ウクライナ侵攻 何がロシアをそうさせた? ー ベルリンの壁崩壊からロシアのクリミア併合までの振り返り ー

24/05/2022

ロシア

t f B! P L

今回は、ベルリンの壁崩壊から2014年のロシアによるクリミア併合までを振り返り、何がロシアのウクライナ侵攻を引き起こしたのか、考えてみたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/YeeciUENQ8I


ロシアは二日でキエフを陥落させる予定だったようで、侵攻が始まってから2日後の2月26日にロシア通信が自社サイトに「(ソ連が崩壊した)1991年の悲劇は克服された。反ロシアとしてのウクライナはもはや存在しない」という、戦勝を報じる予定稿を誤配信しました。


米国も二日でキエフが陥落すると予測していた様ですが、大方の予想に反してゼレンスキー大統領がリーダーシップを発揮し、ウクライナ軍が善戦した為に、ロシアも西側諸国も予定外の事態に対応する事となり、悲惨な戦争が続いています。

米英両国からはポーランド東部などに亡命政府を置く案も出てましたし、米国は本音では、ゼレンスキー大統領がキエフから逃げてウクライナでの戦闘が終了する事を願っていたのではないでしょうか。

現在のウクライナの悲惨な状況の主たる原因は勿論プーチンに有り、それは紛れもない事実なのですが、一方で、ソ連崩壊による冷戦の終結の後に、欧米が違う対応を取っていたら、世界は現在とは全く違う様相を見せていたかもしれないと思います。

話は1985年、ゴルバチョフの書記長就任に遡ります。彼が進めたペレストロイカ(再建)、グラスノスチ(情報公開)と新思考外交が鉄のカーテンを崩壊させました。

1946年にチャーチルが演説で「鉄のカーテン」と言ってから43年後の1989年に、ベルリンの壁が崩壊するのですが、鉄のカーテンに綻びが生じるのはそれより少し前です。

米国フルトン市で演説するチャーチル

ハンガリーで1988年に国外旅行が自由化され、無用の長物となったオーストリアとの間にある有刺鉄線の国境柵を、1989年5月に撤去します。ゴルバチョフはこの国境柵の撤去に暗黙の了解を与えていました。

国境に設置されていた鉄条網を切断・撤去するハンガリーのホルン外相と、オーストリアのモック外相

その結果、大勢の東ドイツ市民がチェコスロバキアからハンガリー経由でオーストリアに出国し、西ドイツに亡命します。


改革に後ろ向きだった東ドイツのホーネッカーは、ゴルバチョフに抗議するのですが、ゴルバチョフは無視します。この鉄のカーテンの綻びが始まりとなり、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊します。

ゴルバチョフとホーネッカー

東西冷戦の代名詞だったベルリンの壁が崩壊した事から、1か月後の1989年12月3日、米国のブッシュ(父)大統領とゴルバチョフがマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言します。

マルタ会談のブッシュ(父)とゴルバチョフ

ちなみに冷戦の始まりは1945年2月にルーズベルト、チャーチルとスターリンが会談したヤルタ会談と言われていますが、ヤルタ会談の直前にルーズベルトとチャーチルが下打ち合わせをしたのもマルタ島でした。

マルタ島で打ち合わせるルーズベルトとチャーチル

ヤルタ会談

多くの人々は東西ドイツ統一には時間がかかると考えていましたが、事態は驚くべきスピードで進み、壁崩壊の翌年1990年10月3日に、東ドイツの5州を復活しそれを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる方式で、東西ドイツは統一されます。

西ドイツの再軍備およびNATO加入に対抗して、1955年にソ連が作ったワルシャワ条約機構は、東ドイツをメンバーとしていました。米国のベーカー国務長官が1990年2月9日、ゴルバチョフと会談した際、NATOを「東方へは1インチたりとも」拡大しないと言いました。ドイツ再統一に対するソ連の同意を得る為には、ソ連の安全保障に配慮する事を示す必要があったのです。

