今回は私が海外駐在している時に印象深かった日系企業からいすゞ自動車についてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
私は2008年にモスクワに赴任する直前に、いすゞ本社で旧ソ連・東欧地域の責任者にお話を伺う機会があったのですが、その方は大変個性的な人物でした。以前の投稿"ドイツ人の特徴"では「日本企業はリスクを取る事を避けるあまり"石橋を叩いて壊す"様な事をするがドイツ企業は無駄な時間を省いて経営陣が独断専行し走りながら考える」とお話ししましたがその人物は日本人ビジネスマンには珍しい"走りながら考える"タイプでした。
当時のロシア経済は世界的な石油価格の高騰による石油とガスの輸出収入の増加を背景に急激に拡大しており新たな市場を目指して多くの企業がロシアに進出していました。特にロシアの新車販売は驚異的な伸びを見せており販売台数は欧州1位のドイツを抜き去りそうな勢いでそれを踏まえて2005年にトヨタが2006年には日産がサンクトペテルブルクに工場進出を決めていました。
いすゞも工場進出を検討していたのですが私が話を聞いた人物曰く「合弁でマジョリティーを取る為には役員会の承認が必要で時間がかかるので委託生産やマイナー出資の合弁を目指した」との事でした。
まずはロシア最大の鉄鋼企業セベルスタリグループの自動車部門セベルスタリアフトとの合弁を目指すのですがなかなか話が進まないと見るとウクライナに地場自動車メーカーとの合弁会社を設立しそこからロシアへの輸出を目指します。慌てたセベルスタリアフトはいすゞとの合弁を決定し2007年8月ロシアのタタルスタン共和国エラブガにトラック生産・販売の合弁会社セベルスタリアフトいすゞを設立しました。いすゞはオリガルヒの率いるしたたかな大手ロシア企業を相手にそれを上回るしたたかさで対応したのでした。
ちなみにいすゞは同年1月にウズベキスタンでも現地自動車メーカーに委託する形で小型バスの現地生産を開始しています。以前の投稿"シルクロードの国、ウズベキスタン"でお話しした通り私は2012年にウズベキスタンのタシュケントに出張しソ連崩壊前から継続して政権を握って来たカリモフ大統領の開発独裁の失敗による混迷を目の当たりにしたのですがいすゞはそんな環境の厳しい国にも一早く進出していたのでした。そんな積極的な海外進出が功を奏したのか2024年世界商用車市場ランキングではダイムラー・VW・ボルボ・パッカーに次ぐ第5位となっています。
2000年代まで日本にはいすゞの他に日野自動車・三菱ふそう・日産ディーゼル等のトラックメーカーがありました。紆余曲折を経て現在ではいすゞとその100%子会社の旧日産ディーゼル(現UDトラックス)のグループとダイムラーとトヨタが25%ずつ出資する持株会社ARCHIONアーチオン傘下の日野自動車と三菱ふそうのグループの二つの陣営となっています。どんな紆余曲折があったのかご説明する前にまずはいすゞの歴史についてお話ししたいと思います。1918年に東京石川島造船所が英国ウーズレー社と提携して自動車製造に着手したのがいすゞのルーツです。
東京石川島造船所の自動車部門が独立した石川島自動車製作所は1933年に経営難に陥っていたダット自動車製造のトラック・バス部門を吸収して自動車工業と社名変更します。一方のダット自動車製造の乗用車部門は鮎川義介が設立した戸畑鋳物に吸収されました。この戸畑鋳物の自動車部門が独立したのが日産自動車です。
自動車工業は1937年にもう一つのトラックメーカーである東京瓦斯電気工業と合併して東京自動車工業となりました。いすゞではこの日を創立記念日と定めているそうです。東京自動車工業はその後ヂーゼル自動車工業と社名変更し1942年に特殊車両製造部門の日野製造所を分離して日野重工業とします。これが現在の日野自動車のルーツです。いすゞは石川島系で日野は瓦斯電系なので"二つの会社が一旦くっついてまた離れた"みたいな感じですね。
