今回は2008年8月に起こったロシア・グルジア間の紛争についてお話ししたいと思います。
本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。
この紛争の後にグルジアはロシアとの国交を断絶し2014年10月に来日した当時のグルジア大統領が、国の呼称をロシア語読みのグルジアから英語読みのジョージアに変えて欲しいと依頼したのを受けて、日本では2015年4月からジョージアという呼称が使われていますが今回は2014年より前の出来事が話の中心になる事もあってグルジアの呼称を使う事とします。
ちなみにビートルズがホワイトアルバムの1曲目Back in the USSRの中で"Georgia's always on my mind"と歌っているのは米国ジョージア州の州歌である"Georgia on My Mind"とグルジアを引っ掛けたジョークです。
現地語の正式国名はサカルトベロ(Sakartvelo)と言うのですがそれを国際的な呼称とはしていない様です。
2008年8月7日に始まったロシア・グルジア間の紛争は当時EU議長国であったフランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ、8月15日にはグルジアが首都トビリシで8月16日にはロシアがモスクワで署名に応じて休戦となりました。グルジア紛争の直後の8月26日にロシアは紛争の原因となったグルジア領内の自治領であった南オセチアとアブハジアの独立を承認し、それを受けて8月29日にグルジアがロシアとの国交断絶を宣言します。
8月21日から22日にかけて米国・ドイツ・ポーランド・スペインの各国海軍の艦艇がボスポラス海峡を通って黒海に入り演習を実施しました。NATOは「これら艦艇の派遣は2007年10月時点で計画されていたものであり今回の紛争とは関係無い」との声明を発表しました。
欧米各国はロシアを非難はしたものの制裁を科す事はしませんでした。責任を追及する余りロシアを追いつめ国際的に孤立させても西側が得るものは少ないと考えた様です。各国がロシアとの経済的な利益を優先した為とも推察出来ます。
当時のロシアは2000年に大統領に就任したプーチンによって1991年のソ連崩壊以降続いていた混乱を脱して経済を急激に拡大していました。2003年にゴールドマンサックスがBRICsという言葉を初めて用いてブラジル・ロシア・インド・中国の4カ国の経済成長について論じた事からロシアへの注目度が一気に高まり、急激に拡大するマーケットを目指して日本を含む西側諸国の企業が雪崩を打ってロシアに進出していたのです。
私は2008年4月にモスクワに着任していたのですがその直後に起こったグルジア紛争は当時のモスクワの日本人の間で全くと言って良いほど話題になっていませんでした。紛争当事国であるロシアの首都に居た日本人駐在員でさえその状態ですから日本のマスコミが取り上げる事は殆ど無かったのではないかと思います。私自身は「チェチェン共和国で続いている紛争と同じ様な事が隣のグルジアでも起きた」という程度の認識でした。本当はロシア連邦内のチェチェン共和国へのロシア軍の侵攻と独立国であるグルジアへの侵攻は全く意味が違うのですが、残念乍らその時は急速に拡大するロシアマーケットに乗り遅れない様にする事で頭が一杯でした。
グルジアの駐日大使ティムラズ・レジャバ氏はロシアのグルジア侵攻とウクライナ侵攻に対する欧米各国の対応の違いの原因の一つとして"情報発信の違い"を挙げています。
さてここからはグルジアの歴史を見て行きたいと思います。グルジアと周辺の国々がある地域はコーカサスと呼ばれその中央のコーカサス山脈を境に北コーカサスと南コーカサスに分かれます。グルジアはアゼルバイジャン・アルメニアと共に南コーカサスに属します。