ベーカー国務長官と談笑するゴルバチョフ

しかし、ドイツ再統一に関して東西ドイツ、米国、英国、仏、ソ連の6カ国外相が調印した「最終解決条約」では、NATO軍が東ドイツ地域に配備されない事が規定されているだけで、それ以外の国への不拡大の約束はありません。

ゴルバチョフが何故NATO不拡大の文書化を要求しなかったのかは疑問ですが米欧ソとも当時は和解と希望の雰囲気に満ちていた事を、その答えとして示している有識者もいます。ゴルバチョフは西側諸国で圧倒的な人気を誇っていたし、嫌われたくないからややこしい事を言うのを控えたのかもしれません。

ゴルバチョフは西側諸国では圧倒的な人気だったのですが、ソ連国内では不人気でした。アルコールが経済の生産性と国民の健康を蝕んでいるとして、大々的な「反アルコールキャンペーン」を展開したのも不人気の原因の一つです。

ワルシャワ条約機構は1991年3月に軍事機構を廃止、7月1日に正式解散するのですが、一方のNATOは現在まで存続しています。ワルシャワ条約機構を解散する条件として、NATO解散を要求すれば無くなったかもしれませんが、鉄のカーテンが消滅してワルシャワ条約機構が自壊したので、NATO側には解散する理由が無かったのではないかと思います。

ワルシャワ条約機構解散直後の8月19日にモスクワでクーデターが勃発します。8月20日に新連邦条約の正式調印が予定されていました。ゴルバチョフは、形式的には連邦制ですが実際には中央集権体制だったソ連を、より緩やかな国家連合へと再編することで、崩壊の過程をたどっていた連邦を維持しようとしたのですがこの新連邦条約に反対する保守派が、正式調印を阻止する為にクーデターを起こしたのです。ところが杜撰な計画のクーデターは、たった二日で失敗に終わります。


記者会見するクーデター首謀者たち

ホワイトハウス(ロシア共和国最高会議ビル)に立てこもり、寝返ってホワイトハウスの護衛についた戦車の上に立って演説したエリツィンは人気を決定的なものにします。一方で、クーデターの首謀者たちがゴルバチョフの側近だったため、ゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼は失墜します。皮肉な事に、このクーデター未遂事件が却ってソ連の完全な崩壊に繋がる結果となるのです。8月20日に新連邦条約の正式調印が為されていたら、今の世界はまた違った様相を見せていたかもしれません。

ホワイトハウス前で戦車の上に立って演説するエリツィン

私はこのクーデターが勃発した時、駐在していたドイツから出張でハンガリーを訪れていました。その数か月前に駐留ソ連軍がハンガリーから撤退したばかりだったので、ハンガリーの人々は、またソ連軍が戻って来るのではないかと戦々恐々でした。1956年のハンガリー動乱の時のように、またソ連の戦車が民主化を踏み潰すのではないかと恐れたのです。この時、私は東欧の人々のロシア(ソ連)に対する恐怖心を、肌で感じました。

クーデター未遂事件で影響力を失ったゴルバチョフは、ソ連存続の努力も空しく、エリツィンに押しまくられて、ソ連崩壊と同時に表舞台から退場します。

1991年12月25日テレビを通じて退任の演説をするゴルバチョフ

エリツィンは政敵だったゴルバチョフを退場させる最も手っ取り早い方法としてソ連崩壊を推進したのです。エリツィンはゴルバチョフと対立した結果、ソ連共産党の中では冷や飯を食っていました。その為、1990年にロシア共和国の大統領になると、ソ連共産党を離党したのです。エリツィンの個人的な恨みと思惑が、ソ連を崩壊させる事になりました。

