プーチンの評価 ー ロシアの視点から ー

30/07/2021

ロシア

t f B! P L

今回はロシアのプーチン大統領について、考えてみたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/-ivXmZklzKo

欧米各国は2014年のクリミア侵攻や、最近のナワリヌイ氏の拘束などを理由に、ロシアに対して制裁を行っています。一方、ロシアのラブロフ外相は2021年7月に開催された国連安全保障理事会の閣僚級オンライン会合で「米国や欧州連合(EU)は、自らの価値観を世界に押し付けるだけで、多極的な世界をつくるプロセスを後退させようとしている。」と非難しました。

ラブロフ外相

同会合で中国の王毅外相も「イデオロギーで世界を分断することは多国間主義の精神に反する。全ての国に固有の歴史と文化があり、互いを尊重しなければならない。」と言いました。

王毅外相

日本政府は欧米と価値観を同じくしており、普遍的価値として、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済の5つを挙げていますが、同時に、「価値観の押しつけや体制変更を求めず、各国の文化や歴史、発展段階の違いに配慮。」と付け加えています。

今回はロシアの側に軸足を置き、彼等の視点からプーチン大統領について考察して行きます。私も決して、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済という5つの普遍的価値を否定するものではありませんが、一方的に決めつけるだけでなく、他の角度から物事を見てみる事も意味があると考える次第です。

欧米とロシアの対立が顕在化したのは、2014年のクリミア侵攻ですが、まずは1991年のソ連崩壊から2014年のクリミア侵攻までを、ざっと振り返ってみたいと思います。

国民の圧倒的な人気を誇っていたエリツィンは、1991年12月、ついにソビエト連邦を崩壊させ、ライバルのゴルバチョフを葬り去ります。この当時のエリツィンの人気はすごいもので、1989年に初めて実施された自由選挙である人民代議員選挙では、モスクワの大選挙区で89%を超える驚異的な得票率で当選しています。その後、1991年6月に国民の直接選挙で、ロシア共和国の初代大統領に就きます。

1991年大統領就任式のエリツィン

このエリツィンの人気を決定的なものにしたのは、1991年8月の保守派クーデター未遂事件です。エリツィンはロシア共和国最高会議ビル(ホワイトハウス)に立てこもり、エリツィン側に寝返ってホワイトハウスの護衛についた戦車の上に立って演説します。

ホワイトハウス前の戦車の上で演説するエリツィン

このクーデター未遂事件で影響力を失ったゴルバチョフは、ソ連存続の努力も空しく、エリツィンに押しまくられて、ソ連崩壊と同時に表舞台から退場します。

クーデター失敗後、軟禁から解放されたゴルバチョフ

このエリツィンの人気と、今話題となっているナワリヌイ氏の人気を、重ねて見る人達が、ロシアの中に一定数いるのではないかと思います。

ナワリヌイ氏

エリツィンは圧倒的な人気を背景に、既存の権力構造を破壊しまくったのですが、その後の新生ロシアの国造りにおいて無能さを露呈し、極端な混乱を招いてしまいました。このエリツィンの顛末を記憶している人達は、ナワリヌイ氏とその取り巻きにロシアという国を任せる事には、不安を覚えるのではないかと思います。

彼等の考え方は、おそらくこうです。「確かにプーチンとその取り巻きは私腹を肥やしているだろう。だが一方で、彼等はうまくロシアの舵取りをしている。ナワリヌイとその取り巻きの言う事を聞いて、彼等に政権を預けても、エリツィン時代の混沌に逆戻りするだけだ。」

ソ連崩壊後、早々に馬脚を現したエリツィンの人気は地に落ち、1996年の大統領選挙での再選は絶望的でした。最有力候補は、複数政党の一つとして生き残った共産党の委員長、ジュガノフです。

ジュガノフ

この時にエリツィンに手を差し伸べたのが、”オリガルヒ”と呼ばれる新興財閥の面々です。エリツィンが生み出した混乱をうまく利用して財を成した彼等にとって、共産党への回帰はなんとしても避けたいところです。エリツィンと利害が一致したオリガルヒ達は、潤沢な選挙資金と巧みなキャンペーンで、エリツィンを再選に導きます。エリツィン陣営の戦略は「共産党が政権を取る事によって、以前の不自由な体制に戻っても良いのですか?」というネガティブキャンペーンを張る事でした。

