海の帝国 - ラッフルズの夢 - 東南アジアの成り立ちに関する考察

13/09/2024

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今回は2000年に中公新書で出版された白石隆氏の著書「海の帝国」を参考に東南アジアの成り立ちについて考えてみたいと思います。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/YgyDRqQcXMs

この著作の特徴は150~200年の時間の幅で東アジアの地域秩序を一連の構想と形成という観点から考察しているところです。政治学者は50年、歴史学者は500年の時間の幅でものを考えると言われますが、この著作はその中間に位置する訳です。

本書では第二次大戦後に米国が主導して東南アジアにおける地域秩序を形成するまでが述べられていますが、今回は第二次世界大戦で日本が"南進"を開始する以前迄とし、それ以降については機会を改めてお話ししたいと思います。

まずは19世紀初頭の東南アジアの状況を見てみましょう。当時の東南アジアは東アジアや南アジアと比べて遥かに人口の少ない地域でした。タイ(シャム)350万人、マレーシア(マラヤ)50万人、インドネシア(ジャワ他)1000万人、フィリピン250万人等と推計されています。当時の日本の推計人口は3000万人、中国は4億人、インドは2億人です。当時の東南アジア全体の人口は日本より少なかったと推測されています。

東南アジアは見渡す限り水と森の拡がる人口稀少地域で海上交通・河川交通の要路に港市(こうし)が成立し、生活しやすく土地の豊かな内陸部で水稲栽培を基礎に人口の集住が起こっていました。東南アジアは歴史的にそういった港市や人口の集住地があちこちにある"多中心"の地域だったのです。

更に興味深いのは欧州人が東南アジアにやって来るより遥か昔から中国人、アラブ人、インド人等が東南アジアへやって来ていた事です。


アラブ人やインド人が東南アジアにイスラム教やヒンズー教を広めました。日本人も江戸時代初期には朱印船貿易で東南アジアに行っていました。アユタヤに日本人町を作った山田長政が有名ですね。

朱印船貿易は徳川家光の時代に実施された鎖国によって終わります。その後はオランダが長崎の出島貿易を独占する事となりオランダ東インド会社は莫大な利益を得ます。

さてここからはシンガポールの建設者として知られるラッフルズについてお話ししたいと思います。私は2001~2002年にシンガポールに駐在した際のオフィスがラッフルズプレイスにあった事もあってラッフルズには親近感を覚えます。

シンガポール上陸地点に立つラッフルズ像

ラッフルズプレイス

ラッフルズは1781年に父親が船長をしていたジャマイカ沖の船上で生まれました。1795年14歳の時にロンドンで東インド会社職員に採用され1805年にペナンに赴任します。英国東インド会社は1786年にその地域を支配していたケダ王国からペナン島を賃借してプリンス・オブ・ウェールズ島と改名していました。ペナン島の中心部には今でもジョージタウンという名称が残っています。

プリンスオブウェールズ島

ラッフルズはロンドンからペナンに向かう船中でマレー語を修得、ペナンでは現地人を雇ってマレー諸王国の慣習や年代記等を収集してマレーの専門家になります。

1811年にはスマトラからジャワ・セレベスを経てモルッカ諸島に至る"マレーの王たち"への工作の責任者に任命されてマラッカに移ります。ラッフルズは1811年6月に東インド総督宛にマラッカ海峡からモルッカ諸島に至る東インドの海域における英国主導の新しい地域秩序構築を献策します。この案は英国がベンガル湾からオーストラリアに至る海域を完全に掌握するというものでした。

ところがナポレオン戦争の終結に伴う1815年のパリ条約締結によってマルタ・喜望峰・セイロンを獲得した英国はジャワ島をオランダに返還してしまいます。この返還によって英国は東インドへの関心を失ってしまいました。

