢が複数いて、来客の受付をしています。
グローバル企業らしく、人のいない受付には日本語と英語で説明書きがあります。日本語の説明は、内線電話のかけ方が書かれているだけなのですが、英語の方は「経費節減の為に受付に人を置いていない」とはっきり書かれていました。おまけに電気代を節約する為、受付のあたりは薄暗くなっています。内線電話で呼び出すと、面談相手がやってきて、面談コーナーに案内されます。
面談コーナーは天井が高い体育館のような場所で、簡単な間仕切りで仕切られた質素なテーブルとイスが沢山並んでいます。特徴的なのは、高い天井から無数の紐がぶら下がっている事です。テーブルの上の天井にある蛍光灯のスイッチなのです。紐を引っ張って、使用するテーブルの真上の蛍光灯だけを点灯し、面談が終わると消灯して退席するのです。徹底した経費節減です。天井から無数の紐がぶら下がっている光景は、お世辞にも美しいとは言い難いのですが、そんな事はお構いなしです。
スズキの2022年3月期の連結売上高3.6兆円の内、2.5兆円が海外、1.1兆円が国内です。4輪事業が3.2兆円で、そのうちインドが1.1兆円です。4輪の販売台数でもインドは日本国内の2倍以上です。これらの数字を見ても判るように、現在のスズキの屋台骨を支えているのはインドの4輪事業なのですが、このインド進出も修さんの決断によるものです。
インド国民車構想によって1971年に設立されたマルチ・ウドヨグ社は、中心人物であったサンジャイ・ガンジーが生産開始前の1980年6月に飛行機事故で死亡した事から破産状態にあったのですが、インド政府が国有化後に提携先の国際入札を行った際に、スズキだけが前向きに応札し、合弁契約に至ったのです。インド政府は世界中の自動車メーカーに声を掛けたようですが、スズキ以外のメーカーは全て尻込みしたのです。
私がインドに赴任した1999年当時、マルチ・ウドヨグのM/Sは80%を超えていました。現在のM/Sは50%弱まで下がったようですが、市場の急拡大のお陰で販売台数自体はずっと右肩上がりです。2021年のインドにおける新車販売台数は308万台で、日本は422万台です。この市場規模を見ると、50%近いM/Sが如何に凄いか判ります。
今でこそ順風満帆のインド事業ですが、途中ではスズキも相当に苦労しています。もともとのスズキの出資比率は26%で、その後出資比率を段階的に50対50まで引き上げるのですが、合弁パートナーのインド政府で政権が変わると、トップ人事で揉めることになります。前の政府とは社長と会長を交互に1人ずつ出すという約束だったのに、理屈をつけて2人とも政府から出すと言い出したのです。
普通の日系企業であれば、進出先の政府と争うのは得策ではないと考えて、譲ってしまうところですが、スズキは違います。オランダ・ハーグの国際仲裁裁判所へ提訴し、徹底抗戦の姿勢を見せる事で、インド政府の譲歩を引き出します。和解後にスズキは出資比率を54%に引き上げ、2003年7月に上場して、インド政府は持ち株を市場で売却しました。現在、インド政府の持ち分は約10%です。
このスズキの、相手が誰であろうと臆さずに主張すべきを主張する姿勢が如実に表れたのが、VWとの提携です。
もともとスズキは1981年にGMと提携していました。今でこそ昔日の面影は無く、かつてビッグ3と言われたGM、フォード、クライスラーも、"ビッグ"でなくなったので"デトロイト3"と呼ばれるようになってしまいましたが、GMの会長兼CEOのチャールズ・ウィルソンが国防長官に任命される際に、上院軍事委員会で「GMにとって良い事は、アメリカにとっても良い事だ。」と豪語するほどに、まだGMが世界に君臨していた時代の話です。当時のGMは大人(たいじん)の風格があり、スズキやいすゞなどの日本の提携先の経営に過剰に介入する事はありませんでした。正に「君臨すれども統治せず」で、ドイツのオペルやスウェーデンのサーブなどもこの恩恵を受けていました。