ぎりぎりのところでエリツィンは再選を果たし、支援したオリガルヒ達はファミリーを形成して、ロシア経済を牛耳って行きます。いわゆるクローニー(縁故)資本主義です。このファミリーの筆頭格は、ボリス・ベレゾフスキーでした。

ボリス・ベレゾフスキー

エリツィンは再選後体調が優れず、大統領の下で内政を司る立場の首相が次々と、エリツィンの次の大統領の座を狙うようになります。そんな中で、ファミリーが自分達の利権を守る為に都合の良い人物として白羽の矢を立てたのが、ロシア連邦保安庁(FSB:KGBの後継組織)長官だったプーチンです。ファミリーの働きかけにより、エリツィンは1999年8月、プーチンを首相に指名し、併せて大統領の後継候補であると公言します。

ロシア連邦保安庁本部ビル

プーチンが首相に就任した翌月、1999年9月に、チェチェン共和国のイスラム武装勢力の爆弾テロにより、モスクワ市内の高層アパートが立て続けに2軒爆破され、数百人の犠牲者が出ます。

爆破された高層アパート

プーチンは首相として、チェチェン共和国への軍事進攻を即断し、わずか数カ月でチェチェン共和国全土を制圧、ロシア市民の圧倒的な支持を得ます。

1991年チェチェン進攻

あまりにタイミングが良いので、爆弾テロはベレゾフスキーが仕組んだものではないか、という噂がありました。

2000年11月に英国に亡命した元KGB職員アレクサンドル・リトビネンコは、何者かに放射性物質のポロニウム210を飲まされて2006年11月に英国で死亡するのですが、2002年に英国で出版された本の中で、「ロシア高層アパート連続爆破事件は、FSBが仕組んだ偽装テロだった」と言っています。ベレゾフスキーがFSBに指示した可能性があります。

服毒前のリトビネンコ

服毒後のリトビネンコ

エリツィンの取り巻きであるファミリーの引立てによって大統領後継候補になったプーチンは、チェチェン進攻によってロシア市民の絶大な人気を得て、1999年12月31日にエリツィンから大統領職の禅譲を受けた後、2000年3月の大統領選挙における1回目の投票で過半数を獲得し、大統領に当選します。

1999年12月31日テレビで自身の引退と後継プーチンを発表するエリツィン

プーチン大統領就任

これでファミリーも安泰かと思われましたが、プーチンはそんなに単純な人物ではありませんでした。大統領に就任した後、プーチンはファミリーメンバーのオリガルヒ達に踏み絵を踏ませます。大統領である自分に忠誠を誓う事を求めたのです。

そこで忠誠を誓う事を拒否したベレゾフスキーとグシンスキーの2名は、海外に亡命します。流石のプーチンも恩義を感じていたのか、この両名の亡命は見逃しています。

グシンスキー

但し英国に亡命後、プーチンに対する批判を続けたベレゾフスキーは、2013年に英国で自殺により死亡しています。イギリス警察当局は当初、現場に放射性物質対応の特殊工作班を送り込んだそうですが、放射能は検出されず、一応死因は”自殺”という事になっています。

イギリス警察当局による自殺現場の調査

グシンスキーは亡命先のスペインで存命のようです。

一方で、いったんは忠誠を誓ったのにその後裏切ったホドルコフスキーは、2003年10月に逮捕され、シベリア送りとなります。

ホドルコフスキー

その後、なんらかの手打ちをしたようで、2013年12月に恩赦となり、現在は英国に暮らしています。この恩赦にはドイツも関与しているようです。

プーチンが大統領就任後に行った、ファミリーメンバーのオリガルヒに対する対応は、民主主義の観点からは問題が多いのですが、混乱した状態のロシアを立て直す為には、やむを得ない部分もあったのかもしれません。プーチンは2003年の記者会見の中で、「オリガルヒとは、略奪したカネを元手に、行政府との特別なパイプを使って、更に国の富を略奪する人」と言っています。エリツィンが引き起こした混乱の中で、ゼロから財を成したオリガルヒ達は、叩けばいくらでも埃の出る状態だったのだろうと考えられます。

欧米主要国はこれらの事を判った上で、1998年から2013年までG8サミットにロシアを参加させています。サミットへの参加資格は” 工業化された主要民主主義国”ですから微妙ですが、時間がたてばロシアも普通の民主国家になるだろうと、考えていたのでしょう。