1815年パリ条約締結

ちょうどこの頃からインド産アヘンが対中貿易最大の輸出品目となりました。英国が中国から茶と絹を輸入するのに支払う銀をインド経由で回収する為にインドからアヘンを中国に輸出した"三角貿易"ですね。その結果英国の目指す自国主導の地域秩序の軸はマレー半島の突端を北上して中国へ向かうラインへ変更されます。そこでポイントとなったのがマレー半島の突端にあるシンガポール島でした。

ラッフルズは1819年1月28日にシンガポール島を発見します。島の南端に流れ込むシンガポール川を遡りカンボンと呼ばれていた小さなマレー人集落のある場所に兵士や乗組員120人で上陸し、その地が天然の良港で飲料水も補給出来る所である事を知りました。

ラッフルズ上陸地点

当時のシンガポールは人口数百人の小さな漁村でした。シンガポール島はジョホール王国の領土に属し既にオランダの影響が及んでいました。ラッフルズはジョホール王国のスルタンが兄弟間で王位継承で争っている事を知り、その兄に接触してシンガポール川河口付近一帯を英国東インド会社領とする事を認めさせます。1819年2月6日に両者の間で条約が結ばれて英領シンガポールが誕生しました。

ラッフルズが現地のスルタンと協定を結んだ事に対してオランダは直ちに抗議しました。英国東インド会社もラッフルズの越権行為を非難しましたが結局ラッフルズの作り上げた既成事実がものを言い、オランダも反対を取り下げ英国東インド会社も承認したので1824年に新たにスルタンと契約が交わされてシンガポール全島が英国東インド会社領となります。

更に1826年にはペナン・マラッカ・シンガポールを合わせて海峡植民地(Straits Settlements)が編成されました。

現在でもシンガポール最大の新聞「ストレーツ・タイムズ」に名前が残っていますね。

ラッフルズは1819年のシンガポール誕生元年に都市計画の基本を定めます。シンガポールに居住する人々を様々なコミュニティに分けて夫々の居住地区を割り振るというものでした。ラッフルズ到来以前からシンガポール川沿いに住んでいた原住民はそのままにして、シンガポール川の左岸を政府地域、その北の教会と広場の向こうを兵営とし、欧州人地区は兵営の東とし中国人は全てシンガポール川の右岸に居住する事とされました。この都市計画には1823年に修正が加えられています。シンガポール川河口の右岸が商業地区と定められ中国人はもっと内陸に移されました。この商業地区が私のオフィスがあったラッフルズプレイスで中国人が移された所が現在も残るチャイナタウンです。またシンガポール川沿いに住んでいた原住民はチャイナタウンの更に西の海岸に移されました。シンガポール川左岸では欧州人地区の東にアラブ人地区とブギス人地区が定められました。これらは"アラブストリート"や"ブギスジャンクション"等の地名に残っています。

ちなみに私がシンガポールで住んでいたのは旧アラブ人地区にあるコンドミニアムでした。インド人地区はシンガポール川の上流地区に定められたという事ですがそれが現在のリトルインディアにあたるのかどうかは判りませんでした。

前述の通り当時の東南アジアは人口稀少地域で18世紀より遥か以前から中国人・アラブ人・インド人等が東南アジアへやって来て混血が進んでいました。更に言えば"マレー人"というのも欧州人が勝手に持ち込んだ概念でした。

マレー人

ところがシンガポールにおいては住民を分類する事によって民族的カテゴリーが生まれたのです。このカテゴリーは海峡植民地で採用され現在のマレーシア及びシンガポールで採用されている"マレー人""中国人""インド人"の分類の基となっています。そして"マレー人"は原住民であるというフィクションの下、例え到来したばかりの移民でもマラヤの"土地の子"になりました。これが今でもマレーシア政府のブミプトラ(土地の子)政策を支えるフィクションとなっています。

ラッフルズはシンガポールがマラッカ海峡の南の出口にあり東南アジア海域の真ん中に位置している交易拠点である事を重視していました。そこでラッフルズは他の港の支配者が入港税を徴収したのに対してシンガポールをどの国の船舶でも無税で自由に利用出来る自由貿易港としました。ラッフルズの構想通りシンガポールは東南アジアにおける自由貿易の中心として発展しました。

