オリガルヒ列伝 ー ロシアの新興財閥 ー Once upon a time in Russia

25/04/2022

ロシア

t f B! P L

今回は、ロシアのオリガルヒについてお話ししたいと思います。

*参考資料:プーチン(池田元博)新潮新書

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/0X8GkRRsCtU

オリガルヒの語源は寡頭制を意味するギリシャ語(オリガルヒス) λιγάρχης (oligárkhēs) です。寡頭制とは全部または大半の政治権力を、特定の少数の人々が握っている政体の事です。この語源からも分かる通り、オリガルヒは政権と深く結びついた大富豪です。

プーチンは2003年の記者会見の中で「オリガルヒとは、略奪したカネを元手に、行政府との特別なパイプを使って、更に国の富を略奪する人」と言っています。オリガルヒは「旧ソ連諸国の資本主義化(主に国有企業の民営化)の過程で形成された政治的影響力を有する新興財閥」と定義されるのですが、今回は旧ソ連諸国の中でもロシアに限定してお話しします。2014年のマイダン革命でウクライナの大統領となったポロシェンコも、ウクライナのオリガルヒですが、今回は対象としていません。

まずはオリガルヒが形成された過程についてお話しします。定義のところでお話しした通り、オリガルヒが出て来た背景にはソ連崩壊後、エリツィン時代初期の急進的経済改革があります。エリツィンは圧倒的な人気を背景に、既存の権力構造を破壊しまくったのですが、破壊した後の新生ロシアの国造りについて青写真を持っていた訳ではありませんでした。

この点は評価が分かれるところかもしれませんが、徹底的に破壊せずに少しずつ改善する戦略を取ったウズベキスタンの現状を見ると、私はこの"いったん徹底的に破壊する"というやり方が結果的に良かったような気がします。

ただしエリツィン自身では国造りが出来ないので、エゴール・ガイダルに経済再生の舵取りを委ねます。エゴール・ガイダル(当時35歳)は1990年に移行期経済問題研究所を設立し所長に就任していました。

エゴール・ガイダル

この時"ガイダル・チーム"として一緒に経済再生に参画したのが、アナトリー・チュバイスとピョートル・アベンです。

アナトリー・チュバイス(左)とピョートル・アベン(右)

チュバイスは最近、ウクライナ侵攻に対する抗議として国際機関担当の大統領特別代表を辞任しました。チュバイスは辞任直後にロシアを出国し、戻るつもりは無いという事です。「チュバイスがロシアを出たのは、自分の身と資産を守る為でしかない」という人もいます。

ピョートル・アベンはその後、オリガルヒの一人であるミハイル・フリードマンとともに、アルファ・バンクを中心とするアルファグループの経営に参画して、1996年の大統領選挙でエリツィンを再選に導く、オリガルヒ7人衆の一人になるのですが、このあたりの詳細は追ってお話しします。

ピョートル・アベン(左)とミハイル・フリードマン(右)

話を戻すと、ガイダル・チームは1991年11月にエリツィンの指名を受けて、社会主義体制下での国家管理経済システムを、資本主義に基づく市場主義経済システムへ転換させるという、「壮大な実験」の執行役となります。

1992年1月2日、ガイダル改革第一弾の価格自由化が始まります。パンや牛乳、乳製品、砂糖、光熱費やガソリン代など市民生活への影響度が高い基礎物資・サービスを除き全ての価格統制が撤廃されました。国家統制を残した商品・サービスの価格も3~5倍程度に引き上げられました。

私がモスクワに住んでいた2008年から2014年の時期でも、まだ国家統制の名残があったようで、スーパーマーケットではパンの値段だけが異様に低くなっていました。いつも行っていたスーパーはフランス資本だったため、格安のバゲットやクロワッサンが美味しくて、大変お得でした。

