東南アジアで最も民主的な国、フィリピン(前篇)

14/07/2021

フィリピン

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今回は前回のフィリピンの続きで、東南アジアで最も民主的と言われるフィリピンの政治について、お話ししたいと思います。キーワードは”Too Much Democracy”です。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/HAMqTbDbtRo

切手 マラカニアン宮殿とマルコス大統領夫妻 1973.11.15.発行

私たち日本人は学校で、民主主義が最良の政治体制だと習いました。チャーチルの言葉「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」が有名です。

Sir Winston Churchill

しかし、アジアの多くの国々は、決してそのようには考えていません。そのアジアの中で最も民主主義が定着しているのが、フィリピンとインドです。インドの民主主義については、また別の機会にお話ししたいと思います。

さて、第2次大戦後の東南アジアで主流となったのは、開発独裁と呼ばれる政治体制です。シンガポールでは、リー・クアンユーから始まった開発独裁が、ゴー・チョクトンを挟んで、息子のリー・シェンロンに引き継がれて現在まで続いています。

リー・クアンユー                 リー・シェンロン

マレーシアのマハティールやインドネシアのスハルトも開発独裁です。

マハティール                      スハルト

フィリピンではマルコス大統領がこれを推進しました。

マルコス大統領夫妻

欧米先進国、特に米国は、共産圏の拡大を抑える為に、これらの国々の民主化を推進せず、開発独裁政権を支援していました。

ソ連が崩壊してから30年が経過した今となっては、信じ難い事ですが、1970年代、自由民主主義陣営は社会共産主義陣営に押されまくっており、東西冷戦は東側が圧倒的に有利な状況でした。自由民主主義陣営が最も追い込まれたのは、1975年のサイゴン陥落の頃でしょう。

南ベトナム大統領官邸に突入する北ベトナム軍の戦車

当時は、そのまま何もしないとアジア全体が共産化しそうな勢いでした。なので米国は、反共を掲げる東南アジア各国の開発独裁政権をバックアップして、共産化を防ごうとしたのです。各国の開発独裁政権が反共を掲げた理由の一つは、米国の援助を受ける為です。実際は、開発独裁は社会共産主義との親和性が、より高いと考えられます。

これらの開発独裁のいくつかは、国内の民主化運動によって終わるのですが、一番劇的な終焉を迎えたのは、フィリピンのマルコス政権です。

エドサ通りを埋め尽くす100万の人々

独裁政権を民主化運動によって打倒したという事は、もともとフィリピンに民主主義が根付いていたからだと考えられます。フィリピンに民主主義が根付いていたのには、米国の植民地であった事が関係しているように思います。フィリピン人の中には「1946年に独立しなければ、今頃は米国の51番目の州になっていたかも知れないのに」と悔やむ人もいます。

リー・クアンユーが「私なら3年でフィリピンをシンガポール並みにしてみせる」と言ったのに対し、マルコスが「私なら3ヶ月でシンガポールをフィリピン並みにしてやる」と言い返した、という小咄があります。マルコス政権下であっても、少なくとも1972年の戒厳令布告以前は、フィリピンはシンガポールよりはるかに民主的だったと思います。残念ながら「開発独裁=経済発展」「民主主義=混乱」という事ですね。

さて、今回は1946年独立後のマヌエル・ロハス大統領からディオスダド・マカパガル大統領までは省略し、1965年に大統領に就任したフェルディナンド・マルコスから話を始めます。1965年の大統領選に立候補したマルコスは、頭の回転の良さと弁舌を生かした演説で、「アジアのケネディ」と称されるほどの人気を獲得し、現職のマカパガルを下して、第10代大統領に就任します。

大統領就任当時のマルコスファミリー

日本占領下で抗日ゲリラ戦を行っていたフィリピン共産党は、フィリピン独立後に政府軍により壊滅されていましたが、1968年に再建され、その軍事部門の新人民軍(New People’s Army:NPA)がゲリラ活動を開始しました。

新人民軍(New People’s Army:NPA)