クーデター後、共産党を禁止する条約に調印するゴルバチョフと、拍手で見守るエリツィン

ワルシャワ条約機構解散後も生き残ったNATOですが、米国を含むNATO諸国は当初、NATOの拡大を支持していなかったようです。NATOの結束力が弱まるとか、加盟国が増えると政策決定過程が煩雑で長くなるといった理由が挙げられました。ロシアへの配慮もあったようです。

NATOは拡大の代替案として「平和のためのパートナーシップ(Partnership for Peace:PfP)」なる仕組みを考え出し、旧ソ連東欧諸国に提示します。ワルシャワ条約機構の旧ソ連東欧諸国がまとまって、NATOと緩い協議体を作るというものです。PfPを結んでもNATO加盟国になるわけではありませんが、仲間になることを意味しました。エリツィンは、これでNATOとの関係は安定し、ロシアの面子も救われると考え、この構想を全面的に支持しました。NATOは1994年1月、ブリュッセルでの首脳会議でPfPの創設を決めます。

しかし、東欧諸国はその後もNATO加盟に拘りました。ハンガリー動乱やプラハの春のトラウマです。ややこしいのは、米国に東欧からの移民とその子孫が多くおり、彼らが東欧のNATO加盟を推進した事です。ちなみにクリントン政権で国務長官を務めたオルブライトはチェコ出身のユダヤ人で、現在の国務長官のブリンケンは、母親がハンガリー系ユダヤ人、父親がウクライナ系ユダヤ人です。

オルブライト

ブリンケン

米国の大統領は1993年に、共和党のブッシュ(父)から民主党のクリントンに代わっていました。米国ユダヤ人委員会は民主党の強力な支持母体です。クリントンは東欧移民のプレッシャーの下、言を翻します。

1994年12月にブダペストで開催された全欧安保協力会議(CSCE:Conference on Security and Cooperation in Europe)首脳会議の席上、クリントンは「NATOが欧州安全保障の中核であり、どの国の加盟も排除しないし、どの国もそれを止める拒否権を持たない」と言い、それに対してエリツィンは「NATOの範囲をロシアとの国境まで広げる事は重大な間違いだ」と食ってかかりました。しかし当時のロシアは混乱の極みで、米国の為すがまま泣き寝入りするしかありませんでした。

クリントンはロシアを宥める為に、1997年にNATO・ロシア評議会を設置しますが、何も決定権のないまやかしでした。

ロシアの強い不満を受けて、NATO・ロシア評議会は2002年にNATO・ロシア理事会に衣替えします。形式的にはNATOの最高政策決定機関となり、ロシアはNATOの他の加盟国と対等のパートナーとなるのですが、NATOの集団安全保障問題やNATO拡大問題など、NATOの戦略上の最重要問題については、従来通りロシアを除いたNATO理事会で討議されました。


またクリントンはこれもロシアを宥める為の手段として、ロシアをG7に加えてG8としました。ロシアは加入当初は経済破綻で貧困状態であった為に先進国とは言い難かったので、会議の名称を「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に変更しました。

2014年のロシアのクリミア併合の後、G7は「ロシアが態度を改め、G8に於いて意味ある議論を行う環境に戻るまで、G8への参加を停止する」という内容のハーグ宣言を発表します。

米国の対露外交の専門家の多くは、NATO拡大に反対していました。ジョージ・ケナンは「NATO拡大の決定は、ロシアのナショナリズム、反西側的で軍国主義的な傾向を掻き立て、ロシアの民主化を妨げるだろう。東西間には冷戦的雰囲気が戻り、ロシアは米国に逆らう外交をするようになるだろう」と言っていました。

ジョージ・ケナン

現CIA長官のバーンズは2005~2008年の間、駐露米国大使だったのですが、彼も「NATO東方拡大は、良く言っても時期尚早、悪く言えば挑発的」と言っていました。

バーンズ現CIA長官

「ロシアの軍事力に対する抑止」を唱える共和党内のネオコン派のグループにも、NATO拡大は支持されました。

クリントンは、フランシス・フクヤマが当時述べた「歴史の終わり」のような考えに与して、東欧諸国をNATOに組み入れながらロシアに民主主義と市場経済を広めようとしていたのですが、結果的にはジョージ・ケナンの予想が当たってしまいました。

