今回は、ロシアのレーニン像についてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
レーニン像及びその他のソ連時代の彫像を全て撤去したのは、ソ連の支配に苦しんでいた東欧の国々でした。レーニン像がソ連支配の象徴となっていたのでしょう。
ハンガリーでは、それらの彫像を一か所に集めて、歴史的遺物として公開しています。
ウクライナでは、レーニン像は最近まで残っていたのですが、2014年のクリミア侵攻の際に、殆ど破壊されました。
一方、ロシアでは今でも多くの場所にレーニン像が設置されています。モスクワでは市内の目立つ場所にある巨大なレーニン像以外に、小さな公園に設置されているものも多くあります。私が住んでいたサービスアパートメントの隣の公園にも、住まいから最寄りの地下鉄駅"1905年駅"のそばの公園にも、比較的小ぶりのレーニン像がありました。
共産主義が否定されて、資本主義に移行したのは間違いないのですが、その過程でレーニンをどう捉え直したのか、私にはよく分かりません。少なくともレーニンのロシア革命を完全否定しているのではなさそうです。
ちなみに地下鉄駅の名前"1905年"は、血の日曜日事件によってロシア第一革命が始まった1905年を記念するものです。
例えば、保存処理されたレーニンの遺体が安置されているレーニン廟は、今でも赤の広場にあります。レーニン廟の撤去についての議論もあるようですが、プーチン大統領が「撤去反対」を表明していますので、当面撤去される事は無さそうです。
かつてはレーニン廟の入り口に衛兵が立って、1時間毎に衛兵交代が行われていたのですが、1997年に衛兵の立つ場所を、クレムリンを挟んだ反対側にある無名戦士の墓に変更しました。無名戦士の墓は、第二次世界大戦で戦死したソビエト連邦の兵士に捧げられた戦争記念建造物です。
ロシア第2の都市レニングラードは、サンクト・ペテルブルクに名称を戻しました。ただしサンクト・ペテルブルクの所在するレニングラード州は、名称を変えていません。サンクト・ペテルブルクはドイツ風の名称なので、第1次大戦中にロシア風のぺトログラードに名称変更し、1924年にレニングラードに名称変更していたのですが、1991年の住民投票の結果、サンクト・ペテルブルクに戻りました。
ちなみにサンクト・ペテルブルクを英語読みすると、セント・ピーターズバーグになります。米国にはセント・ピーターズバーグという町が沢山あるようですが、「聖ペトロの町」という意味ですから、必ずしもロシアに関係あるとは限りません。
不思議なのは、ロシア第2の都市がドイツ風の名称になっている事です。日本の東京を"トンキン"と発音しているようなものです。サンクト・ペテルブルクを建設したピョートル大帝の妃で、ピョートル大帝の死後、跡目を継いで皇帝となった、エカテリーナ1世がラトビアの出身で、ドイツ語を母語としていたのが理由ではないかと思いますが、ロシアとドイツの関係というのは、なかなか理解し難いものがあります。
赤の広場から歩いて5分くらいの"革命広場"には、マルクス像があります。台座にはマルクスの有名な言葉「万国の労働者よ、団結せよ」がロシア語で刻まれています。
ちなみにエンゲルスの像もモスクワ市内の別の場所にあります。
さて、レーニンがソ連のトップに居たのは1922年から1924年までの3年間のみで、その後を継いだスターリンが1953年に死去するまで29年の長きに渡ってトップにいたのと対照的です。スターリンは死後、遺体を保存処理されて一旦レーニン廟に収められるのですが、後継のフルシチョフによる「スターリン批判」の結果、遺体はレーニン廟から撤去されて、その右側に埋葬されました。これは1ランクダウンではあるのですが、その場所に埋葬されているのはたった12人で、第一級の政治家と認められた人々です。
歴代最高指導者は原則、レーニン廟の右側に埋葬されるのですが、失脚したフルシチョフは赤の広場の他の墓所(クレムリンの壁と英雄墓地)にすら埋葬されず、ノヴォデーヴィチ修道院付属墓地に埋葬されています。
ノヴォデーヴィチイ修道院付属墓地のフルシチョフの墓なお、ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいます。私は、資本主義の"自己責任"に疲れた大衆が、ソ連時代にノスタルジーを感じているからだと思っています。このあたりについては、以前の投稿「ソ連時代の一般的なロシア人の暮らし」をご参照下さい。
最後に、私の好きなレーニン像を二つご紹介して、終わりにしたいと思います。
一つ目は、モスクワのオクチャブリスカヤにあるレーニン像です。
オクチャブリスカヤというのは地下鉄駅の名前なので、レーニン像がある公園の正式名称は、カルシュスコイ広場というのですが、皆がその交差点を"オクチャブリスカヤ"と呼んでいます。交差点に面したビルに設置された、キヤノンの大きな看板が印象的だったのですが、今の様子をグーグルマップのストリートビューで見たら、残念ながらオーストリアの銀行(ライファイゼンバンク)の看板に付け替えられていました。
もう一つはサンクト・ペテルブルクのモスクワ広場にあるレーニン像です。この独特のポーズから「タクシーを停めるレーニン」と言われています。
ロシアではタクシーを停める時はこのように斜め下に手を出します。手を上に挙げても、意味が分からずにタクシーが停まってくれない可能性があります。
さて、ロシアのレーニン像に関する話はここまでです。
ロシア人がスターリンを懐かしむのは、ソ連時代への郷愁だと思いますが、レーニン像を維持しているのは、郷愁とは違うものだと思います。マルクスとエンゲルスが打ち立てた理論に基づいて、レーニンが実際に国家を建設した事が、その後の世界に大きな影響を与えたのは、疑う余地はありません。
ソ連という国が存在し、その影響で西側各国に左派政党が出来たからこそ、資本主義がモディファイされて現在の姿になったのだろうと思います。日本でも学生運動が盛んでした。
ロシア人は、そんな偉業を成し遂げたレーニンを尊敬し、誇りに思っているからこそ、レーニン像がそこここに残っているのではないでしょうか。
レーニンは革命を成し遂げる為に、秘密警察(チェーカー)を使って相当荒っぽい事をやっており、それが批判の対象となる事もあるのですが、それ無しには革命は達成されなかったと考えると、単純に全否定する事は出来ないようにも思います。
レーニンの指示に基づき秘密警察(後のKGB)を創設したジェルジンスキーある意味、壮大な社会実験であったソ連は崩壊しましたが、もう一つの社会実験である中国は、したたかに生き延びて、その実験に全世界を巻き込んでいます。マルクス、エンゲルス、レーニンが、今の世界の状況を見たら、どんなコメントをするか、聞いてみたいですね。それではまた。
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