東南アジアで最も民主的な国、フィリピン(後篇)

15/07/2021

フィリピン

t f B! P L

今回は前回の続き、「フィリピンの政治」の後篇です。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/OtNJzBQDyiY

ドゥテルテ大統領の支持者達

前篇の最後に触れたラモス大統領は、国営企業の民営化と外資の誘致を積極的に推進して、フィリピン経済を立て直した事から、広く国民の支持を得ていましたが、1998年の任期満了をもって退任しました。

フェデル・ラモス

ラモスであれば、憲法改正して再選禁止条項をなくす事も可能だったのではないかと思いますが、彼がそうしなかった事で、今でも憲法の再選禁止条項は生きています。これは私見ですが、ラモスは憲法の再選禁止条項を永続させるために、敢えて自分から身を引いたのではないかと思います。ラモスは自身が憲法改正しない事により、その後の大統領が憲法改正を言い出しにくい状況を作ったのではないでしょうか。

1998年の大統領選挙で勝利して、ラモスの後任として大統領に就任したのは、ジョセフ・エストラーダです。エストラーダは、映画のアクションスターとして大変人気があり、「フィリピンの勝新太郎」と言われていました。

エストラーダは映画で、腐敗した金持ちの金を奪い、貧しい人に分け与えるヒーローの役を演じていました。フィリピンの大衆がエストラーダに、映画の中のように貧しい人のために活躍をしてくれる事を期待したので、大統領に当選したと言われています。

圧倒的な人気で大統領に当選したエストラーダでしたが、大統領に就任するとすぐに「真夜中の内閣」を組閣します。表の内閣が政策を扱っていたのに対して、真夜中の内閣は利権分配を決めていました。

ところが、真夜中の内閣で仲間割れがあり、メンバーの一人がエストラーダのスキャンダルを暴露しました。具体的には、違法賭博「フエテン」からの違法献金とたばこ交付税の着服です。これらの合計金額は当時の為替レートで約25億円でした。

2000年11月13日に弾劾動議が成立し、エストラーダは(1)収賄、(2)不正利得・瀆職(とくしょく)罪、(3)公的信義への背信、(4)重大な憲法違反、の4点で告発されます。最終的に最高裁によって「エストラーダ大統領は政府を掌握する能力を失ったため大統領職が空席になった」との宣言が出され、2001年1月20日にグロリア・アロヨ副大統領が大統領に就任します。

最高裁裁判長の前で宣誓するアロヨ大統領

フィリピンでは大統領だけでなく、副大統領も選挙で選ばれます。グロリア・アロヨは1998年の選挙の際に、エストラーダの対抗馬だったデヴェネシアと組んで副大統領に立候補したのですが、デヴェネシアは落選し、グロリア・アロヨのみが副大統領に当選したのでした。

もともとエストラーダの敵対勢力の主要メンバーですから、弾劾裁判がグズグズになり、エドサ革命の時と同じように人々の抗議運動が盛り上がって行くのを見定めて、最高裁に、大統領職空席の宣言を出すよう働きかけたのです。

さてここで、グロリア・アロヨの経歴を簡単に説明したいと思います。

グロリア・マカパガル・アロヨ

グロリア・アロヨの父親はマルコスの前の大統領だったディオスダド・マカパガルです。

ディオスダド・マカパガル

高校卒業後に2年間アメリカのジョージタウン大学に留学します。ジョージタウン大学ではビル・クリントン元米大統領とクラスメートでした。その後帰国し、名門フィリピン大学で経済学博士号を取得し、大学教員になります。それからアキノ大統領に抜擢されて貿易工業省局長、同省次官を歴任し、1992年5月上院議員に当選します。

こういうエリートはフィリピン大衆に一番嫌われます。

グロリア・アロヨは選挙で選ばれて大統領になった訳ではないので、再選禁止規定に引っ掛からない為、2004年の大統領選挙に立候補します。その時の対抗馬が、「フィリピンの高倉健」と呼ばれたフェルナンド・ポー・ジュニアです。


フェルナンド・ポー・ジュニアは、フィリピン大衆に圧倒的に人気があったのですが、選挙では僅差で敗れます。ポー・ジュニアは11,782,232票(36.51%)、アロヨは12,905,808票(39.9%)でした。

アロヨが現職の強みを生かして不正開票操作を行った結果なので、実際にはポー・ジュニアが勝っていたものと考えられます。有権者数6000人位のある村では、投票の全てがアロヨとなっていたので、ポー・ジュニアに投票した人が「自分の投票が正しくカウントされていない」と異議申し立てをしました。

