今回は、ドイツとロシアの特別な関係についてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
私がこの特別な関係に気付いたのは、2008年にモスクワでドイツ企業のロシア現地法人社長(ドイツ人)と話した時です。そのドイツ企業はベルリンの壁が崩壊した直後の1990年に、ロシアに子会社を設立していました。私の勤めていた日本企業は2007年になって漸く、ロシアに進出すべきかどうか検討開始していたのですが、私がそのロシア現法社長と話して判ったのは、そのドイツ企業は"ロシアに進出すべきかどうか"という検討は殆どせずに、ベルリンの壁崩壊直後からロシア進出を既定路線としていたという事です。
これは、日本企業が中国に進出した際の状況と同じです。鄧小平が1978年に改革開放路線を打ち出すと、日本企業はこぞって中国に進出しました。
多くの企業ではその際に"中国に進出すべきかどうか"という検討は殆ど為されず、進出ありきで雪崩を打って進出したのです。私が勤めていた会社の社長は、戦前に満鉄で勤務していた人物であった為か、中国への思い入れが強く、中国進出プロジェクトは社長直轄になっていました。ベルリンの壁崩壊以降のドイツ企業のロシア進出は、改革開放以降に中国進出した日本企業と同じでした。
以前の投稿「ソ連崩壊の瞬間、モスクワの街にはビートルズが流れていた」でお話しした通り、私は1991年12月に出張でモスクワを訪れたのですが、その際に見た、赤の広場に隣接した名門デパート"グム"の壁面には、ドイツの大手デパートチェーン"カールシュタット"の大きな看板が掛かっており、あまりに素早い進出に驚いたものです。
その出張はドイツのデュッセルドルフから行ったのですが、使ったのはルフトハンザの直行便でした。ドイツのハブ空港はフランクフルトで、デュッセルドルフは地方空港に過ぎないのですが、ルフトハンザは1991年当時既に、地方空港であるデュッセルドルフからモスクワに、毎日直行便を飛ばしていました。
ちなみに私がモスクワに赴任した2008年になっても、成田からモスクワへ直行便を飛ばしていた日本の航空会社はJALのみで、しかも毎日ではなく週3便でした。ANAは飛んでいませんでした。当然成田以外の空港からモスクワへの直行便はありませんでした。こういった事からも、ドイツとロシアの関係の深さが伺えます。
ドイツとロシアの深い関係の始まりは、ロマノフ朝第2代のロシア皇帝、エカテリーナ1世だと思います。ロマノフ朝は、862年から1598年まで続いたリューリク朝の後、大動乱期を経て1613年にミハイル・ロマノフによって興された王朝です。ロマノフ朝の最後の皇帝ニコライ2世が1917年にロシア革命によって皇帝の座を追われるまで続きました。
エカテリーナ1世は、ミハイル・ロマノフの孫にあたる、ロシア帝国の礎を築いたピョートル1世(大帝)の2人目の妻です。最初の妻エヴドキヤ・フョードロヴナ・ロプーヒナは、ピョートル1世によって離縁されてノヴォデヴィチ修道院に幽閉されました。ピョートル1世は16歳の時に母親の勧めで政略結婚したのですが、好きになれなかったようです。
もともとロシアでは国家元首の称号として"ツァーリ"がありました。スウェーデンとの大北方戦争に勝利して祝賀ムードが高まる中、ロマノフ朝のツァーリであったピョートル1世は元老院から「インペラートル(皇帝)」の称号を認められました。ピョートル1世以降は、ツァーリとインペラートルの二つの称号を使います。なので、ピョートル1世はロマノフ朝における3代目のツァーリであると同時に、初代皇帝なのです。
エカテリーナ1世は、マルタという名のリヴォニア(現在のラトビアとエストニア)の農民の娘で、両親が病死(おそらく)して孤児になり、バルト・ドイツ人牧師の家に引き取られて家族同様に育てられます。バルト・ドイツ人とは、バルト海東岸(現在のラトビアとエストニア)に住んでいたドイツ人です。なので、エカテリーナ1世の母語はドイツ語でした。
マルタは17歳の時にスウェーデン人の竜騎兵と結婚するのですが、ロシアとスウェーデンが戦った大北方戦争の際に、住んでいた場所がロシアに占領されて、捕虜になり、戦利品としてロシア人将軍ボリス・シェレメーテフの家に連れてこられたのです。捕らえられてからはロシア正教に改宗し、名もエカテリーナ・アレクセーエヴナと改めています。
シェレメーテフのところで、ピョートル1世の右腕であった、アレクサンドル・メーンシコフが彼女に目をとめ、召使の一人として連れ帰ります。
このメーンシコフという人物も、かなり変わった経歴の持ち主です。ピョートル1世はその幼少時代、権力争いの中で不遇の少年時代をモスクワで過ごすのですが、近くの外国人村に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んだり、遊戯連隊を編成して戦争ごっこに勤しんだりしていました。貧しい馬丁の子として生まれ饅頭売りをしていたメーンシコフは、この遊戯連隊に参加していた遊び仲間でした。
その後、ピョートル1世が彼女を見染めた事から、メーンシコフは彼女をピョートル1世に献上します。彼女はピョートル1世の寵愛を一身に受け、愛人(女奴隷?)から皇后の座に上り詰めます。
