アンゲラ・メルケル「自由ー回顧録1954-2021」解説 - メルケルの政治哲学 -

13/02/2026

ドイツ

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今回は2025年に日本語版が出版されたアンゲラ・メルケルの回顧録「自由」についてお話ししたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/S9cF3LNUsSk

2005~2021年まで16年という歴代二番目に長い在任期間ドイツ連邦首相を務めたメルケルはドイツ国内でも国際舞台でも大きな存在感を発揮していました。ちなみに在任期間歴代トップはヘルムート・コールの16年26日でメルケルはそれより10日短い16年16日でした。あまりに長い在任期間だったので「ドイツでは子供が大人に『男でも首相になれるの?』と質問する」という笑い話がありました。

メルケルは"旧東ドイツ出身かつ女性"という連邦首相として二重に初めての存在でした。1989年のベルリンの壁崩壊の時に東ベルリンの科学アカデミー物理化学研究所の研究員だったメルケルは壁崩壊の直後から積極的に政治に関わる様になり1990年12月に実施されたドイツ統一後最初の連邦議会選挙に与党キリスト教民主同盟(CDU)から立候補して初当選を果たします。初当選の時メルケルは36歳でした。

メルケル初当選時の様子

今回は上下2巻700ページを超える回顧録の中から印象に残ったポイントをご紹介したいと思います。この回顧録を読んで一番印象に残ったのはメルケルが"何を信条として決断してきたのか"でした。

一つ目は難民問題に関する部分です。以前の投稿"移民国家ドイツ"の最後で「メルケルの難民受け入れの決断とその後のドイツの状況についてはまた機会を改めてお話ししたい」とお伝えしました。今回ご紹介するこの部分は"移民国家ドイツ"の続編にあたります。

回顧録の難民受け入れに関する記述の冒頭にあるのが2015年4月に発生した難民船の転覆事故です。数百人の難民を詰め込んでリビアからイタリアに向かっていた小型船が地中海で転覆しました。700人以上が亡くなり生存者は28人のみでした。事故の発生は4月18日(土)から19日(日)にかけての夜でした。

ランペドゥーザ島南方で救助されイタリア・シチリア島に到着した難民

メルケルは、ドイツ統一以前の1986年に購入した、ベルリンの北約80kmの、ホーエンヴァルデ村にある自宅で、夫ヨーアヒムの66歳の誕生日を祝っていたのですがのんびりと休日を過ごしていたメルケルの携帯に電話をかけてきたイタリアのレンツィ首相は臨時欧州理事会会合の緊急開催に対する支持を求めます。

レンツィ首相

レンツィ首相は「イタリアをひとり見捨てないでほしい」と訴えたのです。この訴えの背景にあったのは欧州共通庇護制度(Common European Asylum System:CEAS)でした。この制度では「難民申請の審査は原則としてその難民が最初に到達したEU加盟国で行う」と定められています。

難民が最初に到着するのは殆どの場合EUの対外国境に接する外端の国々です。なのでドイツを含むそれ以外の国々はシェンゲン協定によって国境管理の無いEUのメリットを享受しながらEUの対外国境で起きている事に心を砕く必要が無かったのです。

日本の県境のようなドイツ・オランダ国境

レンツィ首相の希望通り事故の4日後にブリュッセルで欧州理事会の臨時会合が開催されました。メルケルは「この会合には"イタリアをひとりにはしない""欧州の門前で起こった死を無視してさっさと日常に戻ったりはしない"という事を示す象徴的な意義があったが問題を根本から捉えてその解決を図るものではなかった」と述べています。

難民増加の原因として挙げられているのが"アラブの春"と"シリア内戦"です。リビアでは2011年夏にカダフィの独裁体制が打倒された後、国内が崩壊状態に陥り、密航業者や密入国斡旋業者がエリトリアやソマリアといったアフリカ諸国からの難民をリビア沿岸から欧州に密航させ易い状況が生まれていました。

2011年のシリア内戦では数百万人のシリア人が祖国を離れレバノン・ヨルダン・トルコに逃れました。トルコに逃れた難民だけで300万人以上でした。都道府県人口ランキング11位の茨城県の人口が287万人ですから茨城県人全員より多くの人々がトルコに流入した感じですね。