戦後の1949年に社名をヂーゼル自動車工業からいすゞ自動車に変更します。1934年に商工省標準形式自動車を伊勢神宮の五十鈴川にちなんで"いすゞ"と命名したのが由来です。
後に東洋工業がマツダに富士重工がスバルに社名変更していますがいすゞは相当先んじていた訳ですね。
1960年代前半位までいすゞはトヨタ及び日産と並んで"御三家"の一角を占めていました。トヨタ・日産・いすゞの3社がトラックやバスを含む総合自動車メーカーとして規模や技術力で他社をリードしていたのです。いすゞは御三家から脱落したのはモータリゼーションの波に乗り切れなかったのが大きかったと思います。1960年代のマイカーブームではカローラやサニーのような大衆車が市場を牽引しました。いすゞの車は個性的で評価も高かったものの少量生産で価格が高く販売台数の規模を取れませんでした。
この頃にいすゞが発売した個性的な車の一つがベレットです。日本で初めてGTを名乗った2ドアクーペはツインキャブレター・高性能エンジン・4輪独立懸架・前輪ディスクブレーキ等を採用しスポーティーな走りで人気を集めました。荒井由実のアルバム「COBALT HOUR」に収録された同名曲で「白いベレG包み始める」と歌っている"ベレG"はベレットGTの事です。
もう一つのいすゞの名車が開発コード番号がそのまま車名となった117クーペです。
いすゞはコンセプト・デザイン・パッケージ・スタイリングをイタリアのカロッツェリア・ギアに委託しチーフデザイナーだったジウジアーロが担当しました。その後ジウジアーロはギアを退社して独立しイタルデザインを立ち上げるのですがいすゞとの関係は続き量産指導はイタルデザインの初仕事となりました。
当時のいすゞの製造技術では全ての外板をプレス機で再現する事は難しく、また経営状態が芳しくなかった事から設備投資への余裕もなかったので大まかなラインだけをプレスで出しパネルのトリミングや穴あけ等の生産工程の大部分を手作業としました。手作業での生産なので販売価格は当時としては非常に高価な172万円で一般的な1.8Lクーペのおよそ2倍の金額でした。同時期に販売されていたクラウンスーパーデラックスは112万円です。月産台数も30~50台程度に限定されたので希少性が117クーペの名声を更に引き上げる事になりましたが収益への貢献は僅かでした。
1967年から資本自由化が段階的に始まり自動車産業は1971年に自由化される見通しとなりました。通産省は外資に国内メーカーを取り込まれる事態を出来るだけ避けたいと考えており国内メーカー同士の結びつきを促しました。いすゞは生き残りを賭けて国内メーカーとの経営統合を目指すのですが富士重工・三菱重工・日産との交渉は全て頓挫しました。
次にいすゞが資本提携候補としたのが米国のビッグ3です。いすゞが仲介役を依頼した先は伊藤忠でした。伊藤忠でいすゞの提携事業の責任者になったのは専務取締役業務本部長だった瀬島龍三です。
瀬島龍三は終戦時に関東軍参謀としてソ連軍との停戦交渉にあたりその後11年間シベリアに抑留されました。帰国後1年契約の嘱託社員として伊藤忠に入社し最終的に会長となります。会長引退後は財界活動に軸足を移し中曽根政権のブレーンとして政財界に影響力を持って"昭和の参謀"と呼ばれました。
今でこそ昔日の面影は無くかつてビッグ3と言われたGM・フォード・クライスラーも"ビッグ"でなくなったので"デトロイト3"と呼ばれるようになってしまいましたが当時はまだビッグ3が世界の自動車市場で圧倒的な力を誇っていました。伊藤忠はまずクライスラーと交渉を開始するのですが伊藤忠が回答を督促してもクライスラーは何も言って来ません。1970年2月クライスラーと三菱重工が電撃的に提携を発表するのですが伊藤忠といすゞは何も知らされていませんでした。
次に交渉したフォードでは瀬島が渡米して自らフォードの副社長とマネジャー相手に3時間もプレゼンを行いました。フォードはプレゼン翌日に会長ヘンリー・フォード二世のレターを送ってきました。レターには「フォードは伊藤忠のプロポーザルを受けいすゞとのタイアップを速やかに検討したい」とありました。
