ソ連崩壊の瞬間、モスクワの街にはビートルズが流れていた - THE LAST DAYS OF THE SOVIET UNION -

28/09/2021

ロシア

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今回は、1991年12月に出張でモスクワを訪れた際に見聞きした事を、お話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/4-vaAaIeUe8

以前の投稿「ドイツ人の特徴」で触れた通り、私は1991年から1995年までドイツに駐在していたのですが、その際、ドイツ国内に加えて旧ソ連・東欧地域も担当していました。1989年にベルリンの壁が崩壊し、ソ連・東欧地域のビジネスが拡大する事が見込まれた為、多くの日系企業がソ連・東欧地域担当者を新たにドイツに派遣していたのです。

東欧地域の中でも、チェコ、ハンガリー、ポーランドの経済発展が先行していた為、その3か国にアクセスが良い場所としてが、ドイツが選ばれたのですが、オーストリアのウィーンに派遣する企業もありました。

私の会社は『ソ連・東欧地域の業務量は、現時点ではさほど多くないので、当面はドイツの業務も行う事とし、将来ソ連・東欧地域の業務量が増えたらウィーンに移って専任にする。』としていました。結局ソ連・東欧地域のビジネスは思ったほど拡大せず、私は1995年までドイツに駐在して、そのまま帰任になりました。

私は、新任のソ連・東欧地域担当として、1991年12月にマーケット調査の為にモスクワに出張しました。これが私の初めてのモスクワ訪問です。デュッセルドルフからルフトハンザの直行便で、12月8日に当時モスクワで唯一の国際空港だったシェレメーチエヴォ2に着きました。

当時のシェレメーチエヴォ2

私はここでソ連の最初の洗礼を受ける事になります。

まずはイミグレーションの行列です。窓口毎に別々の列を作って並んでいるので、早い窓口と遅い窓口で結構な差が出ます。おまけに、窓口の前に並んだ列を無視して、予告無く急にクローズしてしまう窓口もあり、その場合、そこに並んでいた人は、横の列に無理やり合流しようとします。私は、この混沌とした行列に耐えながら、2時間かかってイミグレーションを通過しました。

私はハンドキャリーの荷物だけだったので、バゲッジクレームには行かずに、そのまま税関窓口に向かったのですが、案の定、そこにも同様に長蛇の列が出来ていました。更に2時間かかり、到着から4時間後に漸く空港の到着ゲートを通過して、ロビーに出る事が出来ました。

そこで一息つけるかと思ったのですが、今度はタクシーの運転手が大勢押し寄せてきました。

ロシアに限らず、空港の到着ロビーで近寄って来るタクシー運転手は要注意です。ニューヨークのJFK国際空港では、到着ゲートを出てイエローキャブの並んでいるタクシースタンドに到着する前に、近寄って来る白タクの運転手の甘言に乗ると、必ずボッタクられると言います。

リスクを避ける為には、タクシースタンドに並んで、そこに来るタクシーに乗るのが一番です。私は近寄って来る大勢のタクシー運転手をかき分けるようにして、空港の外に出てタクシースタンドを探したのですが、残念ながらタクシースタンドらしきものは見当たりませんでした。

やむなく、到着ロビーにいる運転手より、そこに入れずに外にいる運転手の方が安全そうだと判断して、空港の外で近寄ってきた運転手の中から、一番気が弱そうなのを選んで、料金を聞きました。

空港からモスクワ市内まではUSD20、モスクワ市内はどこからどこでも1回USD5という事でした。当時、モスクワでは米ドルが普通に流通しており、ドル札の他にセントのコインまでやり取りされていたのです。その話を聞いていた私は、米ドルの小額紙幣を準備していました。

私は、この気の弱そうな運転手なら安全だろう、と判断して、その車でホテルに向かいました。車は、ゴーリキー自動車工場(GAZ)というソ連の自動車メーカーが作っていたヴォルガという乗用車でした。ボロボロでしたが、大きさは昔のアメ車みたいでした。アメリカ人とロシア人に共通する嗜好を見たような気がしたものです。市内で見る車の大半はこのヴォルガでした。

ヴォルガのタクシー

以前の投稿「現在のロシアの製造業とソ連時代の計画経済」で触れた、ルノーに買収されたアフトバズのLADAはもともとは東欧向け輸出用で、ソ連崩壊後にロシア国内で販売されるようになったようです。経済開放後の東欧の人達が、ロシア製の車を買わないので、やむなく国内向けになったのでしょう。