ピョートル1世はスウェーデンとの大北方戦争に勝利すると、占領したネヴァ川の河口にあるデルタ地帯に港湾都市を建設し、自身の名を取ったサンクトペテルブルクと命名して、モスクワから遷都します。
ピョートルはペトロのロシア語形で、サンクトペテルブルクはドイツ語名です。ピョートル1世が何故首都にドイツ語名を付けたのかは、よく判りません。日本の東京を"トンキン"と発音しているようなものです。最愛の妻がドイツ人だったからか、幼少期に外国人村に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んでいたからか。
1725年にピョートル1世が死去すると、メーンシコフの後押しにより、エカテリーナ1世が、ロシア史上最初の女帝として、第2代ロシア皇帝の座につきます。
エカテリーナ1世は生涯にわたりメーンシコフとの親しい関係を保ったそうです。メーンシコフもまた庶民出身(貧しい馬丁の子)だったので、気が合ったみたいですね。
エカテリーナ1世の在位は2年で、彼女が死去した後は、ピョートル1世と先妻の孫にあたるピョートル2世が3年、ピョートル1世の姪にあたるアンナ・イヴァノヴナが10年、アンナ・イヴァノヴナの姉の孫にあたるイヴァン6世が1年、ピョートル1世とエカテリーナ1世の次女であるエリザヴェータ・ペトロヴナが21年在位した後、エリザヴェータの姉の子供であるピョートル3世が第7代皇帝に就きます。
ピョートル3世はピョートル1世とエカテリーナ1世の孫にあたります。
エリザヴェータの姉、アンナ・ペトロヴナはホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒに嫁いでいました。
ホルシュタイン=ゴットルプ家は北ドイツに領地を持つ貴族でした。当時はバルト海に面した地域の王族、貴族が縁戚関係を結ぶのが一般的だったのです。
ピョートル3世(改名前はカール・ペーター・ウルリヒ)は、幼くして両親を失い、11歳でホルシュタイン=ゴットルプ公位を継承します。その2年後、未婚で子供の無い叔母のエリザヴェータがロシア皇帝に就くと、彼女はすぐにカール・ペーター・ウルリヒを養子にします。そこでカール・ペーター・ウルリヒはロシア正教に改宗し、名前もピョートル・フョードロヴィチに改名します。
ピョートル3世は17歳の時に養母エリザヴェータの指示で父方の又従妹と結婚します。これがエカテリーナ2世です。
エカテリーナ2世(改名前はゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ)は、北ドイツの神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグストの娘として生まれます。
ピョートル3世もエカテリーナ2世もドイツ育ちであったため、二人の会話は当然ドイツ語でした。エカテリーナ2世がロシア語を習得し、ロシアの貴族や国民に支持される努力を惜しまなかったのに対して、ピョートル3世はドイツ風にこだわり続け、ドイツ式の兵隊遊びに熱中し、周囲の反感を買い続けました。
この二人は不仲で結婚後も長期間夫婦の関係が無かった為、エカテリーナ2世は公然と愛人を作ります。世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われています。ピョートル3世も愛人を作りました。
結婚から17年後、エリザヴェータ女帝の崩御に伴い、ピョートル3世がロシア皇帝に即位します。ピョートル3世が即位した1762年、ロシアは七年戦争の真っ最中でした。七年戦争とは1756年から1763年まで行われた、初めての世界大戦とも言われる戦争です。英国・プロイセン側とその他の列強(フランス、オーストリア、ロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれて、オスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦していました。
ところがピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していた為、ロシア皇帝に即位するとすぐに、プロイセンと即時講和して、更にプロイセンとの攻守同盟を締結します。
このロシアの手のひら返しによって、敗色濃厚だったプロイセンは息を吹き返します。英国は大陸ヨーロッパへの大規模な派兵を避けて同盟国(プロイセン)に資金援助する、という戦略を取っていたのですが、プロイセンの劣勢を見て「和平交渉で妥協しなければ援助金を打ち切る」と脅かしていました。更にプロイセンは、英国がフランスとの間で単独講和に走った事を裏切りとみなしていました。
ピョートル3世の手のひら返しはロシア国内で軍部の離反を引き起こし、それがクーデターに繋がります。それ以外にも、自身がもともとプロテスタント(ルター派)であった事からロシア正教会を弾圧した事で、ロシア正教会もクーデターを後押しします。更に、もともと不仲だった皇后エカテリーナ2世を廃して、愛人を皇后に据えようとした事から、逆に軍やロシア正教会にエカテリーナ待望論が巻き起こります。