彼等は当初すぐに祖国に戻れるものと希望を抱いていたのですが2014年にはその希望も消え続々とトルコからエーゲ海とギリシャを経由して欧州北部の国々を目指しだしたのです。難民は突然押し寄せた訳ではなく"アラブの春"と"シリア内戦"以後徐々に増えて来たのでした。

メルケルの回顧録では触れられていませんが2015年9月2日にトルコ沖で難民を乗せた船が転覆した後、海岸に打ち上げられた男児の遺体を写した写真が全世界で大きな反響を巻き起こしました。

回顧録でもう一つ挙げられている悲劇がオーストリアの高速道路の路肩に停められたトラックの中から何十人もの難民が遺体で発見された事件です。密閉された貨物室の中で窒息死したのでした。命を落とした71人はアフガニスタン・イラク・イラン・シリア出身でオーストリアとドイツに向かう為に密入国斡旋業者を頼った人々でした。

メルケルがこの事件を知ったのは2015年8月27日ウィーンでEU・西バルカン首脳会議に出席していた時でした。EU・西バルカン首脳会議とはEU加盟を目指すアルバニア・ボスニアヘルツェゴビナ・コソボ・モンテネグロ・北マケドニア・セルビアとEUが定期的に協議する会議です。

大量の難民が経由地である西バルカンの国々に特に大きな影響を及ぼしているという点が話し合われていた時にオーストリアのファイマン首相が自分の携帯電話に入って来た知らせをメルケルに見せたそうです。

向かってメルケルの右隣がファイマン首相

2015年8月31日に実施された定例夏季記者会見でメルケルは8月21・22日にドレスデン郊外の難民一時受け入れ施設への反対デモが暴動に発展した事件を受けて人間の尊厳は不可侵であると定めたドイツ基本法第1条の意義について強調しました。少し長くなりますがその部分を引用します。

ドイツ国民であるかどうか、どういった理由でどこからこの国にやってきたのか、最終的に難民申請が承認される見通しがあるかどうかに関わらず、私達は全ての人に対して、その人の人間としての尊厳を重んじます。他者に暴言を吐いたり、攻撃したり、宿舎に放火したり、暴力を振るったりする人々に対しては、法治国家として断固たる姿勢で立ち向かいます。憎悪を煽るデモを呼びかける人々と戦います。他者の尊厳を疑問視するような人々を、決して許しません。

メルケルは続いて政府としての具体的な取り組みについて説明し最後に「ドイツは強い国です、私達なら出来ます」として締め括りました。この「私達なら出来る」というフレーズが現在に至るまで「ドイツが世界中の全ての難民を受け入れようとしているかの様に誤解される可能性がある」と批判されている事をメルケルは愚痴っています。

回顧録には他にも自分に向けられた批判に関するホンネを言っている部分が多くあります。

「決断」と題された章では2015年9月4日にメルケルが決断した難民受け入れについて詳細が述べられています。その日に大勢の難民がハンガリーとオーストリアの国境を目指してブダペストの高速道路上を徒歩で移動し始めました。

ハンガリーのオルバン首相は以前から欧州に流入する難民の公正な受け入れ分担を目的としたあらゆる割り当てルールに公然と反対していました。

ハンガリー当局は一旦は難民に対してオーストリアやドイツに向かう列車の切符を買う事を許して旅立たせておきながら、臨時の難民収容所に収容する為に途中で列車を止めて難民達を強制的に降車させようとしました。難民達は自分達を列車から引きずり出そうとする警官隊に全力で抵抗し警官隊も一時は已む無く撤退する事態となっていました。

メルケルはこれらの出来事で1989年にプラハに殺到した東ドイツ市民の光景を思い出したと言っています。

1989年9月プラハの西ドイツ大使館に押し寄せた東ドイツ市民

ハンガリーで1988年に国外旅行が自由化され無用の長物となったオーストリアとの間にある有刺鉄線の国境柵を1989年5月に撤去した為、大勢の東ドイツ市民がチェコスロバキアからハンガリー経由でオーストリアに出国し西ドイツに亡命したのでした。