それでも、保守本流のアロヨなら国の舵取りは大丈夫かと思いましたが、やはりフィリピンは一筋縄では行きません。

アロヨの夫であるホセ・ミゲル・アロヨは、違法賭博「フエテン」の胴元をし、更にそれで稼いだ資金を、シャドーバンキングで外貨に換えているという噂がありました。

グロリア・アロヨとホセ・ミゲル・アロヨ

違法賭博「フエテン」とは、1から37までの番号の中から、出た数字2つを当てれば良い単純な賭博です。賭け金が安く特別な装置や場所も要らないので、マニラ首都圏とルソン島に蔓延しています。エストラーダは胴元から違法献金を受けていたのですが、アロヨの夫は自分で胴元をしていたという事なのです。

この「フエテン」から得られる利益は、年間約600億円と言われています。この利益は当然フィリピンペソなのですが、表に出せない資金ですから、合法的に外貨に両替する事は出来ません。フィリピンペソのままではフィリピン国内でしか使えません。ここで、表に出せないフィリピンペソを海外で外貨にする方法として利用されたのが、シャドーバンキングです。

フィリピンは出稼ぎ大国で、1000万人以上のフィリピン人がOverseas Filipino Worker (OFW)として海外で働いています。彼等は本国に残した家族に送金をするのですが、シャドーバンクは正規の銀行よりも手数料が安く、為替換算レートも有利です。その上、本国の家族が銀行口座を持っていない場合でも、現金を届けてくれたりします。

海外でOFWからその国の通貨を受け取り、フィリピン国内でフエテンの利益のペソを送金先に支払います。このシャドーバンキングによって、フィリピン国内のアングラマネーを海外のハードカレンシーに換える訳です。

このフエテンという違法賭博は、蜜に蟻が群がるように、多くの関係者が利益を得ています。なので、このような噂があっても、絶対に摘発されたりはしません。

世界の汚職を監視する非政府組織(NGO)Transparency Internationalが調査・公表している直近の腐敗認識指数(Corruption Perceptions Index -CPI)では、フィリピンは堂々の115位でした。

2020年度腐敗認識指数ランキング

フィリピンで汚職がなくならない理由の一つは、政治家や公務員の給料がものすごく安い事です。大統領の年棒が400万円くらいだそうです。日本なら、そこそこの会社に就職すれば大卒2年目でもそれくらい貰えます。

フィリピンの貧しい一般大衆にとっては、年収400万円でもものすごい高給なので、それから更に引き上げた場合の、世論に与える影響を考えると、400万円がぎりぎりの線なのでしょう。

大統領が年収400万円ですから、公務員の年収はそれを大きく下回ります。公務員が賄賂を取って生計の足しにする事は、常態化していると考えられます。

私がフィリピンに駐在していた2000年代前半に、やりすぎた税関職員が収賄で捕まりました。50歳くらいの彼の生涯平均月収は20,000ペソ(約4万円)という事でしたが、二人の子供を米国に留学させ、約1億円の預金を持っていたとの事でした。生計の足しというよりも、主たる収入が賄賂という感じです。税関というのは、税務署と並んで賄賂を取りやすい役所なのです。

さて、アロヨは種々の疑惑はあったものの、2010年の任期満了まで大統領を務め上げます。その後任となったのは、マニラ空港で暗殺されたベニグノ・アキノの息子、ベニグノ・アキノ3世です。

ベニグノ・アキノ3世

前篇でお話しした通り、父親のベニグノ・アキノは歴史に残るフィリピンの英雄で、アキノファミリーはフィリピンにおけるロイヤルファミリーのような存在ですから、ベニグノ・アキノ3世は圧倒的な人気で、2位以下を大きく引き離し、1520万8678票を獲得して当選しました。

私は残念ながら既に離任していて、ベニグノ・アキノ3世の当選の時はフィリピンにいませんでしたが、報道等を見る限り、彼はマルコス以降の大統領の中で、最もまっとうに国家運営を行った大統領だと思います。彼は2021年6月24日に61歳の若さで亡くなりました。

優秀だったベニグノ・アキノ3世ですが、憲法の再選禁止条項に従い、2016年に退任します。ベニグノ・アキノ3世は後継者として、前内務・自治相だったマヌエル・ロハスを擁立します。マヌエル・ロハスは、1946年フィリピン独立時の初代大統領マニュエル・ロハスの孫という名門の出で、数々の要職を歴任したエリートでした。