古代から人々が定住しており紀元前1世紀にローマ帝国の属領となった後、時代によってペルシャ・トルコ・モンゴル等の支配下となり最終的には帝政ロシアの一部となります。1914年に第一次世界大戦が始まるとロシア・トルコ国境に位置する南カフカス地域は最前線となりました。大戦中の1917年にロシア革命が勃発し1918年にグルジア民主共和国としてロシアからの独立を宣言するのですが、1921年に赤軍のグルジア侵攻によって首都を制圧されグルジア民主共和国は崩壊します。
1922年にグルジア・アルメニアおよびアゼルバイジャンを併合したザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国としてソビエト連邦に加盟しました。1936年にはグルジア・ソビエト社会主義共和国として直接のソ連邦構成共和国に昇格します。
この間自治を維持しようとするグルジア側の願望を抑え込んだのはスターリンでした。スターリンは"民族主義の害毒"を撲滅しソビエト体制の枠の中で国としての結束を固める事を目指したのです。グルジアの駐日大使ティムラズ・レジャバ氏によればスターリンはグルジアではロシア側の指導者になった裏切者と見られているそうです。
2008年の紛争の犠牲者の慰霊碑を設置する為に2010年にスターリン像をスターリンの出身地ゴリの中央広場から撤去しました。この撤去についてはスターリンを郷土の誇りと考える年配層の住民が反対して町を二分する議論が巻き起こっていたそうです。出身地でさえこの状態ですからグルジア全体では"裏切者"と言う見方が一般的なのでしょうね。
1989年4月に冷戦が終結しゴルバチョフのペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、その年の11月グルジア共和国最高会議で1921年のソビエト政権樹立を不法とする憲法改正が為されます。これは事実上の主権宣言となりました。
一方でソ連時代の末期にはグルジア人とグルジア内に居住する少数民族との関係が悪化しました。グルジア・ソビエト社会主義共和国はその内部にアブハジア・南オセチア・アジャールという3つの自治地域を抱えており、グルジア民族主義とアブハジア民族主義・オセチア民族主義との間には夫々対抗関係があったのです。
1991年3月31日国民投票で独立を承認し4月9日グルジアはソ連の承認を得ないまま独立を宣言します。従来の"主権宣言"がソ連の一部という前提の基に国家の権限分配を主たる問題にしていたのに対して"独立宣言"はソ連からの完全独立を謳うものでした。グルジアの独立宣言より前の1990年3月に独立を宣言したリトアニアは1991年1月にソ連軍の侵攻を受けていましたが、ワルシャワ条約機構が1991年3月に軍事機構を廃止していた事から(正式解散は1991年7月1日)グルジアはソ連軍の侵攻を受けずに済んだのではないかと思います。ちなみにリトアニアを含むバルト三国は1991年8月のモスクワクーデターの直後に揃って独立しています。
モスクワクーデターは1991年8月20日に予定されていた新連邦条約の正式調印を阻止する為に前日の19日に保守派が起こしたクーデターです。ゴルバチョフは形式的には連邦制ですが実際には中央集権体制だったソ連をより緩やかな国家連合へと再編する事で崩壊の過程を辿っていた連邦を維持しようとしたのですが、この新連邦条約に反対する保守派が正式調印を阻止する為にクーデターを起こしたのです。
ところが杜撰な計画のクーデターはたった二日で失敗に終わります。ホワイトハウス(ロシア共和国最高会議ビル)に立てこもり寝返ってホワイトハウスの護衛についた戦車の上に立って演説したエリツィンは人気を決定的なものにします。一方でクーデターの首謀者たちがゴルバチョフの側近だった為ゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼は失墜します。皮肉な事にこのクーデター未遂事件が却ってソ連の完全な崩壊に繋がる結果となるのです。
グルジア独立宣言の2ヵ月後の5月26日に行われたグルジア大統領選挙では古くからの反体制活動家として有名だったガムサフルディアが86%の得票率で大勝しグルジア初代大統領となります。ところがガムサフルディアは大統領に就任するとどんどん独裁色を強めて行きました。また彼の強い民族主義的姿勢はアブハジアと南オセチアの分離主義を却って助長しました。