ソ連時代末期はモノ不足で、何を買うにも行列だったのですが、価格自由化の効果で、商店や市場にモノが出回るようになりました。当然ながら物価は急激に上がり、最初の一か月で4~5倍になりました。これは経済学者で組成されたガイダル・チームとしては想定の範囲内で、価格自由化と同時に、ハイパーインフレを避ける目的で、超緊縮財政の施行、通貨供給量の抑制、ルーブルの外貨交換比率の段階的適正化などを実施しました。ところがこれらの施策は痛みを伴う為、ガイダル・チームは政権内外から攻撃される事となります。

ガイダル・チームを攻撃したルツコイ副大統領(左)とハズブラトフ最高会議議長(右)

ガイダル・チームは議会などからの圧力で、中途半端に妥協を繰り返し、ハイパーインフレと急激なルーブル下落を招いてしまいます。

ところがこの経済混乱を歓迎する人達がいました。商機をつかむことに長けた一部の人々は、この経済混乱を利用して資本を蓄積しました。彼らの多くはユダヤ人でした。ちなみにガイダル・チームのアナトリー・チュバイスとピョートル・アベンもユダヤ人です。

それまで国営企業しか無かったソ連では、崩壊の少し前から金融業を民間に開放していました。ところがその時点では、金融業を監督する法律が全く無かったので、だれでも勝手に銀行業や保険業を始める事が出来ました。なので、会社形態ですらない個人事業の銀行、保険などが雨後の竹の子のように出来ました。監督官庁も銀行法も保険法も無いので、免許も必要なかったのです。そんな銀行(実態は小規模な両替商)は、外貨とルーブルの鞘取りが主要業務だったのですが、ルーブルが急落する中で大きな利益を得ます。その資金を、超インフレ下で政府が発行する超高利回り国債に投資して、更に利益を上げて行きます。

一方で、価格自由化と並ぶガイダル改革のもう一つのテーマは国営企業の民営化でした。民営化を通じて生産性を向上させ、同業者間の競争原理を導入して市場経済化を達成しようとした訳です。問題は、日本で国鉄、専売公社、電電公社、郵便局などを一つずつ民営化するだけでも膨大な労力が必要だったのに、数万社に上るロシアの国営企業を一気に民営化してしまった事です。

中堅中小企業は、バウチャー(民営化小切手)方式というやり方で全国民に分配されました。この方法で1992年中に4万6千社以上が民営化されたそうです。

一方で大手国営企業はそんな簡単な方法で民営化する事が出来ず、時間だけが過ぎて行きました。また経済混乱の中で国家の財政破綻の危機が迫ってきました。この時、民営化を担当していたチュバイスは妙案を思いつきます。国営企業の株式を担保にして、民間銀行などによる入札方式で国が低利融資を受けるという手法です。この手法を使った入札は主に、1995年から1996年にかけて実施されました。

経済混乱に乗じて資金をため込んでいた民間銀行は、先を争って応札しました。財政危機の国が融資資金を返済する可能性はゼロに近いので、担保の国営企業を手に入れられるからです。このような状態で、石油、ガス、鉄鋼、非鉄金属などの巨大国営企業が、どんどん民間銀行のものになりました。これがオリガルヒの始まりです。

ちなみにプーチン政権下で訴追され、シベリアの刑務所に収監されたホドルコフスキーが、石油会社ユーコスの株式の78%を取得する為に支払ったのは、3億5千万ドルだったそうです。ユーコスの株式時価総額は、2003年のピーク時には300億ドルを超えていました。

ミハイル・ホドルコフスキー

このようにして少数の資本家がロシアの国有財産の殆どを山分けしてしまったのです。しかも現在と同様に当時のロシアも汚職が蔓延していましたから、融資の入札でも不正が横行していました。

オリガルヒ達にとっての次のチャンスは、1996年の大統領選挙でした。ソ連崩壊後の混乱の中でエリツィンの人気は地に落ち、1996年の大統領選挙での再選は絶望的でした。最有力候補は、複数政党の一つとして生き残った共産党の委員長、ジュガノフです。