ピョートル3世は即位から半年後にクーデターによってその座を追われ、代わってエカテリーナ2世が第8代ロシア皇帝の座に就きます。彼女はプロイセンとの同盟を終わらせるのですが、反対陣営に戻る事はせずに戦争から手を引きます。
エカテリーナ2世はその後1796年まで34年に亘って皇帝の座にあり、啓蒙君主としてロシアを発展させます。
その次の大戦は第1次世界大戦です。連合国側は英国、フランス、ロシアで、途中から米国、日本、イタリアなども参戦します。中央同盟国側は主にドイツとオーストリア=ハンガリー帝国で、途中からオスマン帝国、ブルガリアなども参戦します。
ロシアは第1次大戦中に革命が勃発しロマノフ王朝が倒れ、最終的にはボリシェヴィキが実権を握るのですが、ドイツはロシア革命勃発直後に、スイスに亡命中だったウラジーミル・レーニンらボリシェヴィキ約30人がスイスからフィンランド経由でロシアに帰国するのを手伝い、併せて大量の資金を提供します。
ボリシェヴィキの思想の基になったマルクス主義を提唱したマルクスとエンゲルスも、共にドイツ人です。
以前の投稿「ロシアのレーニン像」でも触れましたが、モスクワの赤の広場から歩いて5分くらいの"革命広場"には、マルクス像があります。台座にはマルクスの有名な言葉「万国の労働者よ、団結せよ」がロシア語で刻まれています。この言葉はソ連の国是だったのですが、この言葉の初出「共産党宣言」は当然ドイツ語で書かれています。
ロシア革命で政権を奪取したボリシェヴィキ・ソビエト政府は、中央同盟国と講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結び、多くの領土を失って巨額の賠償金を課せられる事になるのですが、その後、中央同盟国の降伏と第一次世界大戦の終結を受けて、ボリシェヴィキ政府は条約を破棄します。
ドイツは降伏した後、ブレスト=リトフスク条約によって獲得した地域から軍を撤退させたので、様々な国がこの空白地帯を占領しようとして草刈り場になります。ソ連はなんとかウクライナを取り返すのですが、失われたその他の領土を完全に回復するのは第2次大戦後になります。
1922年にワイマール共和政ドイツとソ連の間で、破棄されていたブレスト=リトフスク条約に替わるラパッロ条約が締結されます。この条約は、ロシア帝国の債務引継を拒否して国際社会から承認を得られなかったソ連と、敗戦国のドイツ、ヴェルサイユ体制から除外されていた国同士が手を結ぶものでした。
この条約には、ソビエト領内でのドイツ軍の軍事訓練を認める秘密の付属条項がありましたが、これはヴェルサイユ条約の条項に違反する事でした。ドイツはこの秘密条項に基づき、国際監視の届かないソ連領奥地のカザン、リペツクに独自の戦車学校や航空機工場、空軍学校を設けて、ドイツ国内で禁止されていた戦車部隊運用、軍用機訓練・ガス兵器の研究を進め、ドイツ将校のみならずソ連将校も共に教育を受けさせました。これらドイツ軍学校はソ連軍の近代化に大きく貢献しました。
このソ連軍の近代化の成果が表れたのが日本とソ連が戦ったノモンハン事件です。この紛争で、日本はソ連軍の実力を認識します。
しかし猜疑心の強いスターリンはナチスドイツに対する警戒から、1936年から1938年にかけて、赤軍大粛清と言われる大量虐殺を行い、元帥5人のうち3人、軍司令官級15人のうち13人、軍団長級85人のうち62人、師団長級195人中110人、旅団長級406人中220人、大佐級も四分の三が殺されます。前述のソ連領内のドイツ軍学校で訓練・教育を受けたソ連軍将校が、ドイツのスパイになったと考えたのです。この大粛清によるソ連軍の弱体化が、第2次大戦の独ソ戦緒戦での大敗に繋がります。
前述の通りワイマール共和政ドイツとソ連は、国際的に孤立した者同士の蜜月関係にあったのですが、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党の権力掌握後は、これらの関係は断絶状態となります。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は反共を党是としていました。
ところがその後、ドイツはポーランド侵攻の検討を開始します。ドイツとしては、ポーランド侵攻の際にソ連の好意的中立は最低必要条件でした。ソ連はドイツと英仏を両天秤にかけていたのですが、最終的にドイツを選択して1939年に独ソ不可侵条約を締結します。
米国の政治学者のジョージ・ケナンは、スターリンは1937年には既にドイツとの条約締結を決意しており、大粛清は独ソ接近に対する反対派を処分するための手段であった、と考えているようですが、実際は判りません。
公表された条約の内容はごく平凡なものでしたが、それに付帯された秘密議定書で、東欧における独ソの勢力範囲の線引きが画定されていました。東欧をドイツとソ連の勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するというものです。
条約は8月23日に締結され、その9日後の9月1日にドイツはポーランドに侵攻します。