また1970年代に入ると学生運動に端を発した暴動も増加します。

フィリピン大学の学生運動

米国政府はフィリピンの共産化を防ぐために、マルコス政権を全面的にバックアップするようになります。マルコスは1969年に再選されるのですが、一連の暴動を共産主義の脅威として、1972年に戒厳令を布告し、開発独裁政権に移行します。

このあたりからマルコスはやりたい放題になり、既存の特権階級が持つ権益を没収してマルコスの一族と取り巻きに配分するクローニー(縁故)資本主義が横行しました。なお、ソ連が崩壊した後のロシア・エリツィン政権のもとでも、同様のクローニー(縁故)資本主義が見られました。このあたりは別の機会に詳しく説明したいと思います。

マルコスの強権政治に反対する運動が勢いを増したのは、1983年の元上院議員ベニグノ・アキノ暗殺がきっかけです。マルコスの政敵であったベニグノ・アキノは、米国に亡命していたのですが、1983年にフィリピンに帰国した際に、到着したマニラ空港で射殺されました。民衆に人気のあったベニグノ・アキノが暗殺された事が、マルコス反対運動に火を点ける結果となり、1986年のエドサ革命でマルコスはハワイへの亡命を余儀なくされます。

マニラ空港で射殺されたベニグノ・アキノ

ベニグノ・アキノは何故、自分が殺されるだろうフィリピンに戻ったのか、については、私がフィリピン駐在時代に知人の商社マンから聞いた話があります。

マルコスのやりたい放題に手を焼いていた米国が、フィリピン国民のマルコス反対運動による政権交代を画策した、というのです。米国が政権交代をコントロールする事により共産化を阻止して、反共路線を踏襲する民主政権へ移行させようと言う訳です。そのためには、マルコス反対運動を盛り上げる必要があります。

レーガン大統領                   ケイジー米国中央情報局長官

そこで米国は、マルコス反対運動のシンボルとなる殉教者として、ベニグノ・アキノに白羽の矢を立てました。米国は、亡命していたベニグノ・アキノに、フィリピンに戻ってマルコス反対運動の先頭に立って政権交代を実現するように勧めます。その勧めに従い、ベニグノ・アキノは1983年、台北経由でマニラ空港に降り立ちます。

もともとマルコスは、1972年に逮捕・投獄したベニグノ・アキノに、1977年に死刑宣告をしたものの、国民に人気のあるベニグノ・アキノを処刑する事が出来ず、やむなく米国に追放していたのです。なので、戻って来た彼を射殺すれば、反対運動が激化する事は良く判っていました。

そこで米国は、マニラに到着する飛行機にCIAのエージェントをこっそり同乗させ、タラップに降り立ったベニグノ・アキノを機内から撃たせた、というのです。知人から聞いた話なので、確証がある訳ではありませんが、都市伝説としては良く出来た、なかなか説得力のあるストーリーだとは思います。

この事件によりベニグノ・アキノは、ラプラプ、ホセ・リサールに次ぐフィリピンの英雄となりました。またアキノ家はフィリピンにおけるロイヤルファミリーのような位置付けとなったのです。

                      ラプラプ              ホセ・リサール

ベニグノ・アキノ

コラソン・アキノ(未亡人)

               ベニグノ・アキノ3世(長男)            クリス・アキノ(長女)

さてベニグノ・アキノ暗殺により、米国の思惑通りマルコス反対運動は大きな盛り上がりを見せ、ついに1986年に実施された大統領選で、ベニグノ・アキノの未亡人であるコラソン・アキノが大統領に選出されます。

当初マルコスが勝利宣言したのですが、得票不正操作が判明して、エンリレ国防相やラモス参謀次長ら国軍改革派が決起し、結果100万の市民がこれを支持してエドサ通りを埋め尽くしたのです。

ラモス(左)とエンリレ(右)

エドサ通りに集まる様に人々に呼び掛けるシン枢機卿

ただし国軍というのは、一筋縄では行かない伏魔殿のような組織ですので、” 国軍改革派が決起”というのはちょっとキレイすぎる表現かもしれません。実際には、マルコスの命運が尽きたと判断した国軍が、勝ち馬に乗る形でコラソン・アキノに乗り換えた、と考えるべきでしょう。