ジュガノフ共産党委員長

この時にエリツィンに手を差し伸べたのが、オリガルヒの面々です。エリツィンが生み出した混乱をうまく利用して財を成した彼等にとって、共産党への回帰はなんとしても避けたいところでした。エリツィンと利害が一致したオリガルヒ達は、潤沢な選挙資金と巧みなキャンペーンで、エリツィンを再選に導きます。

エリツィン(左)とボリス・ベレゾフスキー(右)

エリツィン陣営の戦略は「共産党が政権を取る事によって、以前の不自由な体制に戻っても良いのですか?」というネガティブキャンペーンを張る事でした。ぎりぎりのところでエリツィンは再選を果たし、支援したオリガルヒ達はファミリーを形成して、ロシア経済を牛耳って行きます。いわゆるクローニー(縁故)資本主義です。

このファミリーは当初、7人のオリガルヒで構成されていました。ここからは個々のオリガルヒについてお話ししたいと思います。エリツィン再選をサポートした7人衆の筆頭格はボリス・ベレゾフスキーでした。ベレゾフスキーは1946年モスクワ生まれのユダヤ人です。

応用数学者として管理研究所に勤務していましたが、1989年43歳の時にビジネス界に転身して自動車販売会社「ロゴバス」を設立します。ベレゾフスキーは7人衆の中で唯一、銀行業以外からスタートしたオリガルヒです。但しやっていた事は銀行業と同じ「鞘取り」でした。ロゴバスは国の輸出奨励政策を利用し、国内最大手の自動車メーカーであるアフトバズから輸出用の国産車を格安で大量に仕入れ、それを輸出せずに、インフレの進行で価格が上昇した段階で売却することで多くの利益を上げました。銀行が外貨を使って鞘取りする代わりに、自動車で同じ事をしていた訳です。

以前の投稿「現在のロシアの製造業とソ連時代の計画経済」でお話しした通り、アフトバズは現在はフランスのルノーの子会社になっています。

ロシアにおいては自動車販売はマフィアとの繋がりが強い業界なので、オリガルヒもなかなか手出しをしにくかったのですが、ベレゾフスキーのみが、自動車販売で多額の利益を上げる事が可能だったのは、マフィアとの繋がりを持っていたからだと考えられています。

ロシア最大と言われるマフィアは「ソンツェボ・マフィア」なのですが、その名前はモスクワ郊外の地名に由来します。私はモスクワに赴任した2008年に、仕事でソンツェボの近くにある巨大な自動車ディーラーを訪問しました。10年以上前は更地に車を並べて販売していたとの事でしたが、訪問した時には、巨大な建物が仕切られて、12ブランドのディーラーが入居していました。

オーナーは一人で、その下に3人の General Director がおり、面談したのはその3人のうちの一人でした。ロバート・デ・ニーロ主演の映画「恋に落ちたら」でマフィアを演じるビル・マーレイに似た感じの30代後半ぐらいの人物で、クリーム色に太いストライプが入ったスーツの上下で、ノータイのシャツの第3ボタンまで開けていました。当時のロシアの自動車ディーラーは、殆どがマフィアの所有だったのです。

ベレゾフスキーは、自動車販売で稼いだ金を使って民営化された大企業の株をどんどん買いました。併せてテレビ局、新聞などのマスコミも買収して傘下に収めました。

オリガルヒ7人衆の二人目はウラジーミル・グシンスキーです。グシンスキーは1952年モスクワ生まれのユダヤ人です。もともとは演劇青年だったのですが、1988年西側企業のソ連進出を支援するビジネスを開始し、1991年にモスト(ブリッジ)・バンクを設立、モスクワ市長のルシコフのサポートを得て事業を拡大します。

ウラジーミル・グシンスキー

グシンスキーはルシコフの庇護の下でテレビ局、新聞、週刊誌などを展開し、メディア王と言われるようになります。ベレゾフスキーとグシンスキーが持つマスコミが、エリツィンの大統領再選に力を発揮しました。