2013年G8サミット

ところがプーチンは、欧米が許容出来ない最後の一線を越えてしまいます。それがロシアのウクライナに対する軍事介入とクリミア併合です。但しこれをロシア及びプーチンの側から見ると、「欧米がレッドラインを越えたので、ウクライナへの軍事介入とクリミア併合をせざるを得なかった」となります。

欧米が何をしたのかを話す前に、前提条件として、ウクライナについて説明します。

旧ソ連の共和国の中でも、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3国は、東スラブという共通項を持つ、特に結びつきの強い国々です。更に、ソ連崩壊前は連邦内で人の異動が自由だった事もあり、ロシア人はウクライナの人口の17%を占めています。国語はウクライナ語なのですが、ウクライナ語を解さない人が一定割合いる為、日常会話は、100%の人が理解するロシア語が一般的だったりするようです。

またクリミア半島は、元々ロシア領だったのを、1954年にウクライナに編入したものです。ソ連のトップに就いたフルシチョフが、過去にウクライナ共産党のトップを務めていた時の恩義に報いるために、クリミアをウクライナにプレゼントした、という話があります。

フルシチョフ

当時はロシアもウクライナもソ連に所属する共和国ですから、例えて言えば、「町田市を東京都から神奈川県に移管する」くらいの感覚だったのではないかと思います。

クリミアのセヴァストポリ軍港は、ロシアの黒海艦隊の基地という重要な軍事拠点ですから、ソ連崩壊が判っていれば、ウクライナに移管する筈は無いのですが、1954年にそんな事を見通せる筈もありません。ソ連崩壊後は、ロシアは協定によりウクライナからセヴァストポリ軍港の租借を継続していました。

このように、ロシアにとってウクライナは単なる隣国以上の非常に重要な国なので、その動向には常に気を配っていました。ソ連崩壊後に独立した共和国となったウクライナは、親ロシアの南東部と親EUの北西部に大別されます。ちなみに首都キエフは北西部に、クリミアは南東部に位置します。

2004年のオレンジ革命で親EUのヴィクトル・ユシチェンコが大統領に就任しますが、その直後から政権内部の抗争が相次いだ為、革命を支持した民衆が離反し、2010年の大統領選挙では、オレンジ革命で大統領になりそこなった親ロシアのヴィクトル・ヤヌコーヴィチが勝利します。

ユシチェンコ大統領

ティモシェンコ首相(ユシチェンコ大統領と対立した)

ヤヌコーヴィチ大統領

一方でウクライナは、1998年からたびたびEU加盟希望を表明していましたが、EU側からは、「具体的な成果を挙げてヨーロッパの価値と基準に対して帰属する姿勢を見せる事」を求められていました。

この具体的なアクションプランとして、EUはウクライナに”連合協定”の締結を働きかけます。連合協定は「政治対話と外交・安保政策」、「司法・自由・安保」、「経済・部門協力」「深く包括的な自由貿易協定」の 4 つの柱で構成され、連合協定を結ぶことによってウクライナにおける政治・経済・貿易・人権改革を図り、その見返りにウクライナは EU 市場との関税の減免や財政的・技術的に支援を受けられるというものでした。

ウクライナがEUとNATOに加盟する事は、ロシアにとっては深刻な安全保障上の問題となります。結果論ですが、EUがもう少し慎重に対応してくれていれば、今でもG8は機能していたかもしれません。

2007年からEUとウクライナは連合協定の交渉を開始しますが、2013年11月にヤヌコーヴィチ大統領が連合協定調印を先送りすると発表し、それが反政府運動のきっかけとなって、2014年2月22日のヤヌコーヴィチ大統領逃亡により、親EU政権に交代します。

反政府運動には途中から過激極右団体も加わっており、暴力的で非合法なやり方には、海外でも批判の声があります。また、この動乱の陰には米国の関与を疑わせる情報もあります。CIAのエージェントがスパイ映画さながらに暗躍したのかもしれません。

反政府運動に加わる過激極右団体

このウクライナ動乱においてロシアの取った対応は、正当化出来るものではありませんが、EUがもっと慎重に対応していたら、今の世界はもっと違った様相を見せていたかもしれません。また米国の暗躍が事実であるとすれば、それも決して許されるものではないでしょう。

さて、長くなってしまったので、プーチン大統領に関する考察はここで一旦終わります。説明を漏らしている項目が多くあるような気がしますので、また整理して皆さんにお伝えしたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/-ivXmZklzKo

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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