ハンガリーとオーストリアの国境に設置されていた鉄条網を切断・撤去するハンガリーのホルシ外相とオーストリアのモック外相

メルケルはオーストリアのファイマン首相からの電話で難民が高速道路を歩きだした事を知ります。ファイマン首相はオーストリアとドイツで難民を半分ずつ引き受ける事を提案します。メルケルは外務大臣に連絡してファイマン首相の提案を受け入れる決断を下す事に法的な問題が無いか確認するよう指示してから連立を組むSPD党首及びCSU党首と協議する為に両者に連絡を入れます。SPD党首のジグマール・ガブリエルは難民引受に賛意を示すのですがCSU党首のホルスト・ゼーホーファーとは最後まで連絡がつきませんでした。

ジグマール・ガブリエル

ホルスト・ゼーホーファー

そうしている間にもハンガリーではオルバン首相が難民をオーストリア国境まで輸送する為のバスを用意させていました。

しかしここでもオルバン首相は国境が絶対である事を示す為にハンガリーのバスが国境を超える事に反対し、難民を国境でオーストリア側のバスに乗り換えさせるよう要求しました。メルケルはゼーホーファーと連絡がつくのをこれ以上待てないとして難民の受け入れを決断します。

翌日のドイツ各地の駅では大勢の人々がハンガリーからオーストリアを経由してドイツに到着した難民を出迎えました。この難民歓迎の動きは「ウェルカムカルチャー」と呼ばれました。

翌日の朝に漸く電話が繋がったCSU党首のゼーホーファーは「この決断はとりかえしのつかない過ちだ」と言いました。CSUはCDUと統一会派を組む姉妹政党なのですがメルケルは最後までゼーホーファーとウマが合わなかった様ですね。

決断から6日後にベルリンの難民受け入れ施設を訪れたメルケルはシリアからの難民の求めに応じて一緒に写真に写ります。

メルケルが写真の中で友好的な表情を浮かべた事で「大量の難民がドイツに押し寄せる」と批判する人々がいた事についてメルケルは反論しています。メルケルは難民受け入れ施設訪問の5日後の記者会見で一人の記者から「難民受け入れに過剰に前向きな姿勢を示す政治的シグナルを発した事で更に多くの難民がドイツを目指す事となり結果として押し寄せる難民の波が拡大したのではないか」という質問を受けます。メルケルは難民受け入れの決断の翌日にドイツ各地の駅で難民を歓迎するドイツ国民の姿が世界を感動させた事に触れて「苦境の中で友好的な表情を見せた事を謝罪しなければいけない様になったならそれは私の国ではない」と答えました。

この「それは私の国ではない」に"もはや"の一語が加えられた「それは"もはや"私の国ではない」がしばしば引用されて批判の的となりました。「メルケル首相はこの国が自分の期待に"もはや"そぐわなくなったらドイツを見放す事も考えられると示唆した」と主張されたのです。5年後にはシオニズム運動の機関紙の日曜版に「メルケルが生まれながらのドイツ連邦共和国人・欧州人ではなく見習いのドイツ連邦共和国人・欧州人である事が垣間見えた瞬間」と書かれました。メルケルは東ドイツ出身という経歴が自分の不利に働く場面を度々経験してきたと言います。

回顧録ではトーマス・デメジエール内務大臣の「重要なのは危機に瀕している地域への現地支援を通じて難民キャンプからそしてシリアやイラク本国からこれ以上多くの人々が離れていくのを防ぐ事です」という発言が引用されています。この難民キャンプが存在する支援先として最も重要な国の一つがトルコでした。前述の通り2011年にシリア内戦が始まって以来トルコは300万人を超える難民を受け入れていました。

メルケルの決断から19日後の9月23日に欧州各国の首脳は欧州理事会の非公式会合を開催してトルコとの対話を強化する事を決議します。10月5日にはユンケル欧州委員会委員長・トゥスク欧州理事会議長・エルドアン大統領がブリュッセルで会合を行い難民政策において協働していく為EU・トルコ共同行動計画を策定する事を取り決めその行動計画草案は10月15日に欧州理事会で合意されました。

左からエルドアン大統領・トゥスク欧州理事会議長・ユンケル欧州委員会委員長

メルケルはその3日後にイスタンブールでエルドアン大統領と会談して行動計画の速やかな実施を確認し併せてトルコ市民に対するビザ自由化に向けた二国間協議の開始で合意しました。

このメルケルのイスタンブール訪問は激しく批判されました。人々はメルケルに対して「難民の数を減少させる為に出来る事は全てやれ」と求めると同時に「但しトルコの独裁者と協力するのはごめんだ」と言ったのです。人々はトルコとの協定を"汚いディール"と呼びました。