ベレゾフスキーとグシンスキーは、エリツィンが引退してプーチンが大統領に就任すると、亡命してしまいます。プーチンは大統領に就任した後、ファミリーメンバーのオリガルヒ達に踏み絵を踏ませました。大統領である自分に忠誠を誓う事を求めたのです。プーチンはもともと、ファミリーメンバーのオリガルヒ達が自分達に都合が良いエリツィンの後継者と考えて指名した人物です。オリガルヒ達にしてみれば、プーチンのそういった行動は裏切りに他ならず、はらわたが煮えくり返る思いだったでしょう。

そこで忠誠を誓う事を拒否したベレゾフスキーとグシンスキーの2名は、海外に亡命したのです。流石のプーチンも恩義を感じていたのか、この両名の亡命は見逃しています。

但し英国に亡命後、プーチンに対する批判を続けたベレゾフスキーは、2013年に英国で自殺により死亡しています。イギリス警察当局は当初他殺を疑ったようですが、証拠が出ず、一応死因は"自殺"という事になっています。

グシンスキーは亡命先のスペインで存命のようです。

一方で、いったんは忠誠を誓ったのにその後裏切ったホドルコフスキーは、2003年10月に逮捕され、シベリア送りとなります。という事で、次はミハイル・ホドルコフスキーです。ホドルコフスキーは1963年モスクワ生まれのユダヤ人です。モスクワ化学工科大学卒業後、コムソモール(共産党青年団)の書記をしていたのですが、1988年科学技術進歩商業革新銀行(その後バンク・メナテップと改称)を設立して資金を蓄えます。

ミハイル・ホドルコフスキー

バンク・メナテップ

その資金を使って多くの企業買収を進める中で、石油会社ユーコスを手に入れます。ユーコスはロシア最大の石油会社に成長するのですが、2003年10月にホドルコフスキーは脱税及び横領容疑により逮捕されます。ホドルコフスキーは一旦プーチンに忠誠を誓っていたのに、政権批判をしたり野党に献金したりしたので、プーチンの制裁を受けたのです。

ちなみに映画"ボーン・スプレマシー"で悪役として登場するペコス石油のCEOグレツコフは、ホドルコフスキーがモデルです。


ペコス石油のCEOグレツコフ

当時欧米では、ホドルコフスキーに対するロシア政府の人権侵害を問題視していたのですが、"ボーン・スプレマシー"ではモスクワ市内のカーチェイスのシーンなどがあり、ロケの許可を得る為にそのような設定をしたものと思われます。


ホドルコフスキーはシベリアの刑務所で服役するのですが、その後、なんらかの手打ちをしたようで、2013年12月に恩赦となり、現在は英国で暮らしています。この恩赦にはドイツも関与しているようです。

7人衆の残りの4人のオリガルヒは、ウラジーミル・ポターニン(1961年生まれのロシア人)、ミハイル・フリードマン(1964年生まれのユダヤ人)アレクサンドル・スモレンスキー(1954年生まれのユダヤ人)と、ガイダル・チームのピョートル・アベン(1955年生まれのユダヤ人)です。

ウラジーミル・ポターニン

アレクサンドル・スモレンスキー

ピョートル・アベン(左)とミハイル・フリードマン(右)

この4人はプーチンに逆らわなかった為、制裁は受けていません。7人衆の中でユダヤ人でないのはポターニンだけです。残りの4人のうちスモレンスキーは1998年のロシア金融危機で事業の中心だったアグロプロムバンクが破綻して失脚しますが、その他の3人は現在も健在で、2022年版フォーブスのロシア資産家リストでは、ポターニンは1位、フリードマンは9位になっています。

ポターニンの事業の中心はニッケル・パラジウムの生産において世界最大手の「ノリリスクニッケル」なのですが、彼のビジネスパートナーであったもう一人のオリガルヒであるミハイル・プロホロフが大変ユニークです。プロホロフは1965年生まれのユダヤ人なのですが、彼が一躍有名になったのは2007年のスキャンダルです。

ミハイル・プロホロフ

フランスのリゾート地クールシュヴェルで現地警察に拘束されたのですが、容疑は彼や彼の友人が同行してきた「16人の女性」の売春斡旋でした。4日後に誤解が解けて釈放され、また女性たちはコールガールではなかったという事なのですが、いずれにしても健全なパーティーでなかったのは間違いないようです。