英国とフランスはポーランドとの相互援助条約に基づき、9月3日にドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。ソ連は9月17日に「ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護」を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始します。
独ソ両軍は衝突することもなく、秘密議定書の分割線に従って、その占領域を確定させます。
ここで不思議なのは、英仏がソ連には宣戦布告しなかった事です。まるでその後に独ソが仲違いする事を知っていたかのようです。
独ソ不可侵条約締結時のドイツの外相リッベントロップは、独伊日ソによって英仏に対抗する構想を持っており、これは日本の外相松岡洋右の構想と共通するものでした。
ところがヒトラーは、1940年のイギリス空中戦(バトル・オブ・ブリテン)の失敗により、英国を屈服させるためにはソ連を打倒するほかないと考えるようになります。欧州大陸を完全に征服してからでないと、英国本土上陸作戦は成功しない、と考えたわけです。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦の発動により独ソ国境で一斉にドイツ軍の侵攻が開始されます。
不思議なのは、あんなに猜疑心の強いスターリンが、最後の瞬間までヒトラーを信じていた事です。
事ここに及んで、ソ連は英国と英ソ軍事同盟を締結して連合国側に本格的に参戦します。スターリンが恐れた通りソ連軍は緒戦でボロ負けし、退却に次ぐ退却を余儀なくされます。
ドイツ軍は首都モスクワのクレムリンまであと十数キロメートルの所まで迫りますが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、ソ連軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫します。
ソ連側の死者はソ連兵1470万人、民間人を含むと2000~3000万人にのぼりますが、1945年、ソ連軍がベルリンを陥落させて独ソ戦は終わります。
戦後ソ連はドイツの半分を東ドイツとして、自身の衛星国にしますが、1989年のベルリンの壁崩壊の後、ゴルバチョフはドイツ再統一を認め、西ドイツが東ドイツを吸収する形で再統一が為されます。
プーチン大統領はベルリンの壁が崩壊した時、KGBの職員として東ドイツのドレスデンで勤務していました。
また長い間ドイツの首相の座にあったメルケル首相は、ベルリンの壁が崩壊した時、東ベルリンにある科学アカデミーで物理学者として勤務していました。
このような背景から、プーチン大統領もメルケル首相も、ロシア語とドイツ語が堪能でした。これは私の想像ですが、この二人は通訳を入れずに不自由なく会話していたのではないかと思います。
2014年にロシアがクリミアに侵攻してG8を外れてからも、ドイツとロシアは天然ガスパイプライン、ノルドストリーム2の敷設を進めてきました。ノルドストリーム2は2021年9月に工事が完了し、後はドイツの承認を待って操業開始をするばかりだったのですが、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、ドイツはノルドストリーム2の承認を停止します。但しこれは新しいパイプラインの使用開始を止めただけで、既存のパイプラインは今でも使用されています。
ドイツは輸入する天然ガスの55%をロシアに依存していますから、そう簡単に止める事は出来ないですね。
ドイツからウクライナへの軍事支援も、当初はヘルメットだけにとどまっていましたが(日本と同じ理由です)ロシアの侵攻のエスカレーションを受けて、対戦車砲を1000門、携帯可能な地対空ミサイル「スティンガー」500基を届けると決定しました。
さて今回の、ドイツとロシアの特別な関係についてのお話はここまでです。およそ300年間のドイツとロシアの関りを振り返ってみましたが、複雑に絡み合っているのが、自分でも改めて良く判りました。ドイツとロシアに限らず、欧州大陸の歴史は複雑ですので、単純なアングロサクソンの英米に欧州内の紛争の対応を任せると危ないですね。
ドーバー海峡は、実際の距離(34km)からは信じられないくらい英国と欧州大陸を隔てていると思います。私がロンドンで英国人と話していて驚いたのは、彼が"ヨーロッパ"と言った時に、明らかにそれに英国を含まない趣旨だった事です。
当然日本人にはアングロサクソン以上に、複雑怪奇な欧州の事情は手に負えません。独ソ不可侵条約締結が発表された時、日本は日独同盟締結交渉を行いつつ、ソ連とノモンハンで戦っていたので、平沼騏一郎首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたために同盟交渉を打ち切る」と声明し、責任をとって総辞職しました。
私は偶々ドイツとロシアの両方で駐在の経験があったので、今回はこのような投稿を作ってみました。それではまた。
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