フォード・伊藤忠・いすゞの3社は8カ月間熱心に話し合い交渉を続けたのですが結局提携話は流れてしまいました。フォードはトラック・バスの商用車部門を含むいすゞ全部門との提携を望んだのですがいすゞは赤字の乗用車部門を立て直す事だけを考えていたので黒字のトラック・バス部門をフォードとの提携事業に含める事を拒否したのです。
クライスラーとフォードに振られた伊藤忠交渉チームは"当たって砕けろ"の覚悟で世界一の自動車会社GMにアプローチする事にしました。
いすゞも世界一の自動車会社が相手であればトラック・バス部門も提携しなくてはならないと覚悟します。1971年7月いすゞはGMと全面提携し第三者割当増資で株式34.2%を割り当てて筆頭株主に迎えました。
私は「いすゞは偶然に助けられて一番良い提携先を得た」と思います。以前の投稿"スズキの海外展開"でもお話しした通り当時のGMは大人の風格があり「君臨すれども統治せず」で提携先の経営に過剰に介入する事が無かったからです。GMは1998年に出資比率を49%に引き上げ提携関係は2006年まで35年間も続きました。GMは2000年以降業績が悪化し益出しの為に提携先自動車メーカーの株式を次々に売却する中で2006年にいすゞの株式を売却して提携関係が終了しました。
話を戻すと1971年のGMとの提携後いすゞはGMの小型車戦略を担う事となり共同開発したジェミニは日本でも人気を博しました。
しかしいすゞの乗用車部門は苦戦が続き1992年に社長に就任した関和平氏が就任直後に乗用車自社生産・開発からの全面撤退を決断しました。関社長は名門の誇り故に手放せなかった乗用車部門を切り捨てる決断をしたのです。最大の関門は乗用車の供給先でもある筆頭株主GMの説得でした。関社長は自らGMのジョン・スミスCEOにいすゞの強みがどこにあるかを示して説得しました。名門の誇りより身の丈の強みを選んだこの決断が後年の商用車とディーゼルエンジン専業としての再生に繋がりました。
乗用車撤退後もいすゞはGMのピックアップトラックのグローバル戦略を担い続けました。現在日本ではいすゞのピックアップトラックは販売されていませんがタイをマザー工場として全世界で年間約30万台を販売しています。以前の投稿"5大総合商社の歴史と今"でお話しした通りタイでは自動車販売の6割をピックアップトラックが占めておりいすゞはタイにおけるピックアップトラックのトップシェアです。
GM傘下でもう一ついすゞが担っていたのがディーゼルエンジンでした。GMは小型・中型のディーゼルエンジンの技術が弱かったのですが欧州ではディーゼル乗用車の需要が伸びていました。いすゞは1999年にポーランドのディーゼルエンジン工場で生産を開始しGM傘下の欧州ブランドであるオペル/ボクスホールの乗用車向けに供給します。
2000年には米国オハイオ州に設立されたディーゼルエンジンの製造・販売合弁会社DMAXが操業を開始しいすゞが新開発した6.6LV8直噴ディーゼルエンジンがGMのシボレー・シルバラードやGMC・シエラに搭載されました。
いすゞはポーランドのディーゼルエンジン工場は2013年にDMAXの持ち分は2022年にGMに売却しました。
2000年代に入り国内のトラックメーカーにも様々な動きがありました。ここからは日野自動車・三菱ふそう・日産ディーゼルの動きも含めてお話ししたいと思います。2000年当時トップシェアは日野自動車で2位と3位はいすゞと三菱ふそうが争っており日産ディーゼルは4位でした。日野自動車はトヨタが33.8%の株式を持っており三菱ふそうは三菱自動車のトラックバス部門で日産ディーゼルは日産とルノーが22.5%ずつ株式を保有していました。当時外資の傘下にいたいすゞと日産ディーゼルから外資が外れて逆に外資が入っていなかった日野と三菱ふそうがダイムラー25%になったのは歴史の不思議ですね。
1999年3月にルノーが日産の株式の36.8%を取得していたので日産はルノーの傘下に入っていました。