私が勤務していたロシア企業の若いロシア人の同僚は、そのような男女のパーティーを指して「クールシュヴェル・パーティー」と言っていました。

ポターニンはプロホロフのこのスキャンダルに激怒して、ビジネスパートナーシップを解消します。グループ事業を切り分ける中で、最大の企業であるノリリスクニッケルの持ち分をポターニンが買い取るのですが、その直後にリーマンショックが起こり、ノリリスクニッケルの株価も暴落します。なので結果的にプロホロフはリーマンショックの被害を免れ、2010年のフォーブスのランキングではロシアで2位になっています。

プロホロフはそれ以外にも、米国NBAのプロ・バスケットボールチーム「ブルックリン・ネッツ」を買収したり、2012年ロシア大統領選挙に立候補したりと、好き勝手なことを自由にやっている印象です。


7人衆には含まれなかった有力なオリガルヒに、ロマン・アブラモビッチ(1966年生まれのユダヤ人)とオレグ・デリパスカ(1968年生まれのユダヤ人)がいます。

オレグ・デリパスカ(左)とロマン・アブラモビッチ(右)

アブラモビッチはベレゾフスキーのビジネスパートナーだったのですが、プーチンとは良好な関係を維持し、制裁を受ける事はありませんでした。あまり表に出ないタイプだったのですが、2003年7月にイングランドのサッカークラブのチェルシーを買収して、世界的に有名になりました。

また2010年には世界最大級のスーパーヨット「エクリプス」を購入しています。エクリプスは全長163mで、ヘリコプター発着場2カ所と2つのプール、映画館、ディスコ、小型潜水艇、さらにはミサイル防衛装置まで装備しています。ヨットと言うより豪華客船兼駆逐艦という感じですね。

デリパスカは1993年モスクワ大学物理学部を卒業すると、アルミニウム関連の仲介会社を設立します。デリパスカも数少ない、銀行以外の事業からスタートしたオリガルヒです。2001年に急激に拡大した事業を統括する資産管理会社ベーシック・エレメント社を設立すると、デリパスカが事業を起こした直後から関りが深かった伊藤忠は、デリパスカと全方位で協業を進める方針を決定し、当時の丹羽社長の命を受けた事業部門長達がベーシック・エレメント社の役員達と打ち合わせを重ねたのですが、60歳前後の事業部門長達が相対したのは、ベーシック・エレメント社の30代の女性社長以下、20代から30代の若いロシア人達だったそうです。

ところが、デリパスカは2008年のリーマンショックで160億ドルの損失を出し、傘下企業の一時操業停止や資産切り売りに追い込まれます。2009年6月4日、ロシア北部の工業都市ピカリョボにある、デリパスカが所有するベーゼル・セメントを含む3つの工場が操業停止に追い込まれ、解雇された労働者が主要な高速道路を封鎖するなどの労働争議が発生します。

この時、プーチンが労働争議中の会社を訪れ「企業の社会的責任はどこへ行った」「野心や欲深さのために人々を犠牲にした」などとデリパスカを厳しく叱責し、デリパスカにペンを投げつけて、操業再開の合意文書に署名させるのですが、その様子がテレビのニュースでロシア全土に流れます。

デリパスカは2010年に事業の中心であるアルミニウム会社ルサールを香港証券取引所で上場し、危機を脱します。

さて今回の、ロシアのオリガルヒについてのお話はここまでです。今回はソ連崩壊後の比較的早い段階でオリガルヒとなった人々に絞ってお話ししました。ソ連崩壊後の混沌の中で、若者たちは自身の才覚一つで、危ない橋を渡りながら事業を拡大し財を成しました。今回お話ししたオリガルヒ達は夫々が、強烈な個性を持っています。彼らは決して善人とは言えず、どちらかと言えば悪党だと思いますが、一方でロマンを感じさせる魅力的な面々だと感じます。如何でしょうか。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/0X8GkRRsCtU

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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