モスクワの道路は幅が広くて立派なのですが、当時の車の台数は極端に少なかったので、運転手は思い切りスピードを出し、あっという間にホテルに着きました。今の世界一の渋滞が噓のようです。

運転手はカーラジオをかけており、そこからはずっとビートルズの曲が流れていました。

ソ連では1980年代終わりまで西側諸国の大衆音楽を禁じており、その代表格たるビートルズの曲もいわゆる"敵性音楽"扱いでした。しかし若者たちはこっそりと聞いていて人気があったので、それが大っぴらに聞けるようになった瞬間に、モスクワの街中にビートルズの曲が流れ出したのです。1991年のモスクワでは、そこかしこでビートルズの曲が流れていました。

余談ですが、ポール・マッカートニーは2003年5月赤の広場でコンサートを行い、"Back in the USSR"を熱唱しました。プーチン大統領とルシコフモスクワ市長も鑑賞したそうです。


ポール・マッカートニーの赤の広場におけるコンサート

さて、デュッセルドルフの旅行社を通じて予約したホリディインにチェックインし、漸くほっとして、テレビでCNNを見ていると、驚愕のニュースが流れました。ロシアのエリツィン大統領、ウクライナのクラフチューク大統領、ベラルーシのシュシケービッチ最高会議議長が「独立国家共同体(CIS)の設立に関する協定」に調印した事を発表したと言うのです。ソビエト連邦の崩壊が決定したという事でした。

ベロヴェーシ合意

私は慌てて、ホテルの部屋の窓から外の様子を見ました。その年の8月にあった、保守派のクーデター未遂事件を思い出したのです。通りに戦車がいるのではないかと目を凝らしましたが、幸い街は落ち着いているようでした。

翌日訪問先で面談したロシア人との会話の中で、私が"Soviet Union"(ソビエト連邦)と言ったら、相手が即座に"Former Soviet Union"(旧ソビエト連邦)と訂正してきたのが印象的でした。(実際の合意発効は12月26日)

マーケット調査の為にいくつかの関係先ロシア企業を訪問したのですが、その中の一つの国営企業では、役員が対応して、昼食をご馳走してくれました。面談した会社から、その役員専属の運転手付の車で、ウクライナホテルの1階にあるレストランに行きました。当時のウクライナホテルは、モスクワでトップクラスの由緒あるホテルでした。

改装前のウクライナホテル

レストランで席に着くと、ロシア人の役員が恰幅の良い中年のウエイトレスに、メニューを持ってくるように言ったのですが、ウエイトレス曰く、「1種類のコースしか供していないので、メニューは無い。」との事でした。私たちはやむなく、そのコースを注文しました。

食事が終わり、役員が私に「食後のコーヒーはどうだ?」と聞いてくれました。私が「飲みたい」と言うと、役員はウエイトレスを呼んでコーヒーを注文しました。ウエイトレスは全く悪びれずに「コーヒーは今、品切れです。」と答えました。役員は少し気まずそうにしていました。

ちなみにこのウクライナホテルは、その後ラディソンホテルチェーンが買収して内装の大改修を行い、今では快適な高級ホテルとして復活しています。

改装後のウクライナホテル

このロシア人役員は話し好きだったので、いろいろな話を聞く事が出来ました。彼が役員を務める国営企業では、会社のトップと新入社員の給与に殆ど差が無いという事でした。彼の月給がUSD60で、新入社員はUSD30だ、というのです。役員は、運転手付きの車や快適な社宅などのフリンジベネフィットのみが新入社員との差で、月給は殆ど変わらないのでした。

タクシー代は空港からモスクワ市内までUSD20、モスクワ市内はUSD5なので、高学歴の若者がどんどんタクシー運転手になっているようでした。どうりで英語が堪能だった訳です。合点が行きました。

私はロシア企業以外に、ドイツで取引のあるドイツ企業がモスクワに開設した駐在員事務所も訪問しました。そこは現地採用のロシア人だけがおり、ドイツ人はいなかったのですが、応対してくれたロシア人2名のうちの一人は、役員が昼食をご馳走してくれた国営企業から、転職したばかりでした。