ところが2000年以降、業績の悪化に歯止めがかからず、巨額の年金・退職者医療の債務を抱え、リーマンショックにとどめを刺される形で、2009年6月にChapter 11(米連邦破産法11条)の適用申請に追い込まれます。GMは経営が悪化する中で、益出しの為に提携先自動車メーカーの株式を次々に売却して提携解消します。2006年にはスズキとの資本提携を解消しました。
2009年にスズキが次なる提携の相手として手を組んだのがVWでした。しかし、VWとの提携は難航しました。「イコールパートナーで、自主独立」を主張するスズキと「スズキを傘下に収めたい」VWの覇権主義経営がかみ合わなかったのです。
GMがあまりに鷹揚だったので、VWは器が小さいように見えますが、厳しい経営感覚からするとVWの方が正解かもしれません。以前の投稿"ドイツ人の特徴"でもお話ししましたが、ドイツ人経営者は"アジリティ"を重視しますので、それがスズキの思惑と一致しなかったのだろうと思います。
この時もスズキは決然とVWと対峙し、提携解消を申し入れるのですが、VWがそれを断ると、オランダ・ハーグの国際仲裁裁判所への提訴に踏み切り、VWに対するスズキ出資株売却命令を出させます。
話は前後するのですが、スズキのハンガリー進出についてお話ししたいと思います。私が初めてスズキと関わったのは、スズキがハンガリーに工場進出した時です。このハンガリー進出の素早さも、スズキの面目躍如でした。
ソ連で進められていたペレストロイカを受けて、ハンガリーは1989年10月に複数政党制のハンガリー共和国に改称し新憲法に移行します。1990年1月、スズキは産声を上げたばかりの新政府との間で、工場進出の基本合意に調印します。1991年に合弁会社"マジャール・スズキ"を設立して、ブダペスト近郊のエステルゴムに工場建設し、1992年に生産を開始します。マジャールとはハンガリー語で"ハンガリーの"という意味です。
マジャール・スズキは2021年度に乗用車約10万台を生産し、累計生産台数は約370万台に達します。ハンガリー国内での販売及び100以上の国や地域への輸出を行っており、自動車産業を通じてハンガリー経済の発展に貢献したとして、修さんは2022年にハンガリー政府より「大十字功労勲章」を授与されました。
インドやハンガリーへの素早い進出の決断は、スズキらしさの表れと思いますが、素早い撤退の決断もそれと負けず劣らず重要です。ロシアへの工場進出の中止については初めに触れましたが、既に進出した国からの撤退も、気持ち良いくらいスパッと決断しています。
私がすごいと思ったのは、1995年のスペイン・サンタナモーターからの撤退です。スズキはサンタナモーターの49%の株式を所有していたのですが、サンタナモーターは毎年数十億円の赤字を垂れ流す状況でした。当時のスペインはまるで社会主義国家で、労働者はのんびりし、法律で保護された彼らを簡単に解雇出来ませんでした。労働組合も非協力的で、数十億円の赤字が出ているのに、合理化提案をしても振り向きもしてくれない状態でした。
スペインに工場進出していた自動車メーカーは、どこも同じような状況でした。特にVWは、セアトというスペインの自動車メーカーに出資していたのですが、単年度で1000億円の赤字を出す事態となり、当時VWの会長だったフェルディナント・ピエヒがスペインのTVに出演して、スペインから撤退しない事を宣言させられたりしていました。
そんな中で、スズキのみが決然と完全撤退を宣言し、サンタナモーターの持ち株をアンダルシア地方政府に1ペセタ(約0.7円)で売却しました。この持ち株の売却損とサンタナ向けの売掛債権等の償却で、スズキの損失は100億円近くになりました。スズキからサンタナに派遣されていた日本人駐在員は、身の危険がある為、完全撤退発表の直前に、工場のあるリナレスからマドリッドに避難していました。この撤退に関する思い切りの良さは、2012年の米国、2018年の中国からの4輪部門の完全撤退にも見られます。