マヌエル・ロハスはこのエリートらしさが嫌われたようで、当選したのは、ダバオ市長として超法規的な取り締まりを実行して治安を劇的に改善し、ダーティー・ハリーの異名を持つ、ロドリゴ・ドゥテルテでした。

ロドリゴ・ドゥテルテは、マルコス政権で内務相を務めたビセンテ・ドゥテルテを父親に持つ、出自の良いエリートなのですが、そのざっくばらんな性格と物言いで、フィリピン大衆の圧倒的な支持を得て、次点候補に600万票以上の差をつけて圧勝しました。

ロドリゴ・ドゥテルテ

幼少期のドゥテルテ

ドゥテルテは、日本で報道を見る限りですが、言いたい放題に見えながらも、肝心なところは外さずに、うまくやっているのではないかと思います。収賄などの金銭の絡むスキャンダルも出てきません。麻薬撲滅に係る超法規的な対応は、国連などから「人権蹂躙」との指摘をたびたび受けていますが、フィリピン大衆からは圧倒的に支持されています。

ちなみに2016年の大統領選挙では、2位はベニグノ・アキノ3世が推したマヌエル・ロハスでしたが、僅差の3位は、2004年にアロヨと大統領選を戦ったフェルナンド・ポー・ジュニアの養女、グレース・ポーでした。

グレース・ポー

グレース・ポーは生後間もなく教会に捨てられていた孤児だったのですが、5歳の時にフェルナンド・ポー・ジュニアの養女になります。

幼少期のグレース・ポーとフェルナンド・ポー・ジュニア

その後、名門フィリピン大学を卒業してから、米ボストン・カレッジに留学、卒業後は米国で教師をしていたのですが、フェルナンド・ポー・ジュニアが大統領選落選後に亡くなったので、その遺志を継ぐために帰国し、2013年に上院議員にトップ当選しました。

次回2022年の大統領選挙において、現職のドゥテルテは娘のサラ・ドゥテルテを後継指名すると見られていますが、このグレース・ポーが対抗馬になる可能性は高いと思います。

ドゥテルテ大統領と娘のサラ

さて最後に、2016年の副大統領選挙に触れたいと思います。副大統領は、ベニグノ・アキノ3世の推薦した女性下院議員のレニー・ロブレドが1442万票を獲得して当選したのですが、フェルディナンド・マルコスの息子ボンボン・マルコスが、26万票の僅差で2位につけていたのです。

レニー・ロブレド               ボンボン・マルコス

フェルディナンド・マルコス本人は、1989年に亡命先のハワイで亡くなったのですが、その後ファミリーはフィリピンに戻り、イメルダ・マルコスは下院議員を2期務め、長男のボンボン・マルコスは、副大統領に立候補する前に、上院議員を1期務めました。

マルコス本人も、ドゥテルテ大統領のはからいで、2016年に遺体がマニラの英雄墓地に埋葬されました。

英雄墓地に埋葬されるフェルディナンド・マルコス元大統領の遺体が納められた棺

この寛容さ(Short Memory?)は、フィリピン人の良いところの一つだと思います。エストラーダも、大統領退任後に不正蓄財で有罪判決を受けて服役しますが、2007年に恩赦を受け、2013年にマニラ市長選に出馬して当選しています。私は、日本人もこのフィリピンの人達の寛容さの恩恵を大いに受けていると思います。

太平洋戦争の時、日本軍は”米国の植民地であるフィリピンを解放する”事を、理念として掲げていましたが、実は1934年に米国議会で成立した”フィリピン独立法”によって、1944年7月4日に独立する事が約束されていたフィリピンにとっては、日本軍の侵攻は迷惑でしかありませんでした。

その後、米国の支援するゲリラ部隊と共産党のゲリラ部隊が、抗日ゲリラ戦を展開します。ベトナム戦争を見ても判るように、民間人の間に隠れたゲリラと戦う際は、どうしても民間人を巻き添えにしてしまう為、日本軍はフィリピン大衆の憎しみの対象となりやすかったのです。

ところが私がフィリピンに駐在していた間、フィリピンの人達の反日感情を感じる事は全くありませんでした。特に、年長の華僑の人達と接する時などは「戦時中、この人は小学生くらいだったかな。」などと考えて、普段より一層、話題に気をつけたりしましたが、先方はいつもニコニコとして、反日感情など微塵も感じさせませんでした。

さて、フィリピンの政治についての話はここまでです。またフィリピンに関するテーマを考えて、皆さんにお伝えしたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/OtNJzBQDyiY


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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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