メルケルは回顧録の中で次の様に語っています。

私達の考える民主主義や法治国家の概念と一部或いは全く相容れない様な国家とは協定を結ぶ事自体を拒否するという姿勢では私達は何一つ成し遂げる事は出来なかった。

私がこの話を聞いて連想したのはプーチンと対峙したメルケルです。回顧録の中で語られているメルケルとプーチンの関係については後述します。

多くのドイツ人が難民を歓迎した「ウェルカムカルチャー」の歓迎ムードは2016年初めの時点で終わりを迎えました。2015年の大晦日から元日にかけてケルン中央駅とケルン大聖堂前の広場でアラブ人と北アフリカ人を主体とした千名以上の男達によって女性に対する集団性的暴行・強盗事件が繰り広げられたのです。

現地警察は当初元日の朝に年越しの状況について肯定的に総括し「大晦日は総じて平穏に祝われた」と発表していたのですがそれから数日のうちに窃盗・傷害・性的暴行による被害届が主に女性から続々と警察に入って来るに至って初めて事件の全容が明らかになりました。事件の報道が遅れた事は「国は何かを隠蔽しようとしている」という印象を生み出してしまいました。

この事件の後、連立を組むCSU党首のゼーホーファーはメルケルに対する攻撃を強めます。ゼーホーファーは新聞のインタビューで「現在の状況は"無法の支配"です」と言います。"無法の支配"はCSUが東ドイツなど独裁国家に対して使ってきた表現でした。新聞は「ゼーホーファーはメルケル首相を無法国家の独裁者と同類だとしたのだ」と解説しました。メルケルは「無法国家だった東ドイツ出身の女性を統一ドイツのトップとしては信頼出来ないと言うのと同じだ」と言います。

さてここからは回顧録の中でメルケルが"独裁者とどう向き合うか"を象徴する人物であるプーチンに触れた部分についてお話しします。回顧録でプーチンが最初に登場するのは2007年にドイツ・ハイリゲンダムで開催されたG8サミットに関する記述の部分です。ハイリゲンダムはメルケルの選挙区がある旧東ドイツのメクレンブルク=フォアボンメルン州にあるのですが、開催地の決定はメルケルの前任のシュレーダー首相の時に為されたものでした。

ハイリゲンダムのG8サミットの晩餐会の前に屋外で首脳達が歓談しながら食前酒を飲んでいたのですがプーチンがなかなか現れませんでした。プーチンは45分遅刻したのです。回顧録ではメルケルが主催者として気をもんでいた事が書かれています。

この出来事の記述の後に書かれているのはハイリゲンダムG8サミットの前年にシベリアのトムスクで開催された第8回独露政府協議の事です。

その時にメルケルはプーチンにディナーに招待されたそうです。同席したのは両者の外交顧問だけで通訳は同席しませんでした。メルケルは日本の高校生にあたる時期にロシア語コンテスト(オリンピアード)で優秀な成績を修めていたのですが、1980年代にKGBの将校としてドレスデンで勤務していたプーチンのドイツ語の方がメルケルのロシア語より上手だったそうです。独露政府協議はメルケルの前々任のコール首相が1998年にロシアとの「戦略的パートナーシップ」の枠組を強化する為に開始したものでした。ディナーの翌日に開催されたフォーラムには両国の経済界代表者が参加してエネルギー関連の他、多くの経済協力が話し合われました。

2007年1月にはメルケルはソチにあるプーチンの邸宅を訪れるのですがそこでプーチンに嫌がらせをされます。メルケルは1995年に犬に噛まれて以来、犬を恐れていました。プーチンは外国からゲストが来た時にコニーと言う名の黒いラブラドール犬を連れて来る事が多かったので、メルケル側からプーチン側に犬を連れて来ない様に依頼していました。

2006年1月にメルケルがモスクワを訪れた際にはプーチンはその依頼を聞き入れてラブラドール犬のコニーを連れて来ませんでした。代わりに「これなら噛まれる心配はない」というコメント付きでメルケルに大きな犬のぬいぐるみをプレゼントしたそうです。

モスクワではぬいぐるみだったのですが2007年1月のソチではプーチンは会見場所に本物のラブラドール犬のコニーを連れて来たのです。メルケルの反応を楽しんでいる様子だったプーチンについてメルケルは「彼は追い詰められた人間の反応を試そうとしたのだろうか?ちょっとした権力の誇示だったのか?」と書いています。