1991年12月ベラルーシのミンスクにロシア・ウクライナ・ベラルーシ3カ国の首脳が集まりソビエト連邦の解体と独立国家共同体(CIS)の発足が合意されました。以前の投稿"ソ連崩壊の瞬間、モスクワの街にはビートルズが流れていた"でもお話ししましたが、私は偶々この合意が為された1991年12月8日に出張でモスクワにいました。モスクワクーデターの時の様に街に戦車が出て大騒ぎになるのではないかと慌てたのですがモスクワの街は意外なほど平穏でした。
CISの発足はカザフスタンのアルマトイで行われ旧ソ連を構成した11カ国が参加したのですがバルト三国とグルジアはCISに参加しませんでした。バルト三国はソ連とナチスドイツの間で締結された独ソ不可侵条約に付帯された秘密議定書に基づいてソ連が併合した地域ですのでその他の旧ソ連諸国とは位置付けが違います。元々の旧ソ連諸国の中ではグルジアだけがロシアに反旗を翻していたと言う事です。
古くからの反体制活動家として絶大な人気を誇っていた初代大統領のガムサフルディアでしたが、大統領就任後は政権運営に権威主義的手法を多用した事から次第に批判が強まります。1991年後半から反ガムサフルディア運動が盛んになり1992年1月6日軍事クーデターによりガムサフルディアは失脚します。彼は激しい戦闘の中トビリシの最高会議を抜け出して国外に逃亡しました。
反ガムサフルディア派の人々はモスクワにいた旧ソ連の外相でグルジア出身のエドゥアルド・シュワルナゼを指導者に招きます。シュワルナゼは外相としてゴルバチョフの新思考外交を推進したペレストロイカの立役者の一人です。1990年12月に方向性の違いからゴルバチョフと袂を分かって外相を辞任するのですがモスクワクーデター後の混乱収拾の為に再度外相に就任します。しかし残念乍らソ連崩壊を食い止める事は出来ず最後のソ連外相になりました。
1992年3月シュワルナゼはグルジア国家評議会議長に就任しグルジアの最高指導者となります。グルジアはシュワルナゼ政権の下で1993年12月にCISに参加しました。一方でガムサフルディアの強い民族主義的姿勢によって助長されたアブハジアと南オセチアの分離主義がシュワルナゼを悩ませます。この問題の出発点はグルジアのソ連からの独立でした。グルジアがソ連の一部だった時はアブハジアと南オセチアは自治州としてグルジアから一定程度独立した立場にあったのです。ところがグルジアがソ連から独立した瞬間からアブハジアと南オセチアは自動的にグルジアの一部になってしまった訳です。1991年9月に南オセチアはグルジアからの独立を宣言し翌年1月の住民投票ではロシアへの帰属に賛成する投票が大多数を占めました。
住民投票の翌月に州都ツヒンヴァリ周辺にグルジアの砲兵と装甲車両が配備されて砲撃を開始し南オセチア紛争が始まりました。紛争は1992年6月に停戦合意が成立し7月にはロシア・グルジア・南北オセチア混成の平和維持軍が導入され武装闘争は終結しました。
北オセチアは南オセチアと同じくオセチア人がマジョリティを占めるロシア連邦に属する共和国です。
アブハジアは1992年7月に独立を宣言しその直後からアブハジアとグルジアの間で戦闘が始まりました。戦闘は徐々に激しさを増して大規模な衝突が繰り返されたのですが1994年5月停戦合意が成立し現在は国連の平和維持軍が停戦の監視に当たっています。1992年9月アブハジア軍の攻勢によってグルジア軍が劣勢に立った時にシュワルナゼは、アブハジアの分離主義者に対して密かに軍事的な支援を行っているとしてロシアを非難しました。ところが1993年7月にアブハジア軍が州都スフミ奪還を目指して町を包囲した際にはシュワルナゼはスフミの町中に幽閉される事態となったのですがロシア海軍に助けられて脱出しました。
シュワルナゼ政権は漸進的で穏健な統治を推進していました。ロシアの支援を受けて事実上分離・独立状態にあるアブハジアや南オセチアにはグルジア政府の支配が及んでいませんでしたが、シュワルナゼはこのような状況に対して急進的・弾圧的な態度は取りませんでした。