コラソン・アキノは大統領就任後すぐに、マルコス時代に制定された憲法を停止し、翌年に新憲法を制定しますが、これにより大統領は多選禁止となります。


大統領就任式で宣誓するコラソン・アキノ

コラソン・アキノは1992年に任期満了で大統領職を去るのですが、6年の在任期間中は、度重なるクーデター未遂事件やピナトゥボ山の大噴火などがあり、大統領最後の年には、インフレ率は17%にまで上昇しました。

長くクーデターに関わり続けたグレゴリオ・ホナサン大佐

もともと彼女は大統領になりたがっていなかったのに、周囲がシンボルとして無理やり担ぎ出したという事でしたから、彼女に政治手腕を求めるのは酷ですね。さて、1992年のコラソン・アキノ退任に伴う大統領選挙を勝ったのは、コラソン・アキノに後継指名されたフィデル・ラモスです。

フィデル・ラモス

ラモスは外資の誘致を積極的に進めるなど、経済政策に優れていましたが、フィリピン華僑からは大変嫌われていました。

ラモスが大統領就任時、フィリピンの財政は火の車で、彼の出身母体である軍部と警察に予算を十分に付ける事が出来ませんでした。その為ラモスは、妥協策として軍部と警察の副業に目をつぶる事にしました。

国軍と警察の警察の副業とは、華僑をターゲットとした営利誘拐です。この背景にある事象は、発展途上国に共通している事で、彼等にとっては常識なのですが、多くの日本人は全く理解していません。

私が勤務していた会社の東南アジア地域本社主催の会議に出席していた時の事です。タイ子会社からの参加者が、タイ国軍とのビジネストラブルについて説明している時に、「国軍の大佐がマフィアのボスで・・・」と言いました。

当時私は東南アジアのビジネスに関わり始めたばかりで、良く判らなかったので「国軍の大佐がマフィアのボスってどういう事ですか?」と質問しました。そうしたら会議に参加していたインドネシア子会社の社長から「君はまだ東南アジアが判ってないね。」と言われてしまいました。

今になれば良く判るのですが、つまり、発展途上国においては、軍部と警察はいわゆる反社会的勢力とイコールだという事なのです。余談ですが、これはアジアに限った事でなく、ロシアなど旧ソ連の国々にもバッチリ当てはまります。

話を戻すと、ラモスが華僑をターゲットとした営利誘拐ビジネスに目をつぶる事にした結果、華僑の誘拐が頻発しました。国軍や警察が直接誘拐を実行する訳ではなく、裏で繋がった別の組織が実行するのですが、国軍や警察にもしっかりと分け前が入る仕組みが作られています。

通常は日本人は誘拐のターゲットになりません。日本人駐在員を誘拐した場合、その駐在員を派遣している企業に対して身代金を要求する訳ですが、日本企業は何に関しても決定が遅く、時間がかかり過ぎるのです。

日本の本社の役員会で誰かが「身代金を支払った場合と支払わなかった場合のメリデメを比較検討すべきだ」と言い出すかもしれませんし、経理部が「身代金の対象となる本人の申請書が添付されていないので出金出来ない」と難癖をつけるかもしれません。

このような理由から、通常は日本人は誘拐のターゲットにならないので、フィリピンにおける日本人の誘拐事件は、営利目的以外に何らかの怨恨が関係している事が殆どです。

華僑のケースでは、誘拐して身代金を要求すると、数時間後には身代金が支払われ、人質は解放されるという事です。

誘拐リスクが高いので、華僑は通常ボディーガードを雇っていますが、実はこれは単純な自衛ではありません。

ボディーガードは個別に契約するのでなく、ボディーガード派遣会社と契約します。それらのボディーガード派遣会社は、収入の一部を誘拐犯の組織に支払い、その一部が国軍や警察に行く訳です。保険料みたいなものですね。

このような誘拐リスクを回避するために、華僑の多くは子女を欧米の寄宿学校に入学させていました。ボディーガードを付けるコストを考えれば、留学費用は決して高くないのです。

さて、フィリピンの政治について話してきましたが、長くなってしまったので、ここで一旦終わりにして、続きは後篇にしたいと思います。後篇はフィリピンの勝新太郎と言われた大統領から始まります。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/HAMqTbDbtRo

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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