回顧録では2007年に開催されたミュンヘン安全保障会議でのプーチンの演説についても触れています。ミュンヘン安全保障会議は国際安全保障政策に関して1963年から毎年開催されている会議で「対話による平和」というテーマのもとNATOやEUの加盟国に加え中国・インド・日本・韓国等の国からも政治家や外交官、軍や安全保障の専門家が招待され安全保障や防衛政策の課題を議論します。過去にはロシアも参加しており2007年にはプーチンが演説を行い物議を醸しました。

以前の投稿"JDヴァンス"ではプーチンの演説同様に物議を醸したミュンヘン安全保障会議におけるヴァンスの演説についてお話ししています。

ミュンヘン安全保障会議の演説でプーチンは一極世界について語りました。そして「国際法の基本原理が軽視され米国の規範があらゆる分野で他の国々に押し付けられている」と言います。メルケルはプーチンが自己を正当化しようとしてモルドバやジョージアの紛争に全く触れないのに怒りを覚えつつも一方で「プーチンの演説には全く的外れとは言えない部分もあった」と言います。2026年の米国のベネズエラ攻撃に対してもロシア外務省は非難する声明を出していましたね。

メルケルは「ミュンヘンでの演説で見せたプーチンの姿は私が良く知る彼の姿だった」と言います。その姿を「ぞんざいに扱われたくないと言うただそれだけの理由で常に警戒の目を光らせいつでも相手をやり込めようと狙っている人物、その為ならば犬をちらつかせたり相手を待たせたりといったパワーゲームも辞さない」と表現します。

そして「そんな彼の姿を人は子供じみて不快だと感じるかもしれないがそれでロシアという国が地図から消えて無くなる訳ではない」と続けます。このコメントはメルケルがエルドアン大統領と難民対策を協議した時のコメントを想起させます。

メルケルは2014年のロシアのクリミア侵攻後の電話会談でプーチンとの関係が決定的に変わったと言います。メルケルは国際識別標の無い緑色の軍服を着た武装集団はロシア兵であるというドイツの認識を伝えたのですがプーチンはそれを否定しました。メルケルは「直ぐ後に判明する通り彼は公然と嘘をついたのだ。この様な事は私達の対話においてこれまでに無かった事だ」と言います。

一方でメルケルは「私はプーチンとの接触を断つ事はしなかった。それは私にとって現実的な選択肢ではない」と言います。その言葉通りメルケルは2021年8月に別れの挨拶も兼ねてモスクワを訪問してプーチンと面談しています。

メルケルは「首相就任の前から20年以上に渡ってプーチンと顔を合わせて来た」と振り返り「その20年を通じてプーチンとロシアは西側諸国に対する寛容でオープンな態度から、我々との乖離、そして最後には態度の完全な硬化へと変わっていった」と言います。そして「様々な問題があったものの自分の任期の終わりまでロシアとの関係を維持したのは正しい事だったと考えている」と続けます。

メルケルは「つながり合う世界」と題した章で「ドイツの利益を代表する為には私は自分の掲げる法治国家と人権の概念に合致するか否かで世界の対話相手を選り好みする事は出来ない」と言っています。同じ章でメルケルがローマ教皇に謁見した際に教皇から「曲げて、曲げて、曲げて、けれと折れない様にする」というアドバイスを貰ったという逸話が書かれています。

メルケルとフランシスコ教皇

さて今回のメルケルの回顧録のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。

最後にメルケルの回顧録を読んで初めて知った「AfD:ドイツのための選択肢」という党名の由来についてお話しします。メルケルが金融危機とユーロ危機のさなか(最中)のユーロ安定化政策について「他に選択の余地は無い」と言ったのでメルケルのユーロ安定化政策を否定していたAfD創立者達がメルケルの発言をもじって「ドイツのための選択肢」という党名にしたという事です。

メルケルの回顧録「自由」にはメルケルの幼少時代からベルリンの壁崩壊までの東ドイツでの暮らしやユーロ危機対応ノルドストリーム1&2・脱原発・トランプ大統領との関係その他、今回触れられなかった興味深い話が満載です。また機会を見てそれらについてもお話ししたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/S9cF3LNUsSk

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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