一方でシュワルナゼ政権の穏健な統治は政権周囲の一派にグルジアの経済成長を阻害する汚職が拡大していく原因となりました。以前の投稿"最強の反社は警察 - ロシアの汚職(腐敗) -"でもお話ししましたが旧ソ連諸国には元々根深い汚職体質があるのです。ウクライナでも「徴兵を逃れたい希望者から賄賂を受け取り国外脱出を支援していたとして国内各地の徴兵担当者を解任した」というニュースがありましたね。依頼者が健康上の理由で兵役不適格との証明書を作成し併せてウクライナを出国する手順を指南して一人当たり6千~1万ドルを受け取っていたそうです。
シュワルナゼ政権下のグルジアではアブハジアや南オセチアに強硬な手段を用いない事や汚職の蔓延・電力やガスなどの供給不安・インフレ・失業の拡大等で国民の不満が高まります。2003年11月の議会選挙でシュワルナゼ大統領と野党勢力が対立するのですが、シュワルナゼはなりふり構わぬ多数派工作に努め与党グルジア市民同盟に野党勢力も取り込んだ"新しいグルジア"が辛うじて勝利します。ところが出口調査等によって不正選挙疑惑が浮上しミハイル・サーカシビリ率いる野党"グルジア国民戦線"が選挙の不正とやり直しを主張します。11月22日新議会が召集されたものの反対派議員はこれをボイコットし議会前には2万5千人の反対派市民が集結しました。議会で開会の辞が読み上げられるなか市民が議場に乱入、シュワルナゼは議場から逃亡し翌日大統領を辞任します。このグルジアの無血の政変は"バラ革命"と呼ばれます。
ドイツ統一の際に助けて貰った恩からドイツはシュワルナゼに亡命の受け入れを打診するのですがシュワルナゼはグルジアに残る事を選びました。
翌2004年1月の大統領選では野党統一候補のサーカシビリが圧勝します。2004年8月グルジア国軍が南オセチアのツヒンヴァリ付近に進入しロシア軍の支援を受ける南オセチア自治州軍との間で銃撃戦が起こります。
ロシアとグルジアの対立は頂点に達し2006年ロシアはグルジアからのワイン輸入を禁止します。なので私がモスクワに駐在していた時にグルジア料理レストランやスーパーマーケットで目にしたものはオセチアワインという名称になっていました。グルジアから密輸入されるグルジアワインにオセチアワインというラベルを貼っているという話がありました。
圧倒的な人気で大統領となったサーカシビリでしたがその後は強権的な言論弾圧や政敵排除で徐々に人気を失って行き、2007年11月以降グルジア国内でサーカシビリの大統領辞任を求める大規模デモが展開されます。
反政府デモ隊と治安当局の衝突により500人以上の負傷者が出た事を受けサーカシビリは非常事態令を発令するのですが、デモを武力で排除する等の強権的な手法に対し国内外から批判が強まります。サーカシビリは国民の不満を受けて次期大統領選挙の前倒しを宣言し11月25日に大統領を辞任、翌年1月の選挙で再選を果たすのですが選挙の公平性には疑問が持たれました。反露・親欧米路線のサーカシビリ政権の後ろ盾だった米国も民主化の後退との印象を持ち始めていました。
2008年8月7日グルジアが南オセチア自治州へ軍事侵攻し同日の記者会見で同地域の大半の制圧と州都ツヒンヴァリの包囲を宣言します。
これに対し同州の独立を後押しするロシアは強く反発し増援部隊を派遣するとともにトビリシへの空爆を実施します。紛争は8月15日の停戦まで続き最終的にグルジア軍が南オセチアから撤退しロシア軍が南オセチアを含む地域を一時的に占領しました。
8月12日に当時EU議長国であったフランスの仲介で休戦提案が為されると、これを受けてサーカシビリはトビリシの議会前で数千人の支持者を前に「ロシアは我々を跪かせようしたが出来なかった」と演説し、CIS脱退の意向を表明、8月14日にこの提案を議会側が承認しました。
米国のブッシュ大統領とその取り巻きのネオコンの支持を強化しようとする意図も在ったのではないかと思います。ところがサーカシビリが関係強化を図った共和党の大統領候補マケインは民主党のオバマに敗れ計算が狂います。
