今回はフィリピン華僑についてお話ししたいと思います。
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1521年にマゼランがフィリピンに到達する以前から、中国人はフィリピンと交易を行っていました。7世紀頃には中国人がフィリピンを訪れていた痕跡があり、そのころから移住を開始していたと考えられています。
中国人の移住が本格化するのは、スペイン統治時代、フィリピンとメキシコを結ぶマニラ・ガレオン貿易の開始後です。マニラ・ガレオン貿易とは、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコ間の貿易の事です。1565年に始まり1815年まで続きました。
日本の戦国時代から江戸時代にあたります。戦国時代の日本の軍事力は世界一でした。当時フィリピンを統治していたスペインは、日本軍が攻めて来るのを恐れていたようです。
秀吉が沖縄、台湾、フィリピンと攻めていたら、今頃フィリピンは日本の一部になっていた可能性があります。何故そうしなかったのかは、定かではありませんが、未開の地で香辛料や金銀などの貴金属も無いフィリピンを領土とする事に、魅力を感じなかったのかもしれません。
マニラ・ガレオン貿易の主要な取引は、中国の絹とスペインのアメリカ植民地で産出される銀の交換でした。そのため、マニラは絹と銀の交易拠点となり、中国の福建からの帆船貿易によって中国商人がそこに定着するようになりました。
19世紀に入ると、商人だけでなく、出稼ぎ労働者として大勢の中国人がやってきます。これが「クーリー(苦力)」です。苦力はフィリピンだけでなく、他の東南アジアの国々にも広がって行きました。シンガポールの人口の70%を占める中国系の人々は、この苦力の子孫です。
このように長年にわたってフィリピンに移住してきた中国人ですが、彼等は長い年月のうちに現地人と混血してフィリピン人と同化して行きました。これらの人々はメスティーソと呼ばれ、華僑とは区別されます。
現代のフィリピン華僑の人々は、現地人との混血を避けて、中国の純血を守る事を基本としています。メスティーソは現在のフィリピンの全人口の26%を占めると言われています。華僑は1.5%未満です。
私がフィリピンに住んでいた当時、フィリピン華僑の事を”Filipino Chinese”と言うのだと誤解していたのですが、知人の華僑から”私はFilipino ChineseではなくChineseだ”と訂正されました。フィリピン華僑にとっては、混血のメスティーソが”Filipino Chinese”で、フィリピン華僑は純血だから”Chinese”という、厳然とした定義があるようです。
ちなみにメスティーソの著名人としては、独立運動の英雄ホセ・リサール、マルコス大統領などがいます。
暗殺されたベニグノ・アキノ・ジュニアの奥さんのコラソン・アキノは華僑だったので、その息子のベニグノ・アキノ3世もメスティーソです。
その後のドゥテルテ大統領も、見た目は純粋フィリピン人みたいですが、中華系のルーツを持つメスティーソです。
さて、今日のフィリピン経済を牛耳っているのは、第2次大戦前後に初代が福建省からやってきて財を成した財閥です。「長者に三代なし」ということわざの通り、フィリピンの殆どの中華系大手財閥のトップは、初代か二代目です。
それではこれから、2020年版フォーブスの順位に従って、フィリピン華僑の説明をして行きます。トップはフィリピン最大の小売業コングロマリット「SMグループ」の創業者、ヘンリー・シー(中国名:施至成)です。
SMグループはフィリピンのみならず、東南アジア各国でビジネスを展開しており、小売業のみならず、銀行、ホテル、不動産、鉱業なども行っています。ヘンリー・シーは2019年1月に死去したため、2020年版フォーブスのリスト上は「シー兄弟姉妹(ヘンリー・シーの子供達)」と言う表記となっています。総資産額は139億ドル(約1兆4千億円)です。
SMとは、彼が1958年にマニラに開業した靴屋”Shoemart”の頭文字です。
ヘンリー・シーは1932年に中国福建省晋江龍湖洪渓村で生まれ、12歳の時に既に出稼ぎに来ていた父親を追ってフィリピンに来ました。
彼の父親は戦後間もない1946年に中国に帰ったのですが、彼はそのままフィリピンに残り、紆余曲折を経て1958年に開業した1軒の小さな靴屋を、フィリピン最大のコングロマリットに育て上げました。
次の華僑はフォーブスランキング4位、JGサミット・コーポレーションの創業者、ジョン・ゴコンウェイ・ジュニア(中国名:吳奕輝)です。
JGサミット・コーポレーションは、食品の他、石油化学、航空、不動産、金融、通信など多岐にわたるコングロマリットです。ジョン・ゴコンウェイ・ジュニアも2019年11月に死去したため、後継のランス・ゴコンウェイとその兄弟姉妹と表記されています。総資産額は41億ドル、約4400億円です。
ジョン・ゴコンウェイ・ジュニアは1926年に中国福建省廈門に生まれました。
彼の父親はセブを拠点とする裕福な華僑だったのですが、彼が13歳の時に死去します。父親の死後一家は困窮し、彼はセブで行商をしながら一家を支えます。
そして戦後、貿易会社を立ち上げ、そこから事業を拡大して巨大コングロマリットを創り上げました。
6位はアライアンス・グローバルグループの創業者、アンドリュー・タン(中国名:呉聴満)です。
アライアンス・グローバルグループは不動産、食品、飲料、カジノなどのコングロマリットで、フィリピンにおけるマクドナルドのフランチャイズチェーンも運営しています。総資産額は23億ドルです。