途中で一人のロシア人が席を外し、転職したばかりのロシア人だけになった時に、彼が私に「1ドル札を持ってるか?」と聞いてきました。

私が「持っている」と答えると「子供に見せてやりたいので1枚譲って貰えないか?」と言うのです。彼自身が経済的に困窮してUSD1を欲している事は明白でしたが、私は全く気が付かないフリをして、「お子さんにどうぞ」と言って1ドル札を渡しました。

別のドイツ企業の駐在員事務所に行った時は、ドイツ人の駐在員と面会しました。その若い単身赴任のドイツ人は、モスクワの生活に関する愚痴をさんざん並べ立て、3週間に1回のペースでドイツに帰っていると言っていました。

彼の愚痴を聞き終わって帰ろうとした時、私はタクシーを呼んで貰うよう依頼しました。ところが時間が遅くなっていた為、ロシア人従業員が既に退社しており、タクシーは呼べないと言われました。彼は自分の運転手付の車があった筈ですから、私をホテルまで送ってくれれば良いのですが、残念ながら、そんな親切心は持ち合わせていませんでした。

「事務所を出て、まっすぐ坂を下って行くと、タクシースタンドがある」と教えられ、私は零下15度のモスクワの街で、帽子も被らずにタクシースタンドを探し回る事になったのです。周りを見渡しても無帽の人は一人もいませんでした。

凍死するのではないかとドキドキしながら、10分くらい歩いてタクシースタンドにたどり着くと、客待ちをしているタクシーを見つけて、なんとか無事にホテルに帰り着きました。

そんなこんなで、ソ連崩壊発表直後にも関わらず平穏なモスクワで、無事に出張スケジュールをこなし、出張最終日、時間に余裕を持って、出発時間の5時間前に空港に行きました。

モスクワ到着時にDM100(約8千円)だけルーブルに両替していたのですが、殆ど使うところが無かったので大半が残っていました。当時ルーブルのソ連国外持ち出しが禁じられていたので、両替のカウンターに行って、ドイツマルクからルーブルに両替した時のレシートを提示し、残ったルーブルをドイツマルクに替えて欲しい、と言ったのですが「今ハードカレンシーは無い」との事で、ルーブルが没収されてお仕舞いでした。

何か手続きをすると、次回ロシアに来た時に没収されたルーブルを返して貰えるという事でしたが、手続きが煩雑そうなので諦めました。

チェックインの行列は予想よりも時間が掛からず、そこからイミグレーションに行きました。イミグレーションも予想よりは混雑しておらず、比較的早く私の番が来ました。イミグレーションのカウンターの中にいる係官は、若い男だったのですが、私のパスポートを見ながら「タバコ持ってるか?」と聞いてきました。

私は咄嗟にポケットから、既に封を切って何本か吸っているマルボロを取り出して、係官に渡しました。係官は苦笑いしながらパスポートを返してきて、私は無事にイミグレーションを通過しました。

後で知ったのですが、当時モスクワ市中では封を切っていないマルボロが、通貨の代わりに流通していたそうです。

代用通貨として流通していたマルボロ

私が渡したのは封が切ってあったので価値が無いため、苦笑いになったようです。ちなみに通貨として流通していたのは、マルボロの赤いパッケージのもので、ライトやメンソールは価値が無かったそうです。

思ったより早くイミグレーションを通過したので、時間はタップリあったのですが、当時のシェレメーチエヴォ2の出発ロビーは薄暗く、椅子が極端に少なかったので、時間を潰すのに苦労しました。

この椅子の少なさは、私がモスクワに赴任した2008年当時でも改善されておらず、シェレメーチエヴォ2の出発ロビーに椅子が増設されたのは2010年以降でした。

乗り込んだルフトハンザの飛行機が滑走路で加速し離陸した瞬間、緊張が一気に解けた感じがしたものです。

1991年12月のモスクワ出張の話はここで終わりです。この後、1992年7月にもう一回モスクワに出張するのですが、3回目2008年に訪れた時には、リーマンショック直前のバブル景気に沸くモスクワを見る事になりました。

今のモスクワは高級車が溢れ、世界一の渋滞となっている

ロシア革命を成し遂げたレーニンが、ソ連崩壊から現在までの状況を見たら、何と言うのか興味深いですね。機会を見て、レーニンに関する投稿もアップしたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/4-vaAaIeUe8

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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