また国民の人気を高めるつもりで始めた紛争でしたが逆に多くの戦死者を出して批判されました。初めは「軍事行動を起こしたのはロシアだ」と言っていたのですがEUからの委託を受けて独立委員会が行った調査では、紛争の直接の原因はグルジア軍の攻撃であったと認定されサーカシビリ自身も「紛争はグルジアから仕掛けた」と発言するに及んで求心力が弱まりました。
2012年10月グルジア議会選挙で野党連合"グルジアの夢=民主グルジア"が勝利し同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシビリが首相に指名されます。2013年10月の大統領選挙では"グルジアの夢"が推薦した候補が圧勝しサーカシビリは退任します。"グルジアの夢"はロシアとの関係改善を進める一方でEU及びNATOへの加盟を目指すとしています。
グルジアはウクライナとモルドバに続いてEU加盟申請を行い2023年12月欧州理事会はグルジアに対してEU加盟候補国のステータス付与を決定しました。ところが2024年5月外国の資金提供を受けるNGOなどを事実上"スパイ"と見なす法案がグルジア議会で可決され成立します。EUは民主化に逆行すると法案を批判しておりグルジアの加盟プロセスが頓挫すると予想されています。ロシアにも同様の法律がある為この法案は"ロシア法"とも呼ばれています。議会前には採決に反対する数千人のデモ隊が集結し警官隊と衝突して混乱しました。
私が推測するにグルジアの人々の希望は東欧の国々の様に自由で豊かな普通の欧州の国になる事なのだろうと思います。その為には有能でバランス感覚に優れたシュワルナゼをなるべく長く大統領の座に留めるのが良かったのではないかと思うのですが、グルジアの人々はシュワルナゼを追い落として米国のネオコンとがっちり組んだサーカシビリを大統領に選びました。そのサーカシビリを追い落とした後にはソ連崩壊後の混乱で財を成したオリガルヒの一人であるイヴァニシビリの率いる"グルジアの夢"に政権を預け親露傾向が強まって欧米との距離が出る事になります。
ちなみに2013年に大統領を退任したサーカシビリは翌2014年にウクライナのマイダン革命で政権を奪取したポロシェンコ大統領の顧問として招聘され改革に関する国際諮問評議会の議長に就任しています。
グルジアとウクライナの両方に関わっているもう一人の重要人物は米国のマケイン上院議員です。2008年のグルジア紛争は米国大統領選の真っ最中でマケイン上院議員は共和党大統領候補でした。8月12日にはロシアの"侵略"を非難しグルジア支持を表明する演説を行っています。
またマケイン上院議員のシンディ夫人は8月26日にトビリシに飛んでグルジア人避難民と面会しました。
マケイン上院議員はマイダン革命の直前の2013年12月にはキエフを訪問して外相及び野党代表者等と会談しその後独立広場における集会会場を訪問しています。
今になって振り返るとグルジアの紛争はウクライナ侵攻の前哨戦だった様に思います。西側諸国がグルジア紛争の後も深く関わり続けたらウクライナ侵攻は防げたかもしれません。
更にもう一つ思うのは1991年8月のモスクワクーデターが無くて新連邦条約の正式調印が為され緩やかな国家連合としてのソビエト連邦が維持されていたら今の世界はどうなっていただろうかという事です。グルジアもウクライナもチェチェンと同じレベルの国内紛争という事になります。ウクライナは紛争自体が起こっていなかったかもしれません。ウクライナ侵攻が起こらなければソ連はG8に留まっていたでしょう。だから"ソ連崩壊の悲劇"なのですね。ゴルバチョフの政権が維持されたらプーチンは登場しなかった可能性が高いと思います。プーチンは"ソ連崩壊の悲劇"とよく言いますが、それが無ければプーチンは大統領になっていなかったと言うのは皮肉ですね。「ソ連崩壊でプーチン大統領を生んでしまったのが悲劇」とも言えるかもしれませんね。
さて今回のロシア・グルジア間の紛争のお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。それではまた。