日本企業は一般的にこの"素早い損切り"が苦手です。損切りをすると、その損失の責任追及が始まるので、経営陣は損失の顕在化を先延ばししようとするのです。先延ばしの結果、更に損失が大きくなってしまう事は良くあります。修さんのトップダウンが徹底していたスズキだからこそ、常に素早い決断が可能だったのですね。
ここまで修さんの展開した海外戦略についてお話ししましたが、実はスズキの日本国内での活動にも修さんは深く関わっています。スズキは軽自動車の分野では、1973年から2006年までの34年間に亘り販売台数日本一を誇り、ダイハツと熾烈な販売競争を繰り広げてきました。
軽自動車の販売は、ディーラーから車を仕入れて売る「副代理店」「業販店」というサブディーラーのウエイトが高いのが特徴です。スズキでは、それらサブディーラーの販売比率が7割以上になります。副代理店・業販店は、街の自動車整備工場や中古車販売店が大部分を占めています。なので、スズキは販売成績優秀店表彰など、これらの街の自動車整備工場や中古車販売店のオヤジさんや、経理を見ている奥さんを集める行事を頻繁に開催していたのですが、そういった場で修さんは大人気でした。
世界に冠たるグローバル企業のトップなのですが、気さくに整備工場のオヤジさんや奥さんと一緒に写真に写ったりするのです。修さんに言わせると、この様な写真はダイハツの攻勢を防ぐ魔除けになるのだそうです。スズキは修さんと整備工場のオヤジさんや奥さんの記念写真をパネルにして、後日届けます。整備工場のオヤジさんや奥さんは、その写真のパネルを工場の事務所に飾ります。ダイハツのディーラーのセールスマンがその工場を訪れて新規取引を依頼しようとした際に、その写真パネルを見て諦めるというのです。
修さんはグローバルなビジネス展開においてその天才経営者ぶりを遺憾なく発揮しましたが、一方で国内の泥臭いビジネスでもその天才ぶりは同じでした。
修さんは国内向けの商品開発においてもその才能を発揮しています。一番端的な例は、1979年に発売された軽自動車「アルト」です。当時、物品税のかからない軽ボンネットバンを乗用車的に使えて、価格は全国統一の47万円としました。この低価格を実現する為に徹底的に無駄を排除し、ラジオすらオプションだったそうです。このアルトが、スズキの経営を立て直す推進役になると同時に、当時ジリ貧傾向にあった軽自動車復活の道を作ったのです。ちなみに車名の「アルト」も修さんの鶴の一声で「こんなクルマがあるといいな」から付けられたという事です。
インドのマルチ・ウドヨグで最初に製造したのも、アルトのエンジンを800ccにアップしたマルチ800でした。私がインドに駐在していた時の女性秘書が、このマルチ800を買ったのですが、納車後間もなく盗まれてしまいました。マルチ800は販売台数が多かったので、盗難車のブラックマーケットがしっかりと形成されており、換金の容易さから盗難のターゲットになり易かったのです。
秘書が泣いていると、私の事務所で人事総務系の顧問をしていたインド人のおじさんが「警察に少しお金を払って相談すると良い。」とアドバイスしました。秘書が言われた通りにすると警官は「明日の朝、○○の場所に車を探しに行きなさい。」と言いました。秘書が翌朝、指定された場所に行くと、そこには盗まれたマルチ800がありました。
私にも詳細は判りませんが、車の窃盗団と警察が繋がっており、一定のワイロを払う事で車を戻して貰えた、という事らしいです。このあたりの事は機会を見て「インドの汚職(腐敗)」として別の投稿にまとめたいと思います。
さて今回の、スズキのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。また機会を見て、その他の海外進出日系企業についてもお話ししたいと思います。それではまた。
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