ここで問題が一つありました。自由貿易港では関税収入が入らないので海峡植民地政府は別の収入の道を探す必要があったのです。それが徴税請負収入でその大半はアヘン請負収入でした。

シンガポールの中国人アヘン喫煙者

貿易と並んでシンガポール建設の初期から成長した経済は胡椒とガンビルの栽培でした。ガンビルはつる性の樹木でその葉から採れるタンニンを主成分とする「ガンビル」は皮なめし・褐色染料・薬用等に使われます。

ガンビル

ガンビルエキス

また19世紀にはこの葉を煮込んで固めたものがタールの替わりに船板の継ぎ目の水漏れ防止に使われました。

中国人はラッフルズがシンガポールに到来する前から胡椒とガンビルの栽培を行っていました。中国からやって来た農園主が同じく中国からやって来た苦力を雇ってシンガポール島の内陸部で農園を開き中国市場向けに胡椒とガンビルの栽培を行っていたのです。これがラッフルズの到来後に大いに発展しました。農園が川に沿って次々と内陸部に開かれ1820年代には現在のオーチャードロードあたりで胡椒・ガンビル栽培が行われていました。

この胡椒・ガンビル農園で働く苦力の流入が現在のシンガポールの基になっています。1850年のシンガポールの人口は8万人でその62%が中国人でした。驚くべきは中国人の男女比率で1860年のそれは女1人に対して男14.4人でした。19世紀のシンガポールは出稼ぎ中国人の巨大なタコ部屋だったのです。

マラッカ出身の中国人は海峡植民地政府に一定の権利料を支払ってシンガポールにおけるアヘンの独占販売・賭博税の徴収等を請け負いました。中国人秘密結社がその下請けとなって胡椒・ガンビル農園で働く苦力にアヘンを販売し賭場を経営したのです。

中国人秘密結社のメンバー

この胡椒・ガンビル農園はどんどん拡大し1840年代頃迄には土地を求めてシンガポール島からマレー半島の南端ジョホールの地域、或いはシンガポールの南の今ではインドネシア領となっているリオウ諸島へと拡がって行きました。

海峡植民地は1858年の会社解散まで英国東インド会社の管轄下に置かれ、その後英国政府インド省の所管となり1866年に植民地省の管轄下となります。19世紀半ば迄は海峡植民地の範囲はシンガポール・マラッカ・ペナンのみに限定されていたのですが、その周辺地域の胡椒・ガンビル農園やスズ鉱山の権益を巡ってマレーの王の王位継承問題を発端としたマレー人・中国人が入り乱れる内戦が頻発する様になります。ちなみにこの当時に数多く存在したマレーの王国は人口2~3万人位の規模です。これらの内戦によって治安を脅かされた海峡植民地政府はマレー王国への介入を開始し最終的に英領マラヤとなって行きます。この様な流れで港市や人口の集住地があちこちにある"多中心"の地域だった東南アジアは国境線によって分割された植民地世界へと移行しました。

次に現在のインドネシアとなったオランダ領東インドについて見てみましょう。

前述の通りナポレオン戦争の終結に伴う1815年のパリ条約締結によって英国はジャワ島をオランダに返還しました。多くの植民地を持っていた英国にとって海峡植民地の重要性はさほど大きくはなかったのですが一方ジャワはオランダにとって最重要な植民地でした。ナポレオン戦争によって荒廃したオランダは1830年に工業地帯のベルギーが分離・独立した事で経済的危機が深刻になっていました。英国のような自由貿易体制を受け入れたらオランダに勝ち目は無かったのです。シンガポールが建設された1819年にバタヴィア(現在のジャカルタ)に到来した商船171隻の内、英国船62隻、米国船50隻に対してオランダ船はたった19隻でした。

一方でジャワには豊かな土地と500万人を超える人口がありました。オランダはジャワ全土を囲い込みジャワの農民に砂糖・インディゴ・タバコ等の欧州市場向けの熱帯農産物を生産させ、それらをオランダの王立商社が独占的に欧州市場で販売する事としました。