アンドリュー・タンは1952年に中国福建省泉州で、貧しい工員の子として生まれ、幼少期は香港の小さなアパートで過ごしました。
その後、単身フィリピンに渡って大学を卒業後、アライアンス・グローバルグループを創り上げました。
7位はルシオ・タン(中国名:陳永栽)です。総資産額は22億ドルです。
彼は1934年に中国福建省廈門に生まれ、その後、両親とともにセブに移り住みます。セブでは、裸足で学校に通うなど、貧しい暮らしを余儀なくされますが、苦学して大学を卒業した後、マルコス及びエストラダの時代に政商として活躍し、財を成しました。
彼のコングロマリットも多岐に渡り、ナショナルフラッグキャリアのフィリピン航空も所有しています。
その後も、8位のラモン・アン(中国名:蔡殷文)、9位のトニー・タン・カクチョン(中国名:陳学中)、10位のルシオ・コー夫妻まで、10人中7人を華僑が占めています。
フィリピン華僑の特徴の一つは、フィリピンの貧しい人たちが払う小銭を広く集めるビジネスモデルです。前回お話しした通り、フィリピンの人たちは貧しくても“宵越しの銭は持たない”というライフスタイルで、気前よくお金を使います。貧しいので大きな金額にはなりませんが、フィリピン華僑はその小銭を広く集める事に長けています。
一つはファストフードチェーンです。フィリピンの人たちは、貧しい割には外食にお金を使います。
私が驚いたのは、スターバックスコーヒーです。日本よりは若干割安ですが、それでも1杯3百円前後のコーヒーを提供するショッピングモール内のスターバックスが、大勢の客で賑わっていました。月給2万円くらいの人々が、何のためらいも無く3百円前後のコーヒーを飲むというのは、ちょっと日本人には理解し難いですね。
先ほど説明した9位のトニー・タン・カクチョンは、フィリピンで大人気のハンバーガーチェーンであるジョリビーの創業者です。ジョリビーは、フィリピン人の好みに合わせたメニューと甘い味付けで、絶対的な人気を誇っており、フィリピン人出稼ぎ労働者をターゲットにして、海外にも展開しています。
このジョリビーの人気のおかげで、フィリピンではマクドナルドも苦戦を強いられています。そうはいっても、6位のアンドリュー・タンがフランチャイズチェーンを展開するマクドナルドも、フィリピン人の嗜好に合わせたメニューを導入して、必死でジョリビーに食い下がっています。
フィリピン人は米飯が大好きなので、フィリピンのマクドナルドには、ライスボールがサイドメニューにあり、フライドチキンとライスボールのセットメニューが人気です。このフライドチキンは、KFCで売っているのとそっくりなものです。ちなみにライスボールには具は入っておらず、白米のおにぎりが紙につつまれているだけです。
もう一つの独特なメニューは、スパゲッティです。スパゲッティもフライドチキンとのセットが人気です。
スパゲッティは、茹で過ぎでフワフワのものが好まれます。フィリピンの人達は、このフワフワのスパゲッティとミートソースをフォークで混ぜてから、フォークを使ってぶつ切りにして、それをすくって食べます。
マクドナルドも、このようにフィリピン人に寄り添う事で、ジョリビーに対抗しているのです。
フィリピン人から小銭を巻き上げるもう一つのビジネスが、携帯電話です。
携帯で長話をするのは相当高くつくので、フィリピン人はもっぱらショートメッセージをやり取りします。私がフィリピンにいた2000年代前半、人口一人当たりのショートメッセージの数で、フィリピンが世界一という事でした。(人口一人当たり1日に10件を大きく超えていたと思います。)
ショートメッセージの料金は発信1回につき1ペソ(約2円)で、受信は無料です。当時は皆がノキアの携帯を持っており、プリペイドSIMを使うのが一般的でした。フィリピンでは、後払いでサービスを提供すると、代金が未回収になるリスクが高いので、利用料金後払いの携帯電話契約をするのは大変なのですが、プリペイドであれば、信用リスクが無いので、どんな人も利用する事が出来ます。
このプリペイドSIM用のカードは、最も安いもので100ペソ(約200円)でしたが、フィリピン人は何でもその日に必要な分だけを購入するという癖があり、1日に100回もショートメッセージを送る事はないので、もっと小さい単位での販売を希望する層がありました。
しかし、そんなに安いプリペイドカードを作ったら、原価割れしてしまうので、それを解決するために、個人の携帯から他の人の携帯に10ペソ単位で送信するシステムがありました。
これは単なるギフトの仕組みなのですが、これを使って商売をする人がいました。500ペソを支払ってサービスで50ペソ分が上乗せされた550ペソのプリペイドカードを購入し、55人に10ペソずつ売って、50ペソ儲けていました。
このように、フィリピンの携帯電話会社は、フィリピン人のニーズを的確にくみ取ったショートメッセージサービスで大儲けしていました。
華僑は冷徹な判断に基づいて投資を行うので、フィリピンの将来性が見通せない時は、そうやって庶民から薄く広く集めた資金を、海外に投資してしまいます。私が住んでいた当時は、シンガポールやオーストラリアなどでM&Aを行う動きが目立っていましたが、ベニグノ・アキノ3世が大統領をやっていた時期に相当状況が改善したらしく、最近は華僑もフィリピンでインフラ投資などを行うようになっているようです。
さて、フィリピン華僑についての話はここまでです。次回は東南アジアで最も民主的と言われるフィリピンの政治について、ご説明したいと思います。キーワードは”Too Much Democracy”です。それではまた。
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