ルノーは日産ディーゼル支援の為に第三者割当増資によって22.5%の株式を取得し経営再建後の2005年にJPモルガンに一括売却しました。2006年日産は経営資源を乗用車及び小型商用車に集中させる為に日産ディーゼルの持株をボルボに売却します。
ボルボは翌2007年の公開買い付けで日産ディーゼルの株式の約96%を取得し残りの株式も取得する手続きを進めて2010年に社名をUDトラックスに変更しました。
余談になりますがボルボが乗用車部門を切り離した経緯についてここで触れておきたいと思います。独特の角ばったスタイルで一定のファンを獲得していたボルボの乗用車でしたが年間生産台数は約40万台程度で単独で開発投資を続けるのは難しい状況でした。
ボルボは世界的に強みを持っていたトラック・バス・建設機械等の大型商用車部門に経営資源を集中させる道を選び1999年に乗用車部門をフォードに売却したのでした。ボルボはこの売却で得た豊富な資金を元手にルノーのトラック部門や日産ディーゼルを次々と買収し世界大手の商用車グループへと上り詰めていく事になります。
2000年代のもう一つの出来事が三菱自動車のリコール隠し事件です。1990年代後半三菱自動車は業績が悪化し自力再建の限界に達して2000年3月ダイムラークライスラーが株式の34%を持つ資本提携に踏み切るのですがその直後の7月に運輸省の監査で大規模なリコール隠しが発覚します。
リコール隠し発覚でブランドが毀損し国内販売が激減した三菱自動車は財務立て直しの為に2003年に商用車事業を切り離して三菱ふそうを子会社化します。出資比率はダイムラークライスラーが43%で筆頭株主、三菱自動車が42%、三菱グループが15%となりました。ところが2004年に三菱ふそうで前回のリコール隠しをさらに上回る74万台ものリコール隠しが発覚します。
ダイムラークライスラーはこれを契機として三菱自動車から撤退するのですが三菱ふそうについては三菱自動車の持ち分を買い取る形で子会社化します。
一方のいすゞは2019年にボルボと商用車分野での戦略的提携に関する覚書を締結するとともにボルボが保有するUDトラックスの全株式を取得する事を発表します。
ボルボとの戦略提携に踏み切った一番の理由は自動運転や電動化などCASEと呼ばれる先端技術への対応でした。
さて最後の1社は日野自動車です。日野自動車は1966年にトヨタと業務提携し2001年に第三者割当増資によりトヨタの子会社になるのですが2022年に社内調査によって日本国内向けエンジンの排出ガスや燃費の不正が発覚します。
型式指定の取り消しによって大半の製品が出荷不能となり経営危機に追い込まれた日野自動車は2023年三菱ふそうとの統合に関する基本合意書を両社それぞれの親会社であるトヨタ・ダイムラーも交えた4社で締結し2026年にトヨタとダイムラーが25%ずつ出資するARCHIONの傘下となりました。トヨタは商用車の日野を単独で支え続ける事は難しいと判断した様です。
以上が日本のトラックメーカーがいすゞ・UDと日野・三菱の二つの陣営となった紆余曲折です。1971年にGMと提携して支援を受けたいすゞでしたが1992年に関社長が下した乗用車自社生産・開発からの全面撤退の決断が日本のトップメーカーとして世界の大手トラックメーカーと伍して戦う現在の姿に繋がっていると思います。冒頭でご紹介した2008年にお話を伺った旧ソ連・東欧地域の責任者の方も前例にとらわれず素早く決断するという点で関社長に通じるものがありますね。
さて今回のいすゞ自動車についてのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。
技術革新が圧倒的なスピードで進んで行く現在トラックメーカーも乗用車メーカーも様々な決断を迫られています。10年後20年後の自動車業界はどの様な姿になっているでしょう。それではまた。
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