フランシス・フクヤマ

NATOは1997年7月にマドリッドで開いた首脳会議で、チェコ、ハンガリー、ポーランドの加盟を承認、これら3カ国は1999年4月に加盟します。2004年3月にはバルト三国とブルガリア、ルーマニア、スロバキア、およびスロベニアが加盟、その後、アルバニア、クロアチア、モンテネグロと北マケドニアが加盟し、加盟国は現在30カ国です。

ソ連の衛星国であった東欧の国々が雪崩を打ってNATO加盟に走るのは、ロシアの身から出た錆ではあるのですが、米国ももう少しロシアのプライドを考えてあげても良かったのではないかと思います。

ところが米国は更に追い打ちをかけます。今のところNATOに加盟した旧ソ連の国はバルト3国だけで、その他は東欧の衛星国です。バルト3国はソ連とナチスドイツの間で締結された独ソ不可侵条約に付帯された秘密議定書に基づいてソ連が併合した地域ですので、その他の旧ソ連諸国とは若干位置付けが違います。

ところが2008年にブカレストで開催されたNATO首脳会議の席上、米国のブッシュ(子)大統領がウクライナとグルジアのNATO加盟を提案します。首脳会議ではウクライナ、グルジア両国はNATO加盟を申請する資格があるという事で合意するのですが、ドイツとフランスは、ロシアから無用な反発を買う等の可能性があるとして、ウクライナ、グルジア両国のNATO加盟には反対する姿勢を示し、両国の加盟につながる「加盟行動計画(MAP)」は承認されませんでした。

ロシアも革命前は普通の欧州の国だったのですから、欧米が手を差し伸べていれば、今頃はロシアもNATOとEUに加盟していたかもしれません。ゴルバチョフは1987年7月にフランスのストラスブールで開催された欧州会議議会で「欧州共通の家構想」を提唱しました。軍事同盟・経済同盟によって対立が続いていた東西ヨーロッパの分断状況を克服し、ヨーロッパに統一された一つの共同体(共通の家)をつくるべきであると主張したのです。今は残念ながらロシアを除く共通の家になっています。

ストラスブールで演説するゴルバチョフ

2日でキエフ無血開城という甘い見通しでウクライナに侵攻したプーチンは、取り返しがつかない失敗をしてしまいました。米国に対して言いたい事は山ほどあったでしょうが、今となってはロシアのウクライナ侵攻を支持する国は殆どありません。一方で、ロシアを支持しないから米国を支持するかと言うと、多くの国が米国にも"?"を出しているようにも思います。

PwCが2006年に作った用語にE7(Emerging 7)というのがあります。主要な新興経済国として中国、インド、ブラジル、トルコ、ロシア、メキシコ、インドネシアの7か国を指す言葉です。G7とE7に韓国、アルゼンチン、オーストラリア、サウジアラビア、南アフリカを加えるとG20になります。今このE7が米国のロシアに対する制裁に異を唱えています。


そのインドの態度を見て、極東国際軍事裁判で「裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しない」として被告の全員無罪を主張したパル判事を思い出してしまうのは、私だけでしょうか。

パル判事

人権理事会からロシアを追放する国連総会決議では、賛成93カ国に対し、棄権・反対が82カ国にのぼりました。ロシアのウクライナ侵攻を擁護する訳ではないけれども、一方で米国(またはアングロサクソン)の価値観の押し付けに異を唱える国が増えているのかもしれません。

さて今回の、ベルリンの壁崩壊から2014年のロシアのクリミア併合までの振り返りはここまでです。2014年のロシアのクリミア併合から2022年のウクライナ侵攻に至るまでの経緯については、また機会を改めて考えてみたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/YeeciUENQ8I


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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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