オランダ王立商社

オランダ本国からはごく少数の白人(19世紀半ばで200人以下)しか送り込まずその下にジャワ人貴族を官僚として配置して国家機構を構築します。

ジャワ人貴族

オランダ東インド政府も英国海峡植民地と同様にアヘン請負を始めとする徴税請負制度を導入しました。ジャワにはシンガポールのような中国人苦力はいなかったので既に何代にもわたってジャワに居住していた中国人が請負業者となりオランダ東インド政府がインドから輸入したアヘンをジャワ農民に販売しました。

ジャワの中国人商人

ジャワのアヘン喫煙者

そこで問題になったのはアヘンの密輸でした。オランダ東インド政府はインドから輸入したアヘンの政府卸価格を英国海峡植民地におけるアヘンの販売価格の2~4倍にしていたのです。アヘン請負の成否は請負業者が密輸業者を排除して市場の独占を維持出来るかどうかに懸かっていました。その為中国人のアヘン請負業者はジャワ人貴族の内務官僚と誼(よしみ)を通じ内務官僚の手先となる"ヤクザ"を使って密輸アヘン販売を取り締まりました。

勿論中国人は内務官僚とヤクザに賄賂を支払います。英国海峡植民地では中国人の秘密結社が裏で経済を回していましたがオランダ東インドでは中国人アヘン請負業者とジャワ人内務官僚及びその手先のヤクザが裏の経済を回していたのです。

"多中心の地域だった東南アジアから国境線によって分割された植民地世界への移行"の例として中公新書の「海の帝国」でもう一つ触れられているのがフィリピンです。19世紀前半の"イスパノアメリカ独立戦争"によってラテンアメリカの植民地を失ったスペインにとってフィリピンは残された最後の植民地でした。

オランダ東インド政府の採った戦略は強制栽培制度・貿易独占・徴税請負でした。ところがフィリピンは18世紀後半にこれを一度試みて失敗していました。理由は二つあります。

一つはカトリック教会です。地方行政に大きな力を持つフィリピン各地のスペイン人教区司祭が抵抗したのです。

もう一つの理由は以前の投稿"フィリピン華僑"でも触れた"メスティーソ"です。メスティーソとは"混血した者"という意味です。この"メスティーソ"という概念はラテン・アメリカから持ち込まれました。オランダ東インドでは中国人と原住民の間に生まれた子供は中国人とされ彼等が徴税請負を行ったのですが、フィリピンでは中国人に徴税請負をさせても世代を経るとメスティーソ(=現地人)になってしまいます。搾取する者とされる者の両方が現地人だと上手く行かないのでしょうね。

なのでフィリピンは已む無く開港して関税収入に頼る事となりました。その結果フィリピン経済はシンガポール・香港を中心とするイギリス自由貿易帝国に組み込まれます。フィリピン貿易は英国人商人や中国人商人の支配下に置かれるのですが彼等に砂糖・マニラ麻・アイ・米等の輸出作物を供給した地方商人はメスティーソでした。彼等は徐々に力を付けやがて19世紀末に大土地所有者メスティーソの中からフィリピン人エリートが登場してスペイン支配に挑戦する事になります。

さて今回の東南アジアの成り立ちのお話はここまでです。楽しんで頂けたでしょうか。19世紀末の東南アジアには英領ビルマ・仏領インドシナ・現在タイとなっているチャクリ王朝国家等もあったのですが、白石隆氏の「海の帝国」ではそのあたりは説明されていないので今回は触れませんでした。最初にお話しした様に「海の帝国」では第二次大戦後に米国が主導して東南アジアにおける地域秩序を形成するまでが述べられていますので今回の続きについてはまた機会を改めてお話ししたいと思います。それではまた。

本稿の関連動画を以下にアップしています。良ければご参照下さい。

https://youtu.be/YgyDRqQcXMs

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ドイツ、インド、シンガポール、フィリピン、ロシアに、計17年駐在していました。今は引退生活を楽しんでいます。

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