ソ連時代の一般的なロシア人の暮らし

19/07/2021

ロシア

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今回はソ連時代の一般的なロシア人の暮らしについてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/8WU-rLWLO74

この映画は1980年度アカデミー外国語映画賞を受賞したロシア映画、「モスクワは涙を信じない」です。この映画では、ソ連時代の一般的な人々の生活の雰囲気が描かれています。

ソビエト連邦は、1917年11月7日のロシア革命(十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立し、69年後の1991年12月25日に崩壊しました。今回お話しするのは、ブレジネフが指導者となった1964年から、エリツィンがゴルバチョフを追い落とす目的で企てた1991年12月25日のソ連崩壊までの、停滞しながらも安定していた期間の話です。

1917年10月革命:労働者・農民に武装蜂起をを呼びかけるレーニン
演説台の右下に立っているのはトロツキー

ブレジネフ書記長
在任期間:1964年~1982年

1991年12月ソビエト連邦崩壊
衛星国のレーニン像は撤去された

エリツィン・ロシア連邦大統領とゴルバチョフ・ソビエト連邦大統領
ソビエト連邦崩壊によりゴルバチョフは失脚した

西側諸国には、ゴルバチョフがペレストロイカをやる前はロシア人はみんな不幸せだった、という先入観がありますが、ロシア人の多くは今でもソビエト連邦崩壊を残念がっている、というアンケート結果もあり、ロシアではゴルバチョフは全く人気がありません。

共産党独裁から解放されて、自由を獲得したのに、”ソビエト連邦崩壊が残念”、というのは、我々には理解し難いところです。ロシア人も共産党独裁が終わった当時は熱狂していたのですが、その熱狂は長くは続きませんでした。

1991年8月20日、守旧派のクーデターに対し、ロシア共和国の最高会議ビルに集結し防衛するモスクワ市民達

マルクスは「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と言いましたが、ロシアの多くの人々にとって、ソビエト連邦崩壊前の現実は「殆ど働かずに、最低限の生活が保障される」でした。働かずに暮らしていけるのですから、ある意味、天国です。人は、”必要に応じて受け取る”事が保障された瞬間に、能力に応じて働く事を止めてしまうのでしょう。マルクスは人に期待しすぎたのではないでしょうか。

共産党独裁から解放されて、自由と一緒に自己責任の競争も来てしまったというのが、一般的なロシアの人々の実感のようです。ユヴァル・ノア・ハラリは「サピエンス全史」で、私達の祖先は狩猟採集から農耕に移行して不幸になった、と言っています。ソビエト連邦の崩壊による共産党独裁からの解放というのも、これと似ている気がします。我々は「幸せになった筈」と思い込んでいますが、実際は不幸になってしまった、という事例です。

ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー「サピエンス全史」

一般的なモスクワ市民は、市内の高層アパートの一室に、家賃タダで住む事が出来ました。アパートは狭いものでしたが、地域に温水を供給するシステムのおかげで冬でも家中が暖かく、蛇口をひねれば熱いお湯が出ました。政府がセントラルヒーティングを全員に用意してくれたという事です。

モスクワの高層住宅

「モスクワは涙を信じない」にも登場する“文化人アパート”
マスコミ関係者などが住んでいた

モスクワに住む約1200万人の大半は、全長109.8kmの環状道路MKADの内側に住んでいるのですが、この環状道路の内側は低層の建物の建設が禁じられているため、緑地や公園が多く、ゆったりとしています。このMKADの内側の面積は、山手線の内側の2倍ほどしかありません。一戸建て住宅や低層マンション、アパートなどがダラダラと広がる日本の首都圏とは好対照です。

モスクワ市内にある大規模公園のひとつ「クリラツコエ」

また、全てのモスクワ市民が、政府から支給されたダーチャと呼ばれる別荘を、郊外に持っていました。別荘といっても、家庭菜園に付属する小屋のようなものですが、人々は週末そこに出かけては、家庭菜園でジャガイモや季節の野菜などを熱心に栽培しました。これらの収穫のおかげで、ソビエト連邦末期に食料品の供給が不足がちとなっても、人々が飢える事はありませんでした。

モスクワ郊外の一般的なダーチャ

人は、見返りがはっきりしていないと働かないものです。自分の家庭菜園で一所懸命働けば、より多くの収穫が期待出来ますが、平日の職場では、どれだけ一所懸命働いてもそれに応じた見返りはありません。人々は、週末は家庭菜園で一所懸命働くのですが、平日は殆ど仕事をしていませんでした。

私は2010年から2014年まで、ロシア企業のモスクワ本社で働いていたのですが、その頃でもまだ、ソ連時代の雰囲気を感じる事が出来ました。1990年にロシア人が創業した会社を、2007年にドイツ企業が買収していたのですが、働いていたロシア人たちは、ソ連時代のメンタリティーを色濃く残していました。

始業は9時なのですが、人々は9時過ぎから10時30分くらいまでの間に三々五々やってきます。会社に着くと、オフィスビルの地下にある社員食堂に行って、お茶を飲みながら同僚と世間話に興じます。日本の社員食堂は、昼食時に社員で込み合う以外の時間は、殆ど人がおらず閑散としているのが普通ですが、ロシアの社員食堂は終日人がいて賑やかです。みんな寛いで同僚との世間話を楽しんでいるのです。

モスクワ地下鉄駅入口の通勤風景

夕方は午後4時くらいから、職場のそこここでパーティーが始まります。たいがいは誰かの誕生パーティーです。デスクの間の空いたスペースに椅子を持ち寄って、お菓子やスナックなどを食べながら酒を飲みます。

この、天国のようなソ連時代は、残念ながらゴルバチョフのペレストロイカによって終わりを迎えます。みんなが怠けながら暮らしていける社会を維持するために、政府が財政資金を投入し続けた結果、財政的に破綻してしまったため、改革を行わざるを得なくなったのです。

パンや食肉などの基本的な食料品や、その他の生活必需品は、政府の補助金によって極端に価格を安くしていました。パンの値段があまりに安かったため、養豚場で豚のエサにパンを与えたという話もあります。

この補助金は年々額が増え、歳出の大きな割合を占めるようになっていました。実はもう一つの大きな財政支出は軍事費でした。アメリカがソビエト連邦を財政面から崩壊させるために、軍拡競争を仕組んだ、というのが、軍事費増大の理由のようです。ソビエト連邦を「悪の帝国」と呼んだレーガン大統領が仕掛けた軍拡競争が、ソ連崩壊を促進する事になりました。

1983年3月8日の米国福音主義キリスト教協会全国大会
この時の演説でレーガンが「ソ連は”悪の帝国”」と言った

さて、ソビエト連邦崩壊前の、天国のような一般市民の暮らしのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。次回はロシア人とお酒について、お話しします。それではまた。

ソ連時代の節酒ポスター

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/8